言葉の哲学

他者から認めてもらいたい
承認欲求

よく使われる言葉だ。

以前は他者というのが誰なのか
決まっていて
親、恋人、友達、上司

しかし承認欲求は広がり
誰でもみんな認めてと両手広げて
わめいている現在。

承認欲求の根本は、幼少期の人間関係が
もとになっているらしい。
よく言われるのは、親に誉めてもらえない経験
とされているが、現在の承認欲求を
見ていると、果たして本当にそうなのか
考えさせられる。

ほぼ過保護状態の関係性がある
人物にも、強い承認欲求は存在していたし
社会生活で芽吹いたように強くなった人もいた。

反対に幼少期に愛を見失った経験がある
人物に承認欲求は少ない場合もあった。

どこで承認欲求は強くなり
どこで弱くなるのか?
承認欲求は悪い事か?良い事か?

承認欲求事態に悪さはない。
しかし毒と薬の境界線のように
質と量の問題なのだ。

認めてもらいたい思いが勝りすぎて
自己中心的になり
押し付けや独裁的におちいる
共感や調和がなくなる

何かの感情が特化して高ぶり過ぎたとき
人が弱い部分
孤独、疎外、盲目となる
その先に成功があるのだと言われるが
それが、一番の落とし穴なのだ。

何かを捨て去り前に進む
その感情の高まりの先に向かう。
この言葉を脳内で巡らせると
若さというキーワードが思い浮かぶ

何故か?
感情の高まりの先に失敗や苦い経験が
大体の大人は経験しているからだ。

若さは感情に勝てない、大人は経験から
わかっているので、その穴には
はまらない。

本当にそうだろうか?

願ったことが
30年後に叶うとする。
しかし、30年後に叶う事を人は信じられない。

そのため、考えられる近道を探す

この崖を飛び降りたら
すぐ手にはいるよ‼️と囁かれる

さて飛び降りたらどうなるだろう
願いは、願った形に自分に届いているだろうか
何かを失ってはいないだろうか?
こんなはずではないと思っていないだろうか?

この感覚は若さとは少し違わないだろうか。

感情だけの例え話
成功という何かを作った例え話
言わんとしている事は同じな事に
気づいているだろうか。

視点の違いで伝える元は一緒だ。
待つことが出来ない。
待つ間に必要な自分をつくれない。

待つ、考える事で
願いに合う自分がつくられていく。
失う必要がない願いが手にはいる
もしくはそれ以上のものかもしれない。

なんでもやるなということじゃない
なんでもやって願いに届く間を
無駄にしないという事。

今の幸せは結論じゃない
今の絶望は永遠じゃない

通過点をどう楽しみ、大切なものを
捨て去る前に考える。
その距離を短くすることと比べて
捨て去るべきなのかを。

哲学は答えなき思考の世界観だ。
いつかの答えのために今を考えつくりあげる

そんな哲学の話でした。

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