陸を歩く魚

 私が最近の設計課題でぶつかる壁の、言語化をここで試みようと思う。

 住宅の設計課題のとき、私の作品はリテラルな建築だと最後まで言われ続けていた。
 建築と人が一緒になって生活をすると、そこには建築家の想像の域外で発生する現象が必ずある。どうがんばっても予想できないそれは、芸術作品としては当たり前のことなのだけど、生活や動きに伴って現れるのが建築の面白いところだと思っていて、私はそこを考えるのが好きだった。それを期待していない建築をつくる建築家にだけはなりたくないな、と思っていた。
 そんなことを考えながら課題に取り組んでいた矢先、「リテラルだね」と言われた。リテラルっていうのは、その建築家曰く、「とはいえ」の部分が考えられていないということらしい。言われてみればたしかにそうだった。完全に盲点だった。私の思想が一人遊びをしていたのだった。頑固な涙腺がぷつんと切れるほどのショックを受けていた。私が一番やりたくなかった建築をしてしまっていた。
 唯一褒められたと捉えられるかもしれない言葉があったのは、それもまたとてつもなく屈辱だった。でてきた造形について、センスがある、と言うのである。





才能は、努力じゃない。
努力は、才能じゃない。

努力で生まれたものだと思ってたものが、
世間一般からしてみたら、才能だといえるものだったとき、そう表現されたとき、私は自分を疑ってしまう。
努力ではなかったのかもしれない、と。

教授らはこう言っているように思う、
貴方の言葉で説明されなかった貴方の建築から私が読み取った旨みは、まさにその通り、設計者の貴方自身が言葉にうつすことができなかったもの、すなわち論理の中に在るものではない、無意識のうちに出てきたもので、拾われて良かったと思える偶発的な産物なのだよ、と。

努力では、得られないもの。感覚的な造形力。

私はそうではないものだと思いたかった。
努力で生まれたものだと思いたい。

そんな気持ちとは裏腹に、私の作品群は、望んだ形では評価されない。予想外の方向で捉えられてしまって、それが評価に繋がっていく。

別に悪いことじゃない。
作品の良さがさまざまな方向から拾うことができるのは、伸び代ともいえるし、気付かされる、いい機会になる。

今の私はどうしても、まだそれをコントロールすることができない。
今の私が、全てを制御しようとすると、支配しようとすると、その作品は、リテラルであることを極める方向に向かってしまう。
なんとなく、を避けた結果、全てに手が回らずに、カチコチになる。

コントロールしないといけないわけではない。

そういう評価のされ方が悪いことではないのはわかってるけど、
私は、すごく不安になる。



感覚は大事だ。
でもそれは、私のものではないと思っている。
建築は、そうあってはいけないと思っている。
だから、私のものにしたくない。
美しい建築とか、良い感覚とか、よくわからない。
建築にエゴは必要ない。
私は今のスタイルが好きじゃない。

変えようと思ってチャレンジしても、どうしても隙間から溢れ出てしまうセンスはどうしようもないから苦しい。
そしてそれを褒められてしまうのがとてつもない屈辱だ。



すごくいやだ。

褒め言葉って、嫌な言葉ばかりだ。
何かを無碍にされているような、息苦しい気持ちになる。

いいなぁ
ずるい
センスがいい人なんだなと思いました
美しい建築だと思います
あなたは設計が上手いです
造形力は信じてるので
センスがいいから、いいものがでてきてるけど
こういうとこだよね、やっぱ
センスいいなあ
造形のセンスはあるけど、これは建築じゃなくて彫刻的な魅力だからね



すんごく嫌だ。


講評するなら、大きな言葉で丸めないで、それがなんなのか、教えてほしい。
丸まんないから!どう頑張っても、私の作品は丸まんないから!!
そんなの建築家が一番わかってることなんじゃないのって聞きたい
聞くか、今度。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?