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デニス・ボック『オリンピア』を読んで

 1936年のベルリン・オリンピックから92年のバルセロナ・オリンピックまでを後景として、三代にわたるアスリート一家のフラジリティ溢れる苦悩と救済のファミリーヒストリーが描かれている。アスリートの物語といっても「友情・努力・勝利」の『週刊少年ジャンプ』系スポ根派書物ではない。ふたつの世界大戦が濃い影を落とすドイツ系カナダ人一家の、誰も望んでいないのに段々と内側から破れていくよう定められた「水と風の運命」に静かに抗う日々を、詩情豊かで静謐な彫琢された文体によって細部まで浮かび上がせた。

 主人公の祖父母の昔日の姿やベルリン五輪に断片的に触れた各章のプロローグは、この物語に「球体の箱庭」のような立体感を与えている。読み進めると、闇の中に浮かぶ球体が光源に照らされている様が想像された。光の当たっていない部分は真っ暗で見えないがちゃんと存在しているのを感じる。光に照らされた部分を著者が描き出したのが本書であり、今はみえていない領域も光の照射の仕方次第では姿を現わすような気がした。そして、みえている部分とみえない部分の間には、かろうじてみえる「薄明のゾーン」があって、私たち読者はそれをプロローグというかたちで読んでいるのだとおもった。

 レアード・ハントの『インディアナ、インディアナ』のような静謐で詩情溢れる文体と、場所と時間の設定が異なる複数の章を描きながらも通底するモチーフやイメージの魔術的な力によって物語全体の統一感を失っていないマラパルテの戦争文学『壊れたヨーロッパ』の知性が組み合わさったような稀有な物語に思えた。私がそう感じたのは、年始から現在にかけて『インディアナ、インディアナ』→『壊れたヨーロッパ』→『オリンピア』と海外文学を読み進めたからで、読み手毎に違ったいろいろな連想が促されるにちがいない。なお、『壊れたヨーロッパ』のことを知ったのはミラン・クンデラ経由で、実際に読んだのはウクライナとガザのことがあったからだ。

 これまで通ってきた映画のさまざまな場面が不思議と思い出された。浮遊する肉体や風、水浸しの廃墟(タルコフスキー)。敢えて逆光で撮影された自然光と人のシルエット(テレンス・マリック)。自転車が線路を横切る音、石畳に響く足音、風に靡く長い髪(ホセ・ルイス・ゲリン『シルヴィアのいる街で』)。爆竹を鳴らして遊ぶ少年たち(ジャスティン・カーゼル『ニトラム』)。風に舞って生き物みたいにくるくると這う落葉(ヴェルトルッチ『暗殺の森』)、丘の上の石造りの家に風が吹くと揺れる白いカーテン(ビスコンティ『山猫』)。
 ほかにも、W・G・ゼーバルト『移民たち』、ポール・オースター『最後の物たちの国で』、クロード・ルルーシュ『ある秘密』、カズオイシグロ『私を離さないで』、シュレンドルフ『ブリキの太鼓』、プピ・アヴァティ『ボローニャの夕暮れ』、『中勘助短編集』、フリオ・メデム『アナとオットー』といった映画や本のことが頭の中をよぎった。中には内容はすっかり思い出せないもののタイトルだけは記憶に留めていて、どんな連関があるのか再読・再視聴しないとわからない作品も含まれている。
 いずれにせよ『オリンピア』には連想を促す強い力があるのはまちがいない。過去の体験や忘れていた記憶であったり、私たちが見知っている情景に似ていると読者が思い至るように、デニス・ボックは細部を組み合わせて緻密にこの物語を構築したのだろう。

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