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心の中身

心はどこにあるのか。
心は何か具体的なものなのか。
心がなければどうなるのか。

体は傷ついていなくても心が傷ついたとも言う。
でも、心の実体は、はっきり分からない。

ひどく心が傷ついて、何もかも嫌になって、生活が荒んでしまったり、日常生活に支障が出ることもある。そんな時でもたいていの場合は、時間が解決したり、なんやかやでまた回復する。
それならば、さっさと回復できればいいのに、とも思う。回復までの過程で、得難い経験をしているのか。

心が何なのか、はっきりとは分からないが、心が傷ついてしまうと、自分がグラグラする。
気の持ちようともいうが、確かに、同じことをするにもその時の気分や心の有りようでずいぶん違う。

自分でそれをコントロールできるようになれば、心が傷つかなくなるのか。そうすると、ずいぶん安定した生活になるだろう。
日頃、肉体よりも心に負うケガの方が圧倒的に多いように思う。

心のゆらぎ。
そのゆらぎが人間的な魅力にみえることもある。
それに心が揺さぶられることは、悪いことだけではない。感動して心が動かされることもある。生まれてきて良かったと思えるほど、心が震えることもある。そういう、大切な経験が心をつくっているのか。または、辛い経験や悔しい、恥ずかしい出来事。許し難い出来事も。

自分の心がどこにあるかも分からない。
心がどんなものかも分からない。
でも、そのようなものがあるから、日々右往左往しているのだろう。
願わくば、心の中身が明るくあたたかなものでありますように。
これも、全く曖昧だな。
明るさの基準も、あたたかさの基準もそんなものはない。
全て自分が決めることだ。
だったら、自分が好きに作ればいいんだ。私の心を。ルールもない。自由な世界だ。

心の中身は自分で決めればいい。
そして、自分自身もその時々で変わってゆく。
その時々の自分が持つ心というもの。
点々と散らばる自分の心。
上書きされているのでもなさそうだ。
いや、人によっては上書きされるタイプの心もあるかもしれない。
古い心を忘れられず、とらわれてしまう人もいるかもしれない。

厄介なものだ。
心の中身が空っぽならば、どうなのか。
傷つかないかもしれないし、身軽かもしれない。
ただ、心の中身が何もなければ自分である必要があるだろうか。

生きている限り私とともに時間が経過していく。
現在の心。
振り返った先にある心。
そして、刻一刻と生まれるその時々の心。
時々整理しながら、好きなようにつくっていく。
私は、自分で決めていく。