アダム ―天使よりも賢いが、まだ未熟だ―

 人は、すべての生き物に先立って、粘土から創造され、神の命の息を吹き入れられ、生きる者となった(創世記2章4節-25節を参照)。終日をぼんやりと過ごすのではなく、ある仕事に従事すべきだと神は考えられ、東の方のエデンに庭を造られた。人はそれを耕し、守らなければならなかった。しかし、毎日働いて、誠実に仕事をこなしていた彼は孤独であった。

 これを見た神は、救済策として野のあらゆる獣と空のあらゆる鳥を創造し、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。興味深いのは、神は人にそうするように指示されなかったことだ。自然に人が目の当たりにする新しい生き物に名前をつけてくれるだろうと思っておられたからだろう。神の期待は裏切られなかった。

 人はたちまち生き物に名前をつけはじめた。残念ながら、すべての生き物の中で彼の孤独を終わらせるものは一つもいなかったので、女の創造によって初めてこの目標が達成された。最初の人はヘブライ語を話し、当然、生き物にはヘブライ語の名前をつけた(セビリャのイシドールス、『語源(Etymologiae)』XII.I.2参照)。ユダヤ教のある伝統によれば、彼は優れた洞察力を持ち、それぞれの生き物の本質を見抜いて、それを反映したヘブライ語名をつけた。

 このように人は土を耕しただけでなく、並外れた文化的偉業も成し遂げた。それは天使たちにもなし得ない(ミドラシュ『創世記ラッバー』17:4)、ひょっとすると彼らに嫉妬心を起こさせた偉業であったかも知れない。『アダムとエバの生涯』の物語によると、その嫉妬は人間の堕落(原罪)の要因になった。

 驚くべきことに、神は人間にエデンの園の世話を任せただけでなく、創造的な行為、つまり生き物に名前をつけることも期待していたのだ。中世のアバディーン動物寓意集(Aberdeen Bestiary、12世紀)は、セビリャのイシドールスの『語源』XII.I.1に基づいて人が体系的かつ的確に生き物を命名したことを述べる。つまり最初の人は、あらゆる動物分類学者より早く生き物の世界秩序を明らかにできた。以下の挿絵が添えられた。

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 猛獣、家畜など、全ての生き物が綺麗に分類されている。本来、生き物を命名したアダムはまだ裸なはずだが、服装、祝福のジェスチャー、そして椅子に座っており、自分が自立し、自信に満ちた者であることを示している。その姿は、創世記3章のアダムの姿とは対照的である。そこでは、アダムは恥ずかしいことに、神の戒めを破った責任を、自分の孤独を終わらせたエバに転嫁した。そのいい加減な言い訳は失楽園という悲劇の発端となった。生き物と同様に植物にも注意を払っていれば、あの林檎をかじらなかっただろう。

 私たちは、アダムの過ちを大目に見て、教養と博学多識が重要であることを確認しなければならない。しかし、知識の裏を探ることも忘れてはいけない。その三つの相互作用によって初めて、私たちが生きている世界を十分に把握することができるのだ。その上、特に今日において盛んになっている陰謀論(conspiracy theory、権力者共同陰謀論)に対する免疫力も身につけることができる。更に、多くの失敗を避け、自分の罪悪感、欠点と上手く付き合い、謙虚に責任をとれる者になるためには、倫理的思考を養い、倫理観を身につける必要もあるのではなかろうか。教養と謙虚さと信頼とは、社会の一員として共同生活を送る上で、何物にも代えがたいものであり、欠かせないものである。

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