一般化されたくないという話

20歳の誕生日に当時付き合っていた人に振られたという経験がある。実は突然という話でもなくて、頭に血が上りやすいタイプで(相手が)、時折喧嘩を繰り返していた。数か月おき(時には一か月おき)に開催されるその喧嘩が私の誕生日にたまたま重なってしまった、というだけなのだ。私は当然ショックを受けた。なぜなら、別れてしまったという事実に加え、「相手は何回喧嘩しようと結局私のことが好きだ」という仮定のもとその人を好きでいて、それが「誕生日に振られた、しかもハタチの」という衝撃的な事実で覆されてしまったと言わざるを得ないからだった。(「普通」、好きな人をその人の誕生日(しかも、人生の節目の)に振るだろうか?いくら短気でも)
実際、プライドとか無視して言うと、正直かなり好きだった。どれだけ好きだったかというと、どこが好きなのって聞かれたらどう答えたらいいのかわからなくて結局「全部が好きだ」と答えていたのだが、それを相手に言ったときに満足げな表情をする。相手の顔にその時できる笑いじわの、鼻の横から口角を繋ぐ線までもが愛おしくて、もはや恋愛というよりかは崇拝の域だった。

それで、私は別れた後その一連の流れがなんだったのか見つめなおす作業に入るが、結局一般化されて出る答えは「クズに振られていつまでたってもかなり引きずっている、女」ということだ。最近はこれを逆手にとって酒の場の鉄板自虐ネタにして笑っているが、私はその一般化のせいで泣けない。私はその過去を成仏できないのかもしれない。(ネタにして笑っている時点で成仏できているのかもしれないという意見はいったん置いておく)私は元来そういった「かれぴっぴに振られたことをいつまでたっても若い邦ロックのメロディに乗せて悲しがっている、タバコを吸っていることをステータスにしている女」というものを嫌いに思っている。嫌いというよりかは、「なりたくない」と思っている。私がその過去に泣いてしまうと、私が嫌いなその女になるのだ。酔っているという言葉がふさわしいような。

脱線したが、とにかく私は一般化されたくない。私のこのような悲しい経験を、一般化して「だれにでもある話」として「心から(酒の場だけではなく)」鼻で笑えるほど傷は乾いていないのだと思う。論理に感情が追い付いていない。正答はもう出ている。あとは自分の傷を乾かすだけ。それだけ。

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