カウンセリング/17回目
前回からの振り返りと報告
・父を嫌いだったという気持ちを自分の中で認められるようになってきた。
・最近の嫌だったことについても、ただ「嫌だった」と受け止められるようになった。
・父を嫌いだった半面、父のことを可哀想だと思う気持ちが出てくる。
父のことを可哀想だと思う
父のことを嫌いだったという気持ちは、自分の中で認めることができたと思う。そりゃあ嫌だったのも当然だ、あんな子どもっぽい父親。
そして、そのことを考えると、心の片隅に「でも可哀想」という気持ちが出てくることに気づいた。それは、今までさんざん向き合ってきた「親の精神的な面倒を見てしまう」ということにつながっている。
父は家族の中でひとりぼっちで、誰からも好かれていなかった(と私には見えていた)。母はいつも「自分が正しい」というスタンスでいたし、弟が小さくいつもそばにいたので、ひとりぼっちではなかった。父には誰もいないから、私が嫌ったらかわいそう。そんな気持ちだった。
でも思えばいい大人のくせに、小さな子どもにそんな風に思わせるってどうなんだ。私も人の親だけど、自分の子どもからそんな風に思われていたら悲しくて情けなくなるだろう。父はそういう言動をしていたつもりはないと思うけど、なんかズルいよねと感じる。何子どもに気遣わせてるんだよ(勝手に自分でそうしていたのは承知の上だけど)。
結局親の精神的な面倒を見ている。カウンセリングの中で、ここに向き合った。
父と母のことを保護しないといけない存在だと感じる
これは今の両親ではなく、当時の両親に対して感じている。
もちろん、今の両親は年老いているし違う意味でいずれは面倒を見ないととは思うが。
以前にも書いた記憶があるが、「今の自分が当時のいろんな年齢の自分を家の中から連れ出して、みんなで当時の両親にお別れをして家から出て行く」というワークがあったのだが、それがどうしてもできなかった。
置いて行かれる両親のことを思うといたたまれなくなり、涙が出てしまう始末だった。今もまだうまくできない。
カウンセラーに「もしも両親の精神的な面倒を見るのを止めてそこから立ち去ったら、どうなると思いますか?」と訊かれて考えた。
そうしたら、両親は喧嘩をしてお互いに傷ついて、というのを繰り返すだろう。今の私の視点が入っているのかもしれないが、当時の両親は頼りなく危なげな、保護してあげないといけないような感じに見える。
保護して面倒を見ることで、両親が喧嘩せずに済むようにコントロールをしたいと思っている。何のために?私が安心するために。
とにかく喧嘩をして欲しくなかったし、不安定になって欲しくなかった。そうしないと私が怖くて不安になってしまう。
それだけ両親の喧嘩が怖くて嫌だった。
両親が喧嘩していた時の怖さに向き合う
両親が喧嘩している時は、怖くて毎回固まっていた。やめてと言ったり叫んだり泣いたりしたことは無かった。テレビを見たり、自分の好きなことをしたりということも無かった。とにかくフリーズして、喧嘩の行方を黙って見守っていた。
その時の感覚は、激しい動悸がして足元がぐらつくような感じだった。自分一人で立つことができないような気持になって、誰かに助けて欲しいけど、誰にも助けてもらえないともわかっていた。
今回の喧嘩でいよいよ破局かもしれないし、どうなるのか分からないという恐ろしさもあったけど、とにかく両親の怒鳴り声が怖かった。
ここで気づいたのだけど、自分の動悸の激しさや足元がぐらつくような感覚を味わいたくない、というのが一番あった。だから喧嘩して欲しくない。
それ以外のいろんな怖さも嫌だったけど、あの感覚がきつかった。
そういえば、震災の時や飛行機で乱気流に遭った時にも同じような感覚があった。ということは、両親の喧嘩の時にも生命の危険を感じているような気持ちだったのだろう。
そのせいかどうか、私はこれまでに喧嘩をしたことがない。夫とは2回ぐらいあるが、その時には「こいつとはこれっきりの関係になっても構わない」という気持ちになっていたからだった(それでも動悸がして怖くてたまらなかった)。
子どもの前で喧嘩しているところを絶対に見せたくなかったせいもある。ただ、喧嘩の仕方がわからなかった。
ぶつかる前に、相手を遠ざけてしまう。自分の気持ちの伝え方もよくわからないままだった。関係が深くなる前に面倒になってフェイドアウトするのが常だった。
この怖さに向き合って、子どもの頃の自分を受け止めていく。
毎回あんな動悸を感じていたのだから、そうとう頑張ってきたと思う。
今はもう安全だし、ここまで無事に生きている。怖かったけど、もう怖いことは起こらないんだよ、と自分自身で納得していく。
怖さは感じて受け止めたら、そのうちだんだん消えていく。
「悪い子」とは
私がよく親に言われていた「悪い子」という言葉は、ずっと私の自己否定の元になっていた。二言目には「でも私が悪い子だから」「私が悪かったから」と思ってしまうことが癖になっていた。
でも、「悪い子」って単に「親にとって都合の悪い子」というだけだったんじゃないのか?それに、悪い子でもいいのでは?そのままでもよかったのではないか?私に落ち度も反省する点も無かったのでは?
向こう側(両親)の言い分だけで自分をダメだと思い込み過ぎだったんじゃないか。
私は自分を「悪い子」ではなかったとは思えるようになった。
でも、それも違うのかもしれない。「悪い子」だっていいじゃないか。それは親の尺度で勝手に決められたレッテルで、私には関係が無い。いい子でも悪い子でもなく、単に家庭環境のせいで不安定で怒りを抱えていた私がいた、というだけだったのではないかと思う。
辛かったことは別にしても、あのままの私で大丈夫だったんだと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?