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カウンセリング/13回目

前回からの振り返りと報告

・親に気持ちを分かってもらえなかったことについて、自分の気持ちに向き合ったこと
・最近、現在の自分は楽になってきたこと
・バテ気味で体調を崩しかけ、母への気持ちが出てきたこと


自分の変化と夫の変化

ここ最近、自分の気持ちが前よりも楽になってきたように感じている。
家族に対してもだいぶ変わってきたと思う。
夫に対する強い怒りや、介入されて思い通りに操作されるような気持ちは、今の時点ではほとんど無くなった(また何かの時に出てくるかもしれないし、そういうものだと思っている)。父の過干渉に対する閉塞感や怒りに気づいて向き合ったことが関係していると思う。夫は父ではない。父のように私を扱うことはしないことが腑に落ちた。

夫の生活に対する態度やだらしなさについては、特性もあるだろうということは前からわかっていた。もちろん私に負担が来るときは腹が立つし鬱陶しいとも感じる。それはそれでいいと思う。無理なものは無理なのだ。「いやー、ほんと腹立つよね何あれ!」と自分自身の気持ちを受け止めたら楽になる。だって無理だもん。夫を理解して受け止める?そんなことを私自身は私に「本当に」させたいのか。したいのか。いや、したくない。自分にダメ出しして、自分を抑え込んでまでする必要は無いと思う。

夫に対して「(特性で困りごとがあるのに)努力しているんだね」と口に出して言うことはまだしたくないが、心の中ではある程度認められるようになった。悪気はないし、おそらく夫なりに四苦八苦している。しんどいことだってあるだろう。私には無理なものは無理だけど(いい言葉だ)、夫も夫で精一杯夫の人生を生きているんだな、としみじみ思う。腹立つことも多いけれど、それはそれ。

夫とは特に仲良くするとか、前よりも話しかけるとかデートするとか、そのようなことは一切していない。ただ境界線を引いて「夫は1人の人間として生きている」ということを尊重して認めるようになった(前は思い通りにしようとしてきたし、それは1人の人間として認めていなかったのと同じだったと思う)。

夫は自分でこつこつと通院と投薬を続けている。その話を聞くと、主治医と信頼関係もできていて、治療についても前向きだった。最初の頃は「心の病気なんかで薬を飲む自分」に対して絶望していたのに、変われば変わるものだと思う。この2年で、家族全体がどん底を経験して全員が成長しているのだと思った。夫はだいぶ回復し、秋にはもともとずっと話に出ていた単身赴任をすることになった。夫のやりたい部署に移ることができて、本人もホッとしている。まあこれからも山あり谷ありなのかもしれないけど、今の夫なら大丈夫だろうと思える。単身赴任先には夫の実家もあるし、私はちょいちょい夫に会いに行こうと思っている。

今は、夫は父親としていてくれてよかったと心強く思える存在になっているし、あのどん底を一緒に潜り抜けた戦友のような感覚でもある。夫婦のことはわからない。そして、それぞれに形があると思う。多分、少し距離が空いた方がいい2人なのではないかと思っている。

カウンセラーには「子どもの頃の感情が少しずつ癒されてきたみたいですね」と言われた。本当に少しずつだと思う。それでもとてもホッとしている。まあ、腹立つことはあるけれど、にんげんだもの(by みつを)。


河合隼雄に癒される

ここのところずっと河合隼雄を読んでいる。「こころの処方箋」から「心理療法序説」まで、片っ端から読み漁っている。淡々とした文体に癒され、いろんなことを教えられている。とても心が安らぐ読書時間になっている。

河合隼雄がよく話す「コンステレーション」について、自分なりに深く納得したことで家族に対する気持ちがますます楽になった。
自分がその物事に関係のない外側に出て、誰かや何かを「操作」して「どうにかしようとする」のではなく、自分もその物事に含まれていると捉えること。物事の因果を考えるのではなく、「意味」を考えること。
「こうなったのはあのせいだ」ではなく「こうなったことは私にとって何の意味があるんだろうか」と考える。

うまく文章に出来ないが、すとんと自分の中に降りてきて、家族との間に境界線をすんなり引けるようになったと思う。
人の心は不思議だし、家族というのは厄介なのに深くつながってしまう関係なのだと思った。逃れようがないのだろう。

河合隼雄は知っていたけど、友人が愛読していて読んでみたいと思うようになった。友人に感謝したい。


寂しかった気持ちがようやく出た

今回までに、親に自分の気持ちを分かってもらえなかったことについて、子どもの頃の自分の気持ちに向き合っていた。
私はまだまだ怒りが強く「どうにかして分からせて後悔させて謝らせたい」という気持ちがある。ただ、本当の本当は「寂しかった」「一人ぼっちなんだと思った」という気持ちだったということがようやく出てきた。

確かに一人ぼっちではあった。ただ、自分や親のことを恥ずかしいと思っていたので自分から話そうとしなかったせいもあったと思う。
今の私は一人が好きだし、その方が気楽なのだけど、それは今の大人の私の話だ。子どもの頃の私はさぞ不安で心もとなかっただろう。
子どもの私は、そのことについて親や周りの大人たちにすごく怒っている。少女漫画やドラマにあるみたいに、私が事故に遭ってけがをしたり死んでしまったりして、親に「ごめんなさい、分かってあげればよかった」と泣いて謝って欲しいという気持ちを持っていた。カウンセラーに話すと「すごい怒りと憎しみですね」と言われ、やっぱり怒っているのだと改めて感じた。もっと受け止めてあげなくては。


夏バテと予期不安

この暑さでバテ気味なのだが、先週末は昼寝をし過ぎて夜眠れず(井上陽水のようだ)、寝不足のまま出勤したら体調を崩しかけた。
その時に、一昨年メンタルを崩しかけた時の症状とかぶって、少し怖くなった。その時は結局軽いパニック障害で、予期不安がほとんどだった。夫の主治医に相談して、不安な時に飲む頓服のみを処方されてそれっきりだ。頓服もほとんど飲むことなく過ごしている。
ただ、予期不安を感じるようなシチュエーション(美容院のシャンプーやMRI、歯医者の治療など)は考えるだけで気が重くなる。「やめたくなっても身動きが取れない、その場から移動できない」という状況がとても怖くなる。焦燥感と不安が出てくる。自由になりたいのになれない、という気持ちになる。もともと閉所恐怖症気味だったせいもあるけれど、父に過干渉された時に感じる、まとわりつくような不快感と焦りに似た気持ちになる。

一昨年この症状が出た時、母に電話して不安な気持ちを話し、翌日は実家に泊まって回復した。母は何も言わずに真夜中に電話した私を受け止めてくれて、父も泊まりに来た私を何も言わずに笑顔で迎えてくれたのだった。

この時のことは本当に感謝している。今でも思い出すと涙が出るのだが、子どもの頃にもこうやって受け止めてくれたらよかったのに、とも思う。
カウンセラーに話すうちに、こうやって欲しかったんだ、だからこんなに不自然なぐらい感情が動くのかもしれないと思った。こうやってお父さんとお母さんに受け止めてもらって甘えたかった。
そして、今回バテ気味で少し不安になった時「このまま前みたいな症状が出たら母に電話しちゃうかもしれない」と思った。結局母に頼り、甘えているのだと思った。最後は母なのだ。


自分は愛されていたのかということ

よくアダルトチルドレンに関する記事などを読むと「親に愛されていたことを知る」とか「愛されていなかった自分を認める」とか、そういった内容を見かける。
「必ず愛があったんですよ」とかいうのも不自然で受け入れがたいが、自分自身は親に愛されていたのだとは思っている。こうカウンセラーに話すと「なぜ愛されていたと感じるのですか?」と訊かれた。
それは…上に書いたように、私が困った時に助けて支えになってくれたりしたことは、小さい頃から何度もあったこと。そして、大人になるまで私を育ててくれたこと。悪いことばかりではなかったし、いい記憶もある。そのことからも愛されていたのだと思っているからだ。

すると「それは大人のあなたがそう思っているということですよね」と言われた。確かに、今の私はそう思っている。親になってみて、改めてそう思うからだ。
「子どものあなたはどうでしょう?そう思っていたと思いますか?」
分からない。あんなに怒りを感じていた自分がそんな風に物わかりよく考えていたはずがない。そして、愛されていたと感じていたのなら、ここまで感情を溜め込むはずがない。愛されていたとは感じていなかっただろう。

今私が「愛されていたよね」と思うのは、大人の自分が思っているだけなのだった。それを今の状態の子どもの私に分からせようとしても、それは物わかりのいい綺麗事で子どもの私を言い含めるに過ぎない。それでは子どもの私は満たされない。
「愛されていなかった」と感じている私を認めて受け入れて、信頼関係が出来てから初めて「あのね、でも愛されていたんだよ」と教えてあげることができる。
なので、今私が「愛されていたのかどうだったのか」をあれこれ考えても仕方ない。それで楽にはならない。事実と子どもの頃に感じていたことは別だからだ。

これで「愛があったよね問題」には自分の中で決着がついた。まだまだということだ。


必死にバランスを取ってきた自分が愛おしい

思えば、これまで安心したかったり自分の怒りのはけ口にしたりするために、強迫神経症のような症状が出たりしてきた。
前までは自分がダメ人間で恥ずかしいと思っていたのだけど、自分が壊れないように必死にバランスを取ってきたのだと思う。
私は決定的に自分を持ち崩したり、精神疾患にまではならなかった。きっと一生懸命戦ってきたのだろう。そう思うと、今までよく頑張ってきた自分が愛おしいし労いたい。今はこのことをちっとも恥ずかしいと感じなくなった。むしろ誇らしい。

もしかしたら私の特性もあるかもしれないので、ある程度はこの症状が残ったまま共存していくのかもしれないと最近は思うし、それでいいと思っている。苦しかったり怒りを感じたりすることさえなければ、それでいい。
完全に無くすとか、パッと生まれ変わるとか、そういうことを望まなくなった。グレーでもいいのかもしれない。


絵本を見ても泣かなくなった

カウンセラーに勧められた絵本は、前まで何度見ても感情が激しく動いて涙が出ていた。癒されてきたら感じ方が変わるでしょうと言われていたけど、最近は見ても「こうやって欲しかったし、こうして欲しい」と思ってじんわり来るだけで涙が出るほど感情が動かなくなった。驚いた。
カウンセラーに話したら「そうやって少しずつですよ」と言われた。本当に少しずつ。自分ではほとんど変化など自覚できないかもしれない。

子どもの頃から大好きで、今もずっとしたかったことにシャボン玉がある。今はお風呂や近所(怪しまれない場所)で1人一心不乱に吹いているけど、とても楽しく満たされる。カウンセラーにも「とてもいいと思います。したかったことはどんどんやってみてください」と言われた。
お盆休みは気の済むまでシャボン玉をしようと思っている。







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