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カウンセリング/18回目

前回からの振り返りと報告

・父の夢を見て、感情がとても揺さぶられたこと
・父と母から離れることができそうだと感じたこと

父の夢を見たこと

前回のカウンセリングを受けた日の夜に、父の夢を見た。私はもともと鮮やかな夢を見るタイプで、成人する前は頻繁に悪夢にうなされていた。それでも今回の夢はかなりリアルで記憶に残っているので、書き留めておく。

私は父が自殺したと聞き、父の家へ行った。後になってから知らせを聞いたため、父は既に荼毘に付されており、行政の担当者のような人が数人で父の住んでいた家の片付けを済ませた後だった。夢の中に母や弟は登場せず、父は集合住宅の一室で一人暮らしをしていたようだった。
家の外にはごみ袋がいくつか出ていて、片付けも終わっていた。そんな中、行政の人のうちの1人が私に「これも捨てようと思っていたんですよね」と紙袋を渡してくれた。その中には手紙と綺麗に包んだお菓子が入っていて、私宛だった。父らしく綺麗な手紙とお菓子だったが、既に虫が湧いていた。
ここで目が覚めた。

目が覚めてからしばらくの間、しくしく泣いた。とても悲しかった。
それから数日間は思い出すと強烈に悲しくなったので、何度も泣いて感情を出すようにした。昔から父の夢はよく見たが、いつも悪夢だったので、こんなに悲しい夢を見たのは初めてだった。

この夢は「私がもしも父と母の精神的な面倒を見るのをやめて離れたらどうなってしまいそうか」という私の恐れそのものだという感じがした。
放っておいたらあの2人は喧嘩ばかりする→そのうち別々に暮らす→父が寂しくなってしまう…そしてあの夢のようになるんじゃないかと感じていた。
でも、そういうことは起きていない。父と母は共依存かなとは思うが、今はそれなりに平和に暮らしている。

父のことは嫌いだったが、父の苦しみもわかると思った。
今はもう嫌いではない。

そして、父と母から離れる時、父のことがネックだったのだとも気づいた。母だけだったら「それじゃあね」とイメージの中で離れることができた。父は一人ぼっちだと思っているので、可哀想になってしまうのだろう。
でも、もうそろそろ父と母から離れても大丈夫なのかなと思い始めた。


夫の愚痴が怖い

夫は愚痴や弱音をよく吐く人だ。若い頃は不機嫌な時はそれをダダ漏れにしてまき散らしていた。私はそういう夫が怖くてとても嫌だったのに、離れずに付き合っていた。そして夫の感情まで自分の感情の様にして、どうにかしようとしてきた。境界線を乗り越えてしまっていた。

愚痴や弱音は不機嫌とは違って、怖くないし自分が優位に立てるので、以前までは進んで聞いてやって、アドバイスなんかもしていた。夫にもそういうところがもともとあったのだろうし、それに加えて私の関わり方の積み重ねで依存的な関係が出来上がっていたのだと思う。
これは、両親の感情の面倒を見てきた私が、夫との間でも同じ状況を再演しているということだと気づいた。私が安心したいために、夫のことをコントロールしようとしてきたのだった。

私はもう夫の感情の面倒は見たくない。そうやって私に寄りかかってこようとする夫に腹が立つ。私は今までずっと1人で頑張ってきたのに、お前ばっかりずるいという気持ちもあった。以前うつ病になった時のことを思い出して、また同じようになってしまうのではないかという怖さもある。
前までは気づかなかった気持ちに気づき、過去の感情をたくさん感じてきたせいか、夫の愚痴に対して感情が強く出るようになった。愚痴を聞くのが怖い。愚痴を言ってくる夫に腹が立つ。

こんな時に、ちょうど夫が「仕事のことを愚痴ってもいいかな」と言ってきた。表向きは平気な顔で「いいよ」と言ったものの、心の中は怒りと怖さで大荒れだった。ただ愚痴をふんふんと聞くだけなのに動揺がひどい。
愚痴の内容は、愚痴というだけあってしょうもないものだった。ただ聞くだけで夫は気が済んで部屋に戻っていったのだが、途中で何度も怒りを感じたし、「こうしたらいいのに」とアドバイスしたい気持ちになった。コントロールして、私の安心できるようにしたい。

カウンセラーに話していて、これは私の中の子どもの部分が怖がって怒っているのだとわかった。過去の記憶や感情に結び付けて反応している。
こういう時は、子どもの自分の気持ちを「怖いんだね、怒っているんだね」と受け止めて感じてから「愚痴は聞かなくていいんだよ」と言ってあげる。
愚痴を聞く役割は、「大人の私」が負う。子どもの私は守ってあげる。
なるほど…自分の中の子どもの部分はこれから養育していくのだけど、子育てと同じようにしていくらしい。怖がっている我が子に一緒に大人の愚痴を聞かせる親は嫌だ。
愚痴を聞くのは、大人の私の役割なんだと思ったら、怖くなくなってきたかもしれない。次回やってみようと思う。


私の子どもの部分の扱い方を知る

日常で感情が高ぶる時は、子どもの自分が反応していることが多いのだそうだ。その時はその気持ちをちゃんと受け止めていくことが必要とのこと。確かに、子どもが何かを訴えている時に無視する親だったら辛くなってしまう。私は私の子どもの部分の親なのだ。

私は毎晩ドライヤーで髪を乾かす時、急に強い怒りが湧く。あの怒りって何だろうとカウンセラーと話していて、「眠いし面倒だなあと子どもなら思いますよね。髪の毛乾かすのを嫌がる子どもはよくいますし」と言われて、ああそうだ!昔から私はそうだったと思い出した。それに眠いからだ。
そういう時も「眠くて嫌だよね」と受け止め、「大人の私」が乾かすから待っていてもらう。何もしなくていいんだよ、と言ってあげる。

そして、家事についても同じ。頑張ろうと励まして実際にやるのは「大人の私」で、子どもの自分が面倒でダラダラしたくなるけど、大人の私がやるからねと受け止める。頑張った時は、大人の私も褒めてあげる。

子どもの私には振り回されず、ちゃんと話を聞いて気持ちを認めること。
大人の世界の雑務やいろんなことをするのは、大人の私であること。
子どもの私のことは大人の私が守ってあげる。
自立できている人は、こういうことが無意識でできているらしい。と言っても、ほとんどそういう人はいないらしいが。


いい子か悪い子かの両極端で生きている

それから、家事をきっちりやりすぎる問題。毎日掃除をして、シンクを磨いて排水口も毎日洗い、ピカピカにしないと気が済まない。
私はずっとこんな綺麗好きではなかった。大学生ぐらいまではだらしがない部類に入るような生活をしていたし(よく母に怒られて喧嘩になっていた)、結婚後も子どもが生まれるまではかなりズボラで、夫が見かねて掃除機をかける時もあった。子どもが生まれて清潔な環境を、と思ったら、一気に潔癖の方に傾き、鳴りを潜めていた強迫観念が強くなっていった。

こうして、両極から両極へ振れることを繰り返してきたように思う。すごく疲れる。適当に手を抜いたり、必要なところだけをやるというのが難しい。
カウンセラーには「今までいい子か悪い子かのどちらか両極端で見てもらおうとしてきたので、ありのままの自分でいるということが難しいのでしょう」と言われた。

またここでもありのままの自分だ。自分の気持ちに従って「こんな感じでいいかな、これでいいんだ」ということが出来ずに自分を追い詰めてしまう。
母が綺麗好きで「家を綺麗にすることこそ正義」みたいだったのも影響していると思う。いい子=綺麗に片付ける子、という価値観が私の中にある。
ただ、綺麗にするのは気持ちがいいし、私は好きだからやっているという気持ちもある。この折り合いってどこでどんな感じにうまく付けるんだろうか。私は何でもエスカレートして頑張ってしまう傾向があるのは分かっている。ありのまま=ズボラな自分ではないし、難しい。

しんどくなければやっててもいいということなのだろうか?
ここまで書いていて、急に認知行動療法の本に書いてあったことを思い出した。「時間制限をすること」だ。
途中で嫌になってダラダラしてしまうせいで、夜寝るのが遅くなる。そのせいで自分のことが嫌になり、イライラするというのがいつものパターンだった。「自分自身を信用していないから、自分にとって意味のあるゴールをめざしていない」と書いてある。その通りだと思う。
という訳で、22時をタイムリミットに決めようと思う。時間が来たら、家事はそこまでで止めて、自分のために時間を使い夜更かしを止める。
「未完成の仕事から離れる勇気を持ちなさい」だそうだ。今夜からやってみようと思う。


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