見出し画像

カウンセリング/28回目

セラピー、読書、スキーマ療法での気づきを整理する場

まず、前回カウンセリング直後に出てきた、どうにもならない悲しみについて話した。これはEMDR治療の際にもセラピストに話したことだが、おそらくカウンセリングで話したことがきっかけになっているように思う。

結局、悲しみのビッグウェーブは4~5日続き、その後は収まった。今は「悲しいなあ」とは思うものの、穏やかな海のような悲しさになっている。
おそらく、インナーチャイルドがもう観念したのだろうという気がする。
「あーあ、ずっと理想の親を探していたのにほんとうはどこにもいなかったなんて。悲しいよ」としんみりしている感覚がある。
そうだよね、本当に悲しいね。何十年もそんなことやってきたのだから。でも、そうやって生き延びてきたのかもしれない。

カウンセリングで過去の出来事を整理して向き合うことはもう完了したので(つまり脳内のトップダウンで成育歴や感情や認知に向き合うことは終わった)、カウンセリングでは今の自分と子どもの自分がどのように対話して、育て直しをしているかという話が中心になっている。

EMDR治療とセラピー、治療や回復について書かれた本を読むこと、自分でじっくり進めているスキーマ療法で気づいたことや向き合えたことなどをまとめて整理して、話す場になってもいる。
このブログと同じく、アウトプットして自分の中を整理することができるので、もう少しこのペースで続けていきたい。

でも、上に書いた方法もこのカウンセリングでカウンセラーから聞く話も、どれも結局は同じことを言っている。細かい部分はもちろんいろいろと特色があるけれど、結局は同じだ。全て同じ方向を向いている。
このことが私をますます心強くさせてくれている。


徐々に回復してきたのを実感する

近況やインナーチャイルドに向き合っていることを話し(インナーチャイルドはつまり私の中に統合した青ちゃんだったりするのだが)、そういえば家族が私と共に元気になってきたなという事に気づいた。

河合隼雄が「家族というのは一つの人格を持つことがある」と書いていたが、本当に不思議なつながりだと思う。他の家族が回復して、初めて自分も回復するという観音のような人もいるとも書いてあった。
私が関わりを大幅に変えたとか、そういうことではないけれど、おそらく私から発する声色やら雰囲気やらが、何かしら変わってきているのだろう。いい方向に。

自分が変われば家族を思い通りに出来るとか、そういう考え方は好きではない。家族だってそれぞれ違う人間で、違う回復の過程や人生がある。
それでも、何かしら連動するものはあるのだと思った。


「治」はあれから出てこない

前回カウンセリングで、自分に対する恥の感情を川に流すワークを教わった。私の恥の感情には、太宰治から「治」と名付け、それを流してお別れしたというのを前回の記事に書いた。
(ちなみに「治」と名付けたことを話したが、意外そうな顔をしただけですんなり受け止めていたので、カウンセラーすごいなと思った)

自分の感情を観察していて、「治」は次いつ出てくるだろうか、出てきたらまた流すぞと思っていたものの、一向に出てこない。
恥ずかしいと感じるような出来事が無いだけなのかもしれない。なので、ちょっと意外なような、がっかりしたような気分になっている。
カウンセラーは「出来事が起こってないというよりも、回復してきたのでその感情を感じることが少なくなってきているのでは」と言われた。

確かにそうかもしれない。あとは、本を読んで自分の中の「批判家」の存在を意識できるようになったこともあると思う。
結局あれは父や母の声なのだ、と気づき、急に記憶の中で父や母が私に言っていた私についての言葉がバーッと出てきたので書き出してみた。
わかってはいたけど、予想以上に私の内在化された声そのまんまで衝撃だったし怒りが湧いた。

この話をカウンセラーにして、この言葉を言われた頃の記憶を思い出して、子どもの私がどうしてほしかったのかを聞いてから、両親に反論し否定することをやってみようということになった。
このことはEMDR治療のセラピストにも話すので、そちらでも対処ができるかもしれない。

とにかく「まだ小さい子どもにこんなひどいことを繰り返し言い続けて否定しまくったお前らはクズだ」ぐらいは言いたい。子どもの私が当時言える訳が無いし、おかしいと気付ける訳もない。今の私が代わりに言ってやる。

次回も2週間後。
カウンセラーも私も、卒業が近そうだという感じを漂わせつつ終了した。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?