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トラウマについての捉え方とかバウンダリーとか治療の進み方とか

トラウマ=封じ込めた感情ってことか!

何となく、いくつかの記事を読んで思うことを書いておこうかなと思う。
「トラウマ」と聞くと、何となく大げさすぎるような感じがして、ほとんどの人は自分には関係が無いと思うだろう。私もまだたまに「そんな大げさな」とちょっと思ったりする。

いろいろな本を読み進めるうちに、ただ悲しかったり辛かったりするだけではなく、それによって感情制御が未発達であるとか、自律神経の調整をする能力が育っていないとか、いろいろなことが起きているのだと分かるようになった。

事例が凄惨なものが多いため、自分はそんなんじゃないのに申し訳ないような気持ちになったりしていたのだが(悲惨であればあるほどいいみたいな価値観になってしまう)、そうじゃないよなとは思うようになった。人と比べることなど全く意味のないことなのだと。それこそアダルトチルドレン的な考え方だなと気づいた。

とりあえず今の私は「他人のことは知らんがな」というスタンスになった。人のことはともかく、私自身はどうなのか。私はどう思っているのか。私と同じ状況の他人がいて、その人は特にしんどくもないし元気いっぱいだとしても、それは私には関係のないことだ。私がしんどいのならしんどいし、そのことに対してケアできるのは私自身だけなのだから。

で、そんな時にこのポストが流れてきてものすごく納得した。ツリーになっているが、ポストごとに貼っておこうと思う。


なるほど!と膝を打った。そうだ、出来事ではなくて感情だ。だから寄り添って解放していくと楽になっていくのだと思う。傷ついた出来事は変えられないけれど、そこに封じ込めた感情は解き放つことができる。

そしてこれ。


今の大人の私からの視点も大事だけど(EMDRでは、過去の私と今の私の二重の立ち位置で出来事を見る感覚になる)、感じるべきは子どもの私がどういう感覚だったかということだ。大人の私から見たら「それは勘違いだよ、実際は違うんだよ」と思うことでも、子どもの私には脅威であり恐怖であって、生きていけないぐらい辛いことだったことだって当然ある。子どもの自分の視点で感じたことを、大人の私が受け止めて共感して、そうして感情の解放に向かうのかなと思っている。



バウンダリー

これもとてもいい記事を見つけた。バウンダリーについての記事で、前後編ある。寄稿されたソーシャルワーカーの鴻巣さんは、いつも子どもに寄り添う目線で発信されている。

バウンダリーは自分と他者の境界線のことだ。「自分以外は全員他人であり自分じゃない」という感覚は、身についていない人の方が多いように思う。この記事にあるように、学校教育や親とのかかわりがそもそもバウンダリーを侵害するようなものであるし、日本人はこの辺が曖昧な文化なのではないかと思う。もちろん私もバウンダリーはメロメロに溶けていた。これはトラウマの影響もあったので、他の人よりももっとメロメロだったかもしれない。

バウンダリーを侵害され相手から心理的に支配され続けると、バウンダリーの感覚がわからなくなる。そして自分も相手のバウンダリーを侵害して、自分の安心や都合のために支配しようとするようになる。トラウマと同じで連鎖していく。バウンダリーが無いと、他者の責任の範囲なのに自分の責任のように感じてしまい、あれこれ世話を焼いたり過干渉になったりもする。子どもに過干渉する親とか。

よく言われるのが「自他境界がしっかりしている人は、そうじゃない人から見ると冷たく感じる」ということ。私も自分のバウンダリーを意識して他人に接すると、時々自分でもちょっと冷たいかな、と思ったりする。トラウマ治療をする前までは、こういう冷たい自分だと不安になって耐えられなかった。そして、相手のバウンダリーを「良かれ」と思って侵害していたと思う。

記事の後編にある「愛という砂糖をまぶす」というのはまさにそうだと思った。だって子どもを愛しているんだもの、と過干渉する親の多いこと。愛であり支配である、と書かれているけど、両立するのだと改めて思い怖くなった。「愛してる」と本気で言いながらも、その相手(我が子かも)の首を絞めることができるのだな。確かにそういう親はたくさんいる。私もそうだったのだと思う。

相手が嫌だと言っているのに「私は嫌じゃないから」と言ったり、相手が苦しそうでも「私はもっと苦しかった、同じぐらい苦しかった」と言ったりするのも相手のバウンダリーが守られていないことになる。特に恋人や配偶者や子どもと自分を同一視してしまう。違う人間だと感覚的に理解できない。

「私たち大人自身が、子どもの頃からバウンダリーを侵害され続け、その方法を無意識のうちに学び身につけてしまったのだと言えます。」
だから、バウンダリーを侵害する形でのコントロールは無意識に行われる。こうやって育った子どもも、バウンダリーを無意識に侵害する方法を身につけてしまうのだろう。

最近、自分の周りがやわらかい膜で覆われていて、自分以外の他人もみんな同じように膜で覆われているイメージを持つことがよくある。私にとってのバウンダリーのイメージだ。

例えば相手の不機嫌や嫌な言葉は、その私の膜の外側からやって来る。それを自分の膜の中に入れるも入れないも、私の自由だ(たいていは入れない)。「そう思ってるんだね」で終了だ。相手の不機嫌は、相手が自身の膜の中でどうにかすればいい。私は知らんがなである。もしも私が悪いことをしてしまったのなら謝るけれど、それを許すも許さないも相手の問題なので、私にはどうにもできない。

逆に、私が不安だったり嫌だったりすることも、自分の膜の中で起きていることで、私以外の他人には何の関係も無いことだ。それを他人の膜を破って「一緒に抱えてくれ、どうにかしてくれ」と言う筋合いは無い。もしも抱えきれないようなものである場合は、今の私にはそれを一時的に一緒に抱えてくれる人がいる。EMDRやSEのセラピストだ。そこで解放したりしつつ、自分だけで抱えて調整していけるように自分を育てているところ、という感覚でいる。

こう思うと、他人についてのほとんどのことは「そうなんだね」で終わる。笑ってしまうけれど。もちろん、相談されたり気持ちを吐露されたりした時には、膜を飛び越えない範囲で私にできることをする。それ以上のことは、そういった専門の人たちにお願いするのがいいんじゃないかなと思う。冷たいかもしれないが、私のキャパではこんなもんだ。

ただし、我が子の感情調節や協働調整についてはまた別の話だ。他人にはそんなことをしてあげるつもりも余裕も無いけれど、我が子には必要だと思っている。間違っても「愛と両立する支配」にはならないようにする。


治療に時間がかかることについて

最近、本当にここ最近で気づいてびっくりしているのだが、喉の詰まり感が急に無くなってきた。おそらくEMDRでトラウマ記憶の処理をする時などは出てくるだろうけど、日常生活を送っているとあまり感じられなくなってきた。一方、全く改善していない部分も症状もある。一生このままかもしれないなあなどと思ったりする。

この記事は、三森さんのポストで知った。

セラピーに入る前のアセスメントや前準備というのは、すごく大事なのだと思う。安心・安全だと感じられる状態にならなければ、治療は進まないというのはいろいろな本で読んだ。いきなり治療だけしても効果はほぼ無いらしい。自分に何があったのかを自分で把握できていない場合は、そこからになるのかもしれない。

私がEMDRにすんなり入れたのは、セラピストも言っていたけど、既に成育歴を洗い出して「何が自分にとって辛い出来事だったのか」を把握できていたし、記憶がとにかくたくさんあり鮮やかなこと、カウンセリング(トークセラピー)で吐き出し済みだったり、イメージを持つことに慣れていたせいもあるらしかった。生まれて初めて受けるのがEMDRだとしたら、前準備でこれらのことを行う時間が必要だったのかもしれない。

この記事にあるように、今まで誰にも話したことが無い人が、とにかく話をしたくなりそれをまず聴いてもらう場合もあるだろう。私も最初の頃は「とにかく私の話を聞いて欲しい、分かって欲しい」という気持ちが強かったので、カウンセリングで話し尽くしたのは本当によかったのだろうと思う。30時間以上思うままに自由に話したし、カウンセラーは邪魔することなく否定やアドバイスもすることなく、ただただ聴いてくれた。そして、必要な時だけ意見を提供してくれた。当時は物足りないような感覚があったが、あの段階でのベストな相手に巡り合えたのではないかと今は思っている(カウンセラーが自分語りをしたり、変なアドバイスに終始して余計に傷つくという事例を聞いたので尚更そう思う)。

でも、やっぱりどうしても「うわーいきなり治って別世界!」みたいなことを夢見てしまうのはあるあるなのかもしれない。今読んでいるハーマンの「心的外傷と回復」にも「迅速な魔術的な治癒への患者の憧れ」とある。
そりゃあ憧れちゃうけども。そんなものは無いんだよな。

それにしても、カウンセリングは30回以上受けたしEMDRも11回になった。もうすぐ1年になるが、あっという間だった。まだまだ続くだろう。EMDRに関してはあと少しかもしれないが、SEなどで自律神経を調整するのは一生ものかもしれない。それでいいと思う。回復に焦らなくなったことも、おそらく回復してきたからなのだろうなと感じる。


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