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カウンセリング/20回目

前回からの振り返りと報告

・自分の何が恥ずかしかったか、恥ずかしいと思った過去の記憶を改めて振り返ったこと。
・大人の自分の都合ではなく、インナーチャイルドの感情を優先することを経験したこと。


インナーチャイルドの声を優先したこと

前回のカウンセリングの時に、日常の生活で感情が動く時には子どもの自分と大人の自分が対話して、大人のやることは大人の自分が受け持つよ、と分担することを学んだ。
それからもずっと続けているが、だんだんこなれてきているように思う。

ドライヤーの時に怒りが湧いてくる頻度が減った。家事も「やることやって、時間が来たら好きなことしよう」と子どもの自分に話し、大人の自分を自分を励ますことでどちらも納得するのだということを実感している。

そして先日、夫が話を聞いてほしそうにしていたのだが(夫はこういうところは本当に分かりやすい)、ちょうどその日は私は仕事が忙しく、早朝出勤をしたのでヘトヘトで眠くてたまらなかった。自分の中で「もう寝たい、もうイヤ」という気持ちがあるのがわかっていた。
普段なら大人の私が夫の愚痴を聞くからちょっと待っててね、と子どもの私に言うところだが、この時はそれでも納得しないぐらいに自分の感情が大きくなっていた感覚があった。うまく言語化できないが、子どもの私の言い分を優先させて寝てしまおう、という気持ちになった。
そういう訳で夫にはそのまま「もう眠くてヘトヘトだから寝るね」とだけ言うと、夫はあっさり「そうか、お疲れ様」と返事をしてきて、その日の愚痴タイムは無くなった。

なるほど、こういうことか、と思った。罪悪感も何も無かった。自分を優先させるってこういうことなのかと何となく見えた感じがした。


自分の恥の感覚について

カウンセラーに勧められて読んだ本に「中毒性の恥」という言葉があった。読んだ当初はピンとこなかったが、今はそれは私がずっと根底に抱えていた「自分は恥ずかしい人間だ、誰にもこのことを知られてはならない」ちう感覚のことなのではないかと思うようになった。

いつから「自分は恥ずかしい人間だ」と思うようになったのか。

過去の記憶を振り返ると、父や母は怒る時によく「恥ずかしい」「人に見られるから泣き止みなさい」「近所に丸聞こえで恥ずかしい」という言葉を小さい頃からよく私に言っていた。そして、親が喧嘩をしたり仲が悪いことは、親戚にも言わずに黙っていて、仲がいいんですよ、普通の家なんですよと取り繕うことを幼少期から続けていた。
同時に、親からは喧嘩するのは私が悪い子だからだ、私が悪い子でなければいいのに、という言葉もよく言われていた。

という訳で、私にとっては5歳ぐらいから
「仲が悪い家=恥ずかしいことで内緒にしないといけない」
「私が怒られること=恥ずかしいから隠さないといけない」
「私が悪い子であること=恥ずかしくてダメなこと」
という感覚が出来上がっていたという記憶がある。
そして、これらは全て自分がダメなせいだから、自分のせいなんだと思っていた。つい数か月前まで。
悪い子だからダメなんだよ、もっといい子だったら偉そうなことを言っても構わないけど、お前はそもそもがダメだから本当にダメ、という思考回路ができ上がっていた。

今は過去の記憶を棚卸して、自分が悪い子だという強固な思い込みは無くなった。過去の体験を書き出したものを見返しても、不安定で敏感な子どもではあったけど、何も悪いことはしていないと感じた。あんなに安心感の持てない環境なら仕方ないというような行動ばかりだった。
これを全て自分のせいにして自分がダメだと考えるのは、幼児性万能感ということなのかもしれない。それをつい最近まで持ったままだった。

今は、自分をかわいそうな被害者だと思う段階も過ぎて、今まで苦しんできた自分の感情や認知を探るために改めて過去を振り返っている。
ようやくここまで来たね、よくがんばったなあという気持ちになっている。

ただ、まだ恥ずかしい感覚を探って「そうではなかった、私は恥ずかしい人間ではない」と納得するところまではいっていない。
引き続き検証して自分と対話を続けていくことになるのだと思う。


見て欲しい → やらかす → 恥と自己否定の強化、の無限ループ

思春期以降、自分自身の人間関係で「やっぱり自分はダメなんだ、恥ずかしい人間だ」という気持ちをどんどん強化してきたことに気づいた。
よくある女子同士のいざこざでも、私はなぜか矢面に立たされ「やっぱり私がこんな人間だからだ」と毎回思い、どんどん自己否定していった。
そういう私みたいな自己否定の強い人間には、それなりの人間が引き寄せられてくる確率が高いのだろう。後から周りも「あれはちょっと変な子だったよね」というような子がいるグループに、よりによって入っていた。
本当にありがちな揉め事だったりするのだけど、相手を恨むのではなく自分がダメだからということで、自分のことを恨んでいた。

こうやって自己否定も恥も強化されていったものの、いわゆるお勉強ではそれなりに結果を出していた。それは自分を肯定する要因にはならなかったのだけど「自分の価値を上げる」ということに有効なのだということを学んだ。
自分はダメ人間で恥ずかしいけど、そういう外面的なことでそれなりの価値を持てるし、その部分で認めてもらえるんだなと思ったのだった。

こんな状態で20代に突入した。表向きは大学に入り、恋愛をして、楽しく過ごしていた。大学も単位が危うかったがどうにか卒業し、その後氷河期で大変だったがそれなりに仕事もして、海外で暮らす経験もした。
ただ、自分の内側は荒んでいたし、たくさんやらかして親に迷惑を掛け、怒られ呆れられて「やっぱりダメだ、恥ずかしい人間だ」という気持ちを更に強化させる無限ループ期だった。今思い出しても、とてもとてもしんどい。

カウンセラーと「自分でもそんなつもりはないのにやらかすのはなぜか?最初から分かっていたよね?と子どもでも分かることも多かったのになぜ?」ということについて話したが、やっぱり見て欲しかったという気持ちからなんだろう。
いいことだと、そんなに親が振り返るほど見てくれる訳ではない。それなら問題行動を起こして、親に心配をかけてどうにかしないといけないようなことをやらかせば、見てくれる。
ただ、結局怒られて呆れられて、自分自身でもダメな人間だと落ち込むのだから、失敗している。なのに繰り返してきた。
それでも学ばずに見てもらおうとやらかしを繰り返していたのは、インナーチャイルドが暴走していたからだったのかもしれない。

その中には、持病が悪化したまま薬も持たずに海外へ行ってしまい、主治医から「このままだと死にます」と慌てて親に連絡が行き、親と主治医の尽力で渡航先で治療を受けて事なきを得たということもあった。
その時、私は他人事のような感覚でヘラヘラしていた。私が親だったらぶん殴りたいが、自分のことをケアしたり大事にする感覚がよくわからなかった。だから薬もすぐに飲み忘れたし、規則正しく通院することもしなかった。緩慢な自殺みたいな感じだった。これも、結局は親に心配をかけて見てもらっている。

幼少期から体に不調が出ていたが、その頃から親は心配はしていたが、私が満たされて安心できるような対応をしてくれなかったという記憶がある。不摂生のせい、心配をかける子、ということで心配と責められることがセットだった。母もすごく子どもっぽかったんだなと今ではわかる。安心したいから、不安にさせる相手を怒るというのは私にも心当たりがある。

でも、結局は満たされない。
本当に私が心の底から欲しいものではないし、それは幼少期に満たしてもらうものだったので、それを後になって変な気の引き方をしたとしても満たされるわけがないのだ。


暗黒の20代を総決算

自分でやらかしておきながら満たされず自己否定と恥を強化し続けていた20代を振り返り、その時の自分の感情と対話していくことが必要だ。
正直、すごくキツい。私にとっては、外部(親や周りの大人など)が原因で苦しんでいた幼少期の方がまだ振り返るのに抵抗は少ない。
自分のやらかしに直面するのは本当に恥ずかしいし情けないけど、あの頃のどうにもならない感じは、ちゃんと見てあげたい。子どものままで頑張って、混乱していたのだと思う。

20代の私もよしよしと慰めて「大変だったね。もう大丈夫」と言ってあげたい。




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