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EMDR/7回目

オソノさんは母親代わりから相談役へ

3回目のEMDR治療の際に、情動を助けるリソースとして「魔女の宅急便」のオソノさんとその夫のパン屋さんを親代わりにして、一緒に暮らしているイメージを透明なボールに入れて私の胸の中にしまった(書いてて意味不明な感じだが、私の中ではちゃんと腑に落ちている)。
そして、日々そのボールを取り出しては眺め、子どもの頃にして欲しかった関わりをオソノさん達にしてもらってきた。

最近になり、このボールの中のイメージにしっくりこなくなってきた。オソノさんは母親というよりも、受け止めてもらえる相談役のような感覚に近い。そして、いつの間にか現在の大人になった私が、このイメージの中で小さい私や弟に愛情を注ぎ寄り添う存在になっていた。オソノさんには、私が小さな私や弟のどちらかの世話をしたり抱っこしたりする時に、もう片方に寄り添ってもらう。申し訳ないが、夫のパン屋さんはいつの間にかイメージからいなくなっていた。

今の私が、小さな私に寄り添う。これがいい。弟にも愛情を注ぐことができる。
このことをセラピストに話すと「いいと思います」と言われた。自分が親の代わりになって、小さな自分に愛情を注ぐというのはいいことなのだそうだ。


処理をした過去のイメージには必ず大人の私がいる

そして、これまでに治療で処理をしてきた記憶を思い出すと、どの記憶とも距離を置くことができているような感覚がある。もちろん全部嫌な気持ちにはなるが、それは当然のことだ。そして、どれにも過去の私のそばに今の大人の私がいて、助けているイメージに繋がっていることに気づいた。

「私は私でいい」と一緒に叫んでいたり、母を押しのけて連れ出して一緒に遊んだり、記憶を処理した時にイメージした大人の私が、子どもの私を救うために結構やりたい放題やっている。子どもの私は「大人の私がいてくれるから大丈夫。私はこのままでいいんだ」と安心感を持っている。

こんなんでいいんだろうか…?とセラピストにこれも聞いてみたところ、ニコニコしながら「いいですね。それでいいと思いますよ」とのことだった。そうか、いいのか。

今の私は、子どもの私に寄り添うことができる、助けることができると感じている。私自身のことをそのまま受け止めることができるのだと自信を持っている。子どもの私のお母さんになり、安心させてあげたいと心から思っている。自分の成長を感じる。


弟に対する強烈な罪悪感と加害に対する恐怖

ここ最近でフラッシュバックになったのは、弟に対する罪悪感や加害に対する後悔や恐怖の感情だった。小学生の頃、弟を階段から突き飛ばしたことがある。幸い弟はうまく受け身を取って転がって落ちていき、怪我一つ無かった。

でも私は強烈に覚えている。弟の恐怖の目や表情(弟もトラウマになっているのではないかと思うと辛い)、後悔と恐怖と罪悪感。そして、加害者なのに何恐怖とか言ってんだよ、という批判家の声もすごい。

あの時もしも弟が大怪我をしていたら、と思うと怖くて涙が出て止まらなくなる。ごめんなさい、許してください。今こうやって書くのもきつい。あの頃の私は不安定で攻撃的だったということは分かっていても、大事で本当は可愛がりたい弟にひどいことをしていたという事実に打ちのめされる。

そして、その感情は子どもに対しても広がる。私は子どもにとてもひどいことをしていたんじゃないか、私が損なってしまっているものがあるんじゃないか。本当にごめんなさい、と涙が止まらなくなる。

実際のところ、自分の子どもに何かしたという覚えはない。もちろんトラウマを抱えた母親だったのだから、何かしら子どもがしんどい思いをしていたことはあるだろう。ただ、ここまで罪悪感を抱くようなことはしていないのではないかと頭ではわかっている。
子どもに弟を投影しているのかもしれない。

とにかくこのことに関しては圧倒されてしまうし辛い。階段の件は8歳ぐらいの出来事なので、セラピストとしっかり取り組んでいきましょうと話をした。


戦争からの世代間連鎖

私はもう、母にああされたこうされたということで感情に圧倒されることは無い。それよりも今は「母って私が持っていたイメージのような人ではないのかもしれない」と気づいて、驚いているし好奇心のようなものを持っている。おそらく母もトラウマがあり、それはおそらく母の親(私の祖父母)から引き継いだものだろう。詳しいことは知らないし、母の気持ちなど私が分かりようもない。

両親の親世代はちょうど第二次世界大戦の真っただ中を生きていた。
母方の祖父は病弱で出征はしなかったが満州から夫婦で引き揚げてきたらしい。満州からの引き上げはかなり過酷だったというのは知識として知っている。祖父は寡黙で私はほとんど話したことも無かったが、立派な人だったと母から聞いている。ただ、夫婦喧嘩になると茶碗を投げ合うようなこともあったらしい。

一方、父方の祖父は出征し、父は終戦後まもなく生まれた。事情があって、父は幼少期の間自分の祖母の家に預けられており、祖父母とはあまり親密な関わりを持てなかったらしい。父からは欠落感のようなものを感じる。父の中に大きな虚無があって、それを埋めるために必死だったように見えた。

父も母もトラウマを持った人として見ると、言動にも納得がいく。
とにかく戦争のトラウマというのは何よりも強烈なのだと、トラウマについての本を読んでいて強く思った。今のガザの状況を見ていて、心が痛むしどれだけのトラウマを生み出しているのだろうと思うと絶望する。


母のケア役にされていた自分に気づく

両親のこういった境遇や、父が抱えていた虚無の内容(お金、女性など)やさまざまな事情は、高校生の頃から母が私に話していたことだった。義理の実家(私にとっては父方の親戚)とうまくいっていないことや、言われたことなども私に逐一話していた。父方の親戚や祖父母のことを悪く言われるのは聞きたくなかったが、それ以外は何ということもなく聞いていた。

するとセラピストに「高校生のルルさんにお母さんがそんなことまで全部話すのは健全なことではないです。結局お母さんのケアをルルさんがすることになってしまっています」と言われて、前にも同じようなことを言われたけど、これもそうかと気づいた。確かに私は自分の子どもにこんなことを話したりはしない。あり得ない。

ただ、私は父方の悪口を言われた時以外は、嫌な気持ちにはならなかった。それどころか、認めてもらえているような気持ちになって自分から進んで聞いていた記憶がある。私は悪い子だけど、こうやって認めてもらえて役に立てることだってあるんだと思っていた。

今こうやって父や母の生育歴や抱えていたものを想像するのに役に立っているので、人生どうなるかわからないものだなとは思うけれど、やっぱり聞くのがしんどかったのは確かだ。
全く子どもに気を遣わせるなよ、親なのに…と思うようになった。


いよいよ保留になっていた記憶を処理する

今回は、5回目で記憶を振り返った母の自殺未遂の時の記憶について処理をする。5回目で振り返った時は感情が出てきたが、またぼんやりとしてあまり何も感じられないような感覚になっていた。

私の予想では、かなり難航して長くかかるかなと思っていた。正直少し怖かった。
が、結局予想よりもかなりあっさりと処理できたように思う。

手順はいつもと同じで、当時の記憶を思い返して肯定的な認知と否定的な認知を考える。
こう思えたら辛くなくなると思えるような肯定的な認知は「私は大丈夫」。この記憶で過去の私が感じていた否定的な認知は、怖くてたまらなかったので「私は安心できない」。
処理の前は、当然ながら肯定的な認知は低く、否定的な認知は高かった。

身体反応は、動悸、喉の詰まり、胸の奥がざわつく、胸がグーっとなるという感じだった。いつもと同じだ。

運ばれる母と弟を抱っこした父の後から、無言で救急車に乗り込む記憶に留まって、何セットもEMDRを繰り返す。

いろいろな感情や認知やイメージが出てきたが、記憶のイメージで救急車に乗り込んで黙って座っている私に、大人の今の私が入っていく。
どうしてあげたいか?と訊かれたので、膝の上に乗せてギュッと抱きしめて「怖いよね。ずっと一緒にいるから大丈夫」と声をかける。

そうすると、固まっていた子どもの私は氷が溶けたみたいになった。本当は心細くて、ずっとこうやって寄り添って欲しかったのだった。怖くてたまらないから、病院に着いてもずっと一緒にいてほしいと強く思った。そして、大人の私が寄り添ってくれていることに心から安心した。


病院から子どもの私を連れて帰る

EMDRを何セットも繰り返し、翌朝病室で意識を取り戻した母と2人きりにされて怖くて泣いた記憶のところになった。記憶のイメージには、ずっと大人の私が子どもの私を抱っこしている。そして、病室で2人きりにされる前に、大人の私は子どもの私を連れて病室を出る。母のケアは誰か他の人がやってくれ。

病室を出てから、子どもの私に「お母さんは元気になるから大丈夫だよ。もうお家に帰ろうか」と言うと、子どもの私は安心して私に抱っこされたまま眠った。当時、その病院の空気や匂いが嫌でますます怖かった記憶がある。
大人の私は子どもの私を抱いたまま家に帰って、子どもの私が目覚めたら一緒におやつを食べて、シャボン玉をして遊ぶ。

こうやって大人の私が守って寄り添った結果、記憶の中の「安心できない」という認知は「私は大丈夫」に変わっていった。
当時、誰か大人にそうしてもらっていたら、トラウマにはならなかったのだ。怖い体験をした時に誰も寄り添う大人がおらず、子ども自身で何とか耐えるしかない状況になると、トラウマになる。


ここじゃないどこかに走って逃げたい

記憶処理の最後の方に、セラピストにこの後もこの母と一緒に暮らしてきたということについて、子どもの私はどう感じていたかを訊かれた。

すごくイライラするし、身体、特に足がムズムズする感覚がある。焦燥感もあって、嫌だ嫌だ嫌だ!と叫びたいような感じだった。
子ども時代、いつもこの感覚が身体にあったのを覚えている。それを振り払いたくてグズグズと反抗的になっていたのではないかと思う。

そして、ここではないどこかに行きたいという気持ちも常にあって、子どもの頃はいつも旅支度をしていた(と言っても、お気に入りの物たちをお気に入りのバッグに入れておくだけだったが)。

そこで、イライラする気持ちを出し切った。足のムズムズは、走りたいような感覚があった。全速力で走って逃げたいと痛切に思った。感情を出し切った後に、安全なイメージの中で子どもの私を全力疾走させた。
これで少し身体がスッキリしたような感覚になった。でもまだ残っている感じがする。

そして気づいたのだけど、「逃げたくても逃げられない」と怖くなっていた美容院のシャンプーやMRIの時にも、怖さと共に足のムズムズがあった。逃げたいという感覚になっていたからだろうか。うまく言えないけど、この感覚は大事かもしれない。


記憶の処理は治療後も続く

固まっていて感情も感じないようにしていたような記憶だったけど、大人の私が助けに行ったイメージを持てたことで、認知が肯定的になった。もちろん、嫌な記憶は嫌な記憶のままだ。本当に怖かった。でも、そこに大人の私が子どもの私に安心感を与えることができた。

治療後、しばらくしてから少し目が回る感覚がする。初めての感覚ではないが、記憶の処理が進んでいるということかもしれないとセラピストに言われた。
実際、EMDRは治療後も脳が処理を進めていくと本で読んだ。似たような感覚を持った出来事の処理まで行うこともあるらしい。

しっかり睡眠を取って、水分とタンパク質を摂ること。次回はまた2週間後だ。

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