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カウンセリング/21回目

前回からの振り返りと報告

・きつかった20代の頃を振り返り、当時の自分と対話したこと
・最近夫に対する怒りが尋常ではないぐらいひどいこと
・服に対するこだわりで見えてきたこと


20代の頃の彷徨う自分と対話する

20代は本当にきつい時期だった。傍目からは楽しそうに刹那的に暮らしていただけに見えていたと思うが、力が湧かずやりたいことも無く、でも自分の中の欲求だけは大きくて、失敗ばかりしていた。それを親に面倒見てもらう羽目になったりして「自分はダメだ、自分は恥ずかしい人間だ」という思いをどんどん強化していった時期だった。

子どもの頃は親に振り回されて傷ついたり辛い思いをしたりしていて、それ自体もきつい記憶になっていたけれど、20代の頃のきつさはまた別だ。
自分で行動し、自分で失敗して「自分はダメだ」ということを繰り返してきたのだから。

例えば借金するとか法に触れるとか誰かを傷つけるとか、そういったことにまではならないが、服を買いすぎていつもお金が無い、アルコール依存症一歩手前までいく、欲求だけで行動して後々後悔する…といったようなことばかりだった。

いつもその場しのぎで行動して先が見えず、病気になっても他人事のように感じて自分を労わる気持ちなど全く無かった。自分に対する扱いがとても粗末で「どうしてこんな目に遭うんだろう」というのではなく「まあ私程度にはこんなもんか」という諦めと自己蔑視のような気持ちが常にあった。

当時の自分の気持ちは「困惑と当惑」という感じだったように思う。どうしていいか分からなかった。そして、そこまで自分が困っていたことを自覚することすらできなかった。
さらに気づいたのは、当時の私もずっと「生きていきたい、幸せになりたい、前に進みたい」と強く思っていたということだ。でもそのためにはどうしたら自分のこの気持ちが満たされるのかわからない。とりあえず目先の気持ちを満たして安心することでどうにかしようと思うが、それだと結局うまくいかない。その繰り返しだった。

20代の自分はダメ人間だったのではなくて、ただ苦しくてしんどかっただけだった。その上で自分でどうにかしようともがいていた。頑張っていた。
よく頑張って生きてきたねえ、と20代の自分を労った。本当に、当時に今の私が戻れるのなら、20代のしんどい自分に寄り添って、しばらく一緒に暮らして安心させてあげたい。大丈夫よ、でもそのやり方だと結局自分の首を絞めるからどうやっていくか話そうか、と言って、肩をさすってやりたい。

そんな折、機能不全家族で育った(私とは比べ物にならないぐらい壮絶な幼少期と思春期を生きていた)、境界性パーソナリティ障害の女性が回復するまでの事例をスキーマ療法の本で読んだ。
いわゆる「メンヘラ」と言われるような、自分のことを大事にできない行動(自傷や過食嘔吐、異性関係など)をたくさんしてしまっていて、それでどんどん自分を追い詰めてしまいますます辛くなっていく様子が書かれていて、涙が出た。
どう考えても自分を追い詰めることばかりしてしまうのは、そういう行動をすることで自分のことを一時的にでも助けていたのだと分かって、何となく自分のことと重なったような気がした。

私は20代の頃の自分を「だらしがなかったし恥ずかしいことばかりしてきたダメな人間だった」と見下して切り捨てていたのだけど、大きな間違いだった。
自分のことを幸せにしたいと思いながら、その場しのぎだったり逆効果だったりする「自分を助ける行動」をし続けて、苦しみながら生きてきたのだとわかった。今まで理解せずにいて本当にごめんなさいという気持ちだった。
20代の頃の自分を恥ずかしいと思う気持ちが雪解けみたいに消えていくのを感じた。


服に対するこだわりをようやく自覚する

大学生でいわゆるオシャレに目覚めてから、私は服を買ったり着たりするのがとても好きになった。着回しや色の組み合わせを考えるのは楽しかった。
そうすると、いつの間にか服をどんどん買いたくなった。学生時代はアルバイト代が入ると、ほぼ全てが洋服代に消えていった。

服にお金をつぎ込む自分、我慢ができない自分という認知は、自己否定につながった。「こんなに我慢のできない私は恥ずかしい人間だ」と常に思ってきた(やっぱりここに着地する)。それでも服が欲しい。服を買ったら、なんかいいことがありそうな気がする。
いいことって何だろう?と突き止めてみたら、それは「安心できる」ということだった。

私の子どもの部分の欲求がとにかく「安心したい」ということなのは少し前からはっきりとわかっている。
子どもなので、「え、それが安心に繋がるって思ってるの?!」みたいな発想であらゆることを「安心したい」という目標に向かわせてきた。
「安心したかったからなのか」という視点で見ると、これまでの不可解な行動がほぼ全て理解できるようになった。
(ちなみに、子どもの私が根底に持つ一番大きな思いは「自分はダメだ、恥ずかしい」だ。この安心したい欲求での行動も、ほとんどが「ダメだ、恥ずかしい」に最終的にたどり着く。負のループになっている)

服を思う存分買うと、オシャレだと思えるし周りにも思ってもらえるかもしれない。それに好きなものがたくさんあると安心する。安心したい。この服もあの服も持っておいたら安心できるかもしれない。そんな感覚だった。
もちろん、そんなにうまく安心できる筈がない。本当に欲しいものかどうかの前に「とりあえず安心できそう」という無意識で買ったものが多く、結局あまり着ないままになったり、満足できなかったりすることが多かった。そうなると結局無駄遣いしたことを恥じて「自分はダメだ、恥ずかしい」とますます思う。

そのうち、自分を抑制するために「季節ごとの服の枚数を決めて管理する」ということを始めた。それ以上は買わないで、その上限までで安心しようという訳だ。
このルールは自分の中で都合のいいように少しずつ改変され、欲望に従って枚数が変わったりした。しかも本末転倒なことに「欲しい服がその時点では特に無いのに、自分の決めた枚数に足りないと安心できないので、無理やり服を探して欲しくもないものを買う」ということをし始めた。
そして、季節ごとで服の数を決めているので、季節の変わり目に違う季節の服を着るという事をしたくなくなる。自分の決めたルールをがっちりと守ることが「安心」になっている。

こうなるともう自分でも訳が分からないし疲れ果ててくる。オシャレって楽しいものじゃなかったっけ?何でこんなにがんじがらめになってるんだろう?ヘトヘトだった。

カウンセラーと話していて、私は常に必死に安心できるものを探しているのだと気づいた。布団を清潔にしたいというこだわりも同じ気持ちから来ているのだと思う。
ルールやルーティンや自分なりの「儀式」を決めてそれを守るという事は、私の「安心」に繋がっている。いや、繋がってはいないのだけど、そう信じてきた。というか、手段が目的になっていて「ルールに意味があろうが無かろうがとにかく守る」ということで安心を得られると勘違いしていた。
ガチガチに守ろうと毎日必死に生きてきているので、疲れも半端ない。肩こりがひどいし、リラックスするという感覚がわからない。結果的に安心できていない。

これでは自分がかわいそうだ。早死にしそうだ。
おそらく、これまでにこういった「安心のための本末転倒な自分ルール」をあちこちに作って、必死に守っていると思う。それを見つけて、まずは気づくことから始めることにした。
服のことは、数日掛けてじゅうぶん自分と対話をした。安心につながるどころか疲れ果てて楽しくないことを納得できたので、やめることにした。まずは服の数を少し減らしてみる。数を決めない。季節ごとに服を決めずに、着たい時に着たいものを着てみる。自分ルールを撤廃する。


無駄な頑張りで疲れ果てている自分を救う=夫に寛容になる

夫に対して怒りが湧くことについても、結局は「私はこんなに頑張っているのに夫は頑張っていない」と子どもの部分の私が思っているので、許せないのだと気づいた。
無駄なルール作りとそれを守ることに必死になってヘトヘトなので、頑張っていないように見える夫が許せなく感じる。

夫だって、頑張っていないわけではないのは分かっている。が、「分かっている」のは大人の部分の私だ。子どもの私は「私だけこんなに頑張ってて許せない」と思っている。とにかく疲れている。
結局、夫とはまだ自他境界があいまいな状態だからこそ「私の頑張りと夫の頑張り」がごっちゃになっているのだ。子どもにはそんな風に感じないのだから。

カウンセラーには「今はそういう状態ということ。だってこんなに頑張っているんだから無理もないです」と言われた。自分のヘトヘトな感じが無くなってきたらまた変わってくるだろう。
これはもう、自分と対話しながら「これは安心には繋がらない、こうすることに意味はなく自分を追い詰めるだけだから、ちょっと止めてみよう」と少しずつ不安に向き合いながら止めていくことしかない(暴露法)。


夫への怒りがものすごい

そして、その夫への怒りが最近とみに凄まじい。自分でも引くくらい怒りが湧く。こちらの気に食わないことをしている程度なのに(しかも本当に悪気は無いし夫は夫でただ暮らしているだけなのに)、圧倒的な怒りに支配されそうになる。
この理不尽な怒りは「こいつ(夫)は私の気に食わないことばかりして安心を脅かす存在だから、排除してしまえ」という子どもの部分の私が持っているものだとわかる。

半年ぐらい前までは、怒りをここまで感じることは無かった。ちょうど前々回にドライヤーの件で子どもの部分の私と対話を始めた辺りから怒りがひどくなってきたような感じがする。
カウンセラーに「インナーチャイルドと対話するようになったことで、子どもの部分の自分が気持ちをわかってもらえると感じたから、感情がそのまま出るようになったのかもしれない」と指摘された。
確かにそうかも知れない。前までは抑圧していた怒りだったのだと思う。
「しばらくはしんどいけれど、いいことだと思いますよ」とも言われた。確かにしんどい。この怒りはどう考えても理不尽で子どもっぽいので、夫にぶつけることはあり得ない。でも抑圧するのは良くないので、紙に書きなぐって破って捨てる、という方法で発散させることにした。

怒りを出すということも、私は怖くてこれまでしてこなかった。怒りを出したら、相手からもっと怒りをぶつけられて傷つくかも知れない。どんな恐ろしいことが起きるか分からない。そう信じてきたので、安心して怒りを出すことができない(怒りなんて誰かにぶつけるものではないけれど。それは表明するもので、ぶつけるものではない。でも表明もできないのだけど)。

「今が踏ん張りどころだと思いますよ」とカウンセラーに励まされた。はい、踏ん張ります。でも無駄には頑張らない。


自律訓練法での変化

カウンセラーの勧めで自律訓練法をしているが、最近手足の感覚が「あ、これがリラックスということなのかな」と感じられるようになってきた。
そして、自律訓練法のナレーションについて、これまでは淡々と話しているだけのように感じていたのだけど、先日はすごく優しく語りかけている声に聞こえて驚いた。

最初は半信半疑で「これに何の意味があるんだろうか」と思っていたけれど、今では楽しみにもなっている。何というか、雲の上に乗っているような感覚になれる。




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