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EMDR/8回目

気が付いたら変化していたこと

ここ最近気づいたのだが、私の強迫性症状に近いクセのようなものがきれいさっぱり無くなっていた。「あれ、そういえば」という感じなので、いつからなのかは分からない。
強迫性症状でもあり、自傷にも近いような行動で、幼少期から形を変えながらずっと続いてきた。それがあっさり無くなり、「したい」とか「しないと」といった気持ちにもならなくなった。実感としてはポカンとしている。
いつも通る道にあった建物が取り壊されて更地になったことに気づくと、そこに前何があったのか思い出せない時があるけど、その感覚に似ている。

まだ他のこだわりや強迫性症状は残っているけれど、あれだけずっと続いていたものが消えるとは。しかも消えていたことにも気づかなかった。


前回の記憶処理について

前回では母の自殺未遂の時の記憶を処理した。記憶を思い出すと、すぐに大人の私が寄り添うイメージになる。そして安心する。母が大変なことになったという辛い記憶のままではあるけれど「私は大丈夫なんだ」という気持ちになっている。

出来事が出来事なだけに、もっと辛くてたまらないという感情に邪魔されるんじゃないかと思っていた。でも、大人の私が寄り添うと、びっくりするぐらい簡単に子どもの私は安心した。そうか、本当にこうして欲しかったんだなと子どもの自分を大事に思う。こんなことならいくらだってやってあげる。

前回処理した時のイメージで、最後は大人の私が子どもの私を家に連れて帰るということにした。でも、そこになんとなく引っかかるものが出てきた。子どもの私は、どれだけひどい事態でも、親のことを「見届けたい」と思っていたからだ。自分が見ていない、不在の間に怖いことが起きるのが一番嫌だった。自分が傷付くようなことでもいいから、出来事を把握しておきたかった。

そこで、イメージの中で、家に帰った大人の私と子どもの私のところに、オソノさんがやってきてくれた。おいしいパンもたくさん持っている。そして「お母さんはもう大丈夫。今は寝ているし、元気になったら家に帰ってくるよ。もう少ししたらお父さんと弟くん、おばあちゃんとおばちゃん達が帰ってくるからね」と状況を報告してくれると、子どもの私は安心する。大人の私も心強い。そして、パンをたくさん食べて3人でおしゃべりをする。これで子どもの私は安心して満たされる感覚がした。

このイメージをセラピストに話すと「いい感じですね」とニコニコしていた。当時の私には、安心させてくれて私を「調整」してくれる大人が必要だったのだ。今も不安に感じると誰かに縋りたくなる時があるのは、調整がうまくできないからなのだと思う。


新たに思い出した気になる記憶について

先日ふと母から聞いた昔の話を思い出した。聞いても「ふーん、そんなこともあったのか」とあまり気に留めずに忘れていた話だ。

私が1歳過ぎの頃、瞼の裏にできもの(脂肪の塊で特に問題は無いものだったらしい)ができてかなり大きくなり、病院で切開して取ることになった。年齢を考えて麻酔を使わずに、台に押さえつけられて処置したらしい。大声で泣き叫ぶ私をそばで見ていて涙が出た、と母は言っていた。瞼の裏なので縫わなかったとも言っていた(すぐにくっつくらしい)。

もちろん私には何の記憶も無い。以前処理したポップコーンを喉に詰まらせた時と同じだ。ただ、最近ふとこの話を思い出したのと、幼少期の医療処置(押さえつけられて痛みと恐怖を味わった)でトラウマになることもある、生後3年までの心の傷の影響は大きい、ということを本で読んでいたため気になっていた。
さらに、私が怖かったり嫌だなと感じる状況(美容院のシャンプーや歯医者、MRIなどの身動きが取れす逃げられない状況)と似ていると思い、セラピストに話した。

セラピストに「この出来事の記憶を処理したいと思うか」と訊かれた。うーん、わからない。だって記憶が無いのだから。
すると「この出来事をイメージしてみてどういう感じがするか」と訊かれた。台の上に寝かされ、知らない大人たちに押さえつけられて瞼を切られる、泣き叫んでもどうにもならないというイメージ。苦しい。美容院やMRIと同じ身体の感覚がある。よくわからないけど嫌だと思う(こんな状況は誰だって嫌だろうけど)。

私は小学校中学年あたりまでは注射や歯医者、耳鼻科などの「じっと我慢して受けなくてはならないこと」にものすごく抵抗していた。6歳の時のインフルエンザの集団接種の時に、嫌がって暴れて針を曲げたこともある。親には怒られ、呆れられていた。
成長するにつれて、そういったことは普通にできるようになった。痛みに弱いわけでもない。なのに、また大人になってからそういう状況への嫌悪感や恐怖が出てきている。

「嫌な感覚があるのならやはり取り組んだ方がいいのではないかと思います。ここでふとその話を思い出したというのも、処理した方がいいということなのかもしれないですね。それにルルさんの嫌なものと状況がとても似ていますし」とセラピストに言われ、この出来事は次回のセッションで取り組むことになった。それまでは、大きな箱に入れて私の中の地下倉庫にしまっておく。

EMDRでは、言語記憶を持たない時期のことは処理しないセラピストもおり、それぞれで違うらしい。「ただ、そういった出来事を処理しないまま進み、後になって大変なことになった経験があるので、自分は処理する方です」とのことだった。

正直、ポップコーンの件では記憶が無いので、自分の中がどうなったかがよくわからない。大人の私が入り、子どもの私を助けている当時のイメージが思い浮かぶようになったぐらいだ。でも今は、1つ1つに効果があったとか無かったとかは特に気にならなくなってきている。


母の元彼に会った時の記憶

今回は、最初に書いた記憶のリストを順にたどり、7歳の記憶を処理することになった。ただ、そこまで傷ついたとか悲しいとか、そういう感情は持っていない。嫌だったな、と思う程度だ。
ただ、結果的にこの記憶は割と手ごわかった。前回の記憶といい、最初の印象は当てにならない。

母や叔母達から聞いたところによると、母は父とその元彼(Nさんとする)で結婚を迷っていたらしい。母はモテたそうだ。そして、結局父を選び結婚して、えらいことになった。ちなみにNさんもその後結婚して子どもも生まれた。祖父母は父との結婚には反対で、Nさんのことを気に入っていたらしい。そして、Nさんは母とは家族ぐるみで付き合っていたため、きょうだいとも連絡を取っていて母はNさんの近況を知ることができていたらしい。

ちなみに母は父にもNさんのことを当時よく話していた記憶がある。どういう流れでの話だったのかはわからない。ただ、今回処理するNさんに会った日のことを父が「Nってのに会いに行ったんだって」と言い、母が「もう、Nってのなんて言い方やめてよ」と答えていたのを覚えている。
私ならウザくて嫌だわ、結婚を迷った元彼の話をべらべらする女…と思ってしまう。母は個人的に私とは全くタイプの違う人間だなあと毎回感じる。「女」なのだ。よくわからん、その思考回路…となる。そして、分かる必要も無いのだと思う。

そして詳細なことや前後についてはあまり記憶が無いのだが、とにかくある日母は元彼Nさんと会う約束をした。預け先が無かったのかはわからないが、なぜか私と弟も一緒に連れて行かれ、デパートの食堂でNさんとNさんの息子(私と同い年ぐらいだった)と食事をし、その後屋上で母とNさんが話し込んでいる間は、近くで初対面のそのNさんの息子と遊びつつ、弟の面倒を見ていた。つまらなかった。

この記憶での感情は、母とNさんへの嫌悪感とかすかな怒りを感じていた。
あんな風に華やいで笑っている母を見たことが無かった。特に当時は家庭が大荒れだったので尚更だ。当時は言語化できなかったが、母の「女」の顔を見たようでものすごく嫌だった。そして、私たちの方を全く気にしないのも嫌だった。

否定的な認知は「私のことはどうでもいいんだ」で、肯定的な認知は「私は大事な存在だ」。身体の反応は、動悸とお腹の奥に渦巻くモヤモヤしたものを感じた。

いつものようにEMDRの装置を使って処理していく。装置のことを書いたことが無かったが、左右交互に音が聞こえるヘッドフォンを着け、両手に左右交互に振動するハンドルのようなものを握り、光が左右に動くバーを見ながら処理をする。左右の振動や動きは全て連動している。

処理を進め出てきた感情や気づいたことをセラピストに話すうちに、私は寂しかったんだと気付いた。母が普段私に見せないような顔をして笑っていて、私の方を見ない。ずっとNさんを見ている。
この気持ちを言葉にする能力は7歳の私には無いし、言葉にできたとしても母にわかってもらえるとは思えない。
そして、こんな子どもに関係のないつまらないことに私たちを付き合わせている身勝手さに怒りを感じている。母もNさんもボコボコにして蹴り出してやりたい。

という訳で、怒りを放出し、大人の私なら言語化できる「寂しい、私のことを見てほしい、わかってほしい」という言葉を7歳の私に言ってもらった。言えたことで、7歳の私は「私はこう思っていたんだ」と気づけた感覚がある。怒りは出したことでスッキリした。

私は何も悪くないし、そのままでいい。振り回す母がどうかしている。子どもの私に母のケアを巧みにさせていることに、うんざりする。


大人の私が思うこと

その後、オソノさんが当時の私のところにやってきて「もう帰ろうか」と言ってくれた。セラピストに「どんな気持ち?」と訊かれて「うれしい」と即答した。その場を離れたいけど、子どもだし力が無いので離れられない。母を待っていなくてはならないことが苦痛だった。信頼できる大人が連れて帰ってくれたら、とてもうれしい。弟も一緒に帰る。

そして、当時の母はまた「母親の修行」をするために大きな箱に入れて天空に上げた。私の身体の感覚も一緒に箱に入れた。そして、オソノさんに「帰ろう」と言われてうれしくなっている場面を透明なボールに入れて、お腹の奥の渦巻いていた部分に入れた。日々取り出して眺めるという宿題をもらった。これは前回と同じだ。
そういえば、前回のボールは無くなったわけではないけれど、だいぶ中身が変わったように思う。

とにかく、当時の私には信頼できる大人が寄り添って気持ちを受け止めてくれたり、私が言語化できずにぐずったりしている時に受け止めて、その感情を言葉に変えてくれることが必要だった。それをしてもらえると、安心するしホッとする。

でも思うのだけど、これってしっかりやってもらって大きくなりましたという人ってどれぐらいいるのだろう?ほとんどこんなことをやってもらっていない人ばかりに見えるのだけど。

そして、大人の私としては、母がNさんに会うのはどうでもいいと思っている。「不潔よ!」などと言う気はない。母親だからって清く正しく生きろとは思わない。精神的に参っている時期に元彼に会ったってかまわないではないか(深い関係になるとしたら、それはまた別の話だけど)。それは母の問題だ。

ただ、子どもに何もかもあけすけに見せるなよと思う。この時私と弟を連れて行ったのは、預け先が無かったからかもしれないが、罪悪感を軽くするためもあったんじゃないのかと思ったりする。「やましいことはしていませんよ、ほら、お互い子どもも連れてきてますし」といういやらしさを感じた。預け先が見つかってから会う約束をしろ。子どもに変な荷物を背負わせるな。

という訳で、当時の記憶にはオソノさんの助けが入り、私は気持ちを言語化できて怒りも出し、大人の私には母は未熟で勝手な人という印象になった。やれやれだなあという気持ち。

最終的にはこの記憶に対する「私はどうでもいいんだ」という認知はほぼ無くなり、「私は大事な存在だ」を「そりゃそうだ、当然だ」と思えるようになった。


自分のケアは自分でする

どうやら私は母のケア役をずっとする羽目になっていたことに気づいたのだけど、それまでは自己否定で巧妙にコーティングされていて気づかなかった。これは母がわざとそうやった訳ではなさそうだし(もっと勢いだけの人だと思う)、私の持って生まれた資質や状況などと相まって、こういう状態になったのだと考えている。

そうやって成長した私は、調整能力が無いこともあって、やはり他者に私のケアを求めてきたと思う。特に、子どもには無意識に私のケアを求めてきたかもしれない。安心させてくれ、不安にさせるな、と。親なのに。

ここで自分を責めてもどうにもならないことだ。経緯を考えたら無理もない、というやつだ。これからを考える。トラウマから回復し、自己調整力を育てて、自分のケアは自分でする。それはだんだんできるようになってきているではないか。大丈夫だ。


親について

そして、大人の私が親に思うこと。
私が傷付いたり「調整」してもらえなかったことについては、私が自分で回復していくしかない。子どもの私には大人の私が寄り添うし、他のリソースをたくさん作って、子どもの時の思いを満たしていきたい。そもそもそれは親の責任でもあるし、両親共に未熟だったのだと思う。

ただ、おそらく親も世代間連鎖しているだろうことを考えると、どうにもならなかったのだろうなあと思っている。親にも調整能力は無いし、協働調整もうまくできない人たちだ。やってもらったことがないのなら、やり方が分かるはずもない。

ピアノを見たことも弾いたことも無いし、弾きたいとも思わない人間が、ピアノを教えられる訳が無い。もちろんピアノも弾けない。
なのに「ピアノを弾いてもらえなかったし、弾き方も教えてくれなかった」ということにばかり執着しても仕方がないではないか。
だったら、私は今から別のピアノを弾ける人に教わって、自分で弾けるようになっていく。そして、私も弾き方を教えられるようになりたい。

なので、正直今の私にとっては、どうでもいいことになっている。だって仕方ないじゃん、と。

まだ感情に圧倒されることもたまにあるし、フラッシュバックも極たまにあるけれど、気づけるようになったのはいいことだと思う。
進んでいるのか回復しているのかわからないし、時々「これでいいんだろうか」と思ったりはするが、もがいて回復したいと強く思う自分は素晴らしいなと自画自賛している。

また2週間後。





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