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ソマティック・エクスペリエンシング/2回目

心臓の鼓動を感じられるようになってきた

SEでは、毎回必ず儀式のように部屋の状況を確認し、自分の安心できる状況に整える。例えば、カーテンは閉めるか開けるか。開けたままで窓の外から誰かに見られているような感覚になり落ち着かないのなら閉めるし、閉めて圧迫感を感じるのなら開けておく。

私はカーテンは今回はまだ外が明るかったので開けておいてもらい、大きめのフワフワしたぬいぐるみを抱え、小さな湯たんぽを膝に置いた。これがいい。そして、もう一度部屋の中が安心できるかどうかを見渡しながら確認する。

この部屋に来るのは3回目で、前の2回とも安心できる状態だったこともあって、もうすでにリラックスしている。セラピストの力も大きいだろう。

今の状況などを話してから(前回のリソースは寝る前に毎晩使っておりとてもいいことなども話した)、毎回最初にやる「体のスキャン」をやった。

今回は、これまでには感じられなかった心臓の鼓動をかすかに感じられるようになった。怖い時などは心臓がバクバクしているので嫌でも感じられるけど、リラックスしている時に意識的に感じるようにしても、あまりわからない。というか、私は自分の心臓の感覚を感じるのが怖いと思ってきた。しっかり意識を向けると止まってしまうんじゃないかという感覚だ。

そこで心臓の鼓動をじっくり感じることにした。どんな感覚やイメージが湧いてくるか?と訊かれて浮かんだのは、「生まれたての小動物の赤ちゃんを抱いているようなイメージ」だった。愛おしくて儚くて暖かくて柔らかくて、大事にしてあげたいような感じ。

このイメージは私にとっていい感覚なので、これも新たなリソースにする。心臓の鼓動を感じて、生まれたての小動物の赤ちゃんを抱っこしている感覚を味わうというリソースだ。この時、心臓の鼓動を感じていると、だんだん手足がじんじんして温かくなってきて手足でも鼓動を感じられるようになる。これは、腹側迷走神経が優位になっているかららしい。確かにリラックスして気持ちがいい。

家でもできるなら好きな時にやるといいけれど、このセッションの場はやはり特別で、安全や安心の確認をしているし、共同調整してくれるセラピストもいる。なので「家でもやらないとと無理はしないでいいですよ。家に帰ってもリラックスがうまくできない時もありますし」とニコニコして言われた。そっか、と気が楽になった。

ただ、寝る前に前回のリソースである「お腹に手を当ててその感覚を感じる」というのは毎晩やっている。気持ちが良くて、いつもそれで寝落ちする。だから、寝る前の布団の中ならできそうだ。


強迫観念について向き合う

今回から、いよいよ強迫観念あるいはこだわり以上強迫性障害未満のような症状について扱う。

ここには何回か書いてきたが、私は妙なこだわりを持っている。自分の布団(自宅限定)に対するこだわりだ。布団に入る時は、とにかく清潔にしていなくてはならない。というわけで、布団だけではなく寝室も綺麗にしておかなくてはならない。寝る時にはお風呂に入るのはもちろん、お風呂の後は寝る以外のことはしてはならない。リビングでくつろぐなんてもってのほかだ。なので、お風呂は寝る直前に入る。寝室に入る前は手を綺麗に洗う。汚れたと思ったら、繰り返し洗う。ちなみに、私のこだわりは他人は巻き込んでいないので、家族に支障が出ているということはない。

始まったのは中学生の時で、当時は父のことが汚いと感じて布団だけでも清潔にしたいという感じで手を洗ったりしていたのを覚えている。母には気がおかしくなったという風になじられ、私自身もなぜこんなことをするのかわからないし恥ずかしいし自分が嫌だし、おかしくなってしまったと思っていた。その後30年以上、一人暮らしや結婚したての時などに一時的におさまったものの、ずっとこのこだわりと付き合い続けてきた。何も考えないようにしてきたが、やっぱり辛い。このトラウマ治療の機会に楽になれるのならなりたい。

ちなみに自宅の自分の布団限定なので、例えば実家に泊まったり旅行に行ったりすると、何のこだわりも無くなる。お風呂の後にご飯を食べてくつろぎ、そのまま寝ることができる。そして、こだわりは寝室や布団限定なので、基本的に清潔好きではあるが、それ以外の場面では結構ズボラな面もある。なので、清潔にしないとという強迫観念とはちょっと違っている。

カウンセリングでもこのことに何度か向き合って、きっと安心したいのだろうということは何となくわかった。家の中が全く安心できない場所だったけど、布団の中は唯一安心できる場所だった。そこは「おしまいの場所」だったからだ。寝てしまえばいいんだと思えたし、そうしたら解放される。だからこだわるんだろうなという気がしていた。ただ、それに気付いたからといって軽くなるわけでもおさまる訳でもない。

セラピストとこんな感じで話していて、やはり布団=安心できる場所だから、守りたいと必死に思っているのでしょうということだった。そうすることであの頃の私は必死に自分の中のバランスを取っていて、もしもこのこだわりをしないようにしたら、もっと辛いことになっていたかもしれない。無事に生き延びることができたのは、こうやってきたおかげもあるだろう、と。

そして私がもう仕方ないのかな、とも思うんです、と言うと、セラピストはニッコリして「それはセラピーで楽になることができるんですよ」と言った。マジですか。


パーツワークもやってくれるんですか!

ここからパーツの話になった。私は初めて聞いたような顔をして聞いた。「知ってます」と言うにはただ本を2冊読んだ程度なので浅すぎる。SEとパーツワークを通して、私の強迫的なこだわりを癒していくことができるのだそうだ。

パーツはトラウマ治療に本当に幅広く使われているとしみじみした。三森さんの漫画でも担当したセラピストの方がSEと一緒にパーツワークも使っていたし、今受けているEMDRのセラピストもパーツの概念を使って説明してくれる。脳科学的にも感情を断片化するということについて説明がなされているし、何より感覚的にしっくりくる。それにしてもこの料金でSEとIFSをやってくれるとは。ありがたくて五体投地でお礼を言いたいぐらいだ。

自分の中にはいくつもの自分がいる。これは多重人格という意味ではない。トラウマのある無しにも関係は無い。みんな自分の中のいくつも分かれたパーツと共に生きている。
「ちゃんとやらないと」という自分、「めんどくさいからサボりたい」という自分、自分のことを責める自分、不安でたまらない自分などなど。
そして、核には「セルフ」がいる。これは誰にでもいる「自己」になる。まあこの辺はいろいろと説明があるのだけど、ここにつらつら書いても意味が無いので割愛する。

前に読んだIFSやパーツについての本の記事を貼っておく。


私の中では「管理者」がかなり幅を利かせている

パーツワークの肝は「どんなパーツも歓迎し、否定しないし排除しない」ということだ。どんな困ったことをしている自分も、大事な自分なのだ。
EMDRで説明された時も思ったけど、私のパーツについては、自己判断ではなく専門の訓練を受けたセラピストに聞くのが一番いいと思った。当たり前だが。

強迫的な症状が出た中学生当時、おそらく私の中ではそうしないことには辛くてたまらなかったので、生き延びるために「強迫的なことをするパーツ」が「管理者パーツ」として出てきた。安心したかったのか怒りなのか不安なのか、そういう自分を「管理」して生き延びさせるためだったと思われる。
その管理者パーツが今もせっせと「私を生き延びさせるため」に働いている。この管理者パーツが、今の私の中ではかなり幅を利かせているようだ。

そして大事なのはこの管理者パーツは、私のために頑張ってきてくれていたということ。何かしらの必要があったからこそ、こうなっている。今の私が困っていてしんどくても、この管理者パーツがいなくなれとかお前が悪いとか、そういうことではない。このパーツの話をしっかり聞いて、受け止めてやる必要があるそうだ。

セラピストと話をしている中でイメージしながらその感覚を話したりしていたのだけど、セラピストによると「かなり手強くて、深いところにある問題のように思える」とのことだった。「おそらくルルさんにとって、コアとなる問題なので慎重に取り扱っていきましょう。いきなり深いところに入ったりはしないようにします」とのこと。確かに、30年以上「管理」されてきたのだからそうなのだろうと思う。

私ももういい年になった。でもこの問題をここまで見えていながら取り扱わないというのは無しだ。そして私の中が「もう解放されたい」と言っていると感じる。何年かかっても、死ぬまでのライフワークになっても構わないので取り組んでいきたい。この管理者パーツも、私に聞いてもらいたいことがたくさんあるような気がする。

ちなみに「本を読んだりして概念を理解してもらうのはとてもいいことだけど、今は自分で無理にパーツについて考えなくていいです。この場でやっていけばいいし、いろいろ感じられるようになったらまたその時に考えましょう」とのことだった。ちょうどIFSの創設者であるリチャード・シュワルツ博士の「『悪い私』はいない」を読み始めるところだったので、あまり気負わずに読んでみることにする。


私って感受性が豊かなんですか

このセッションの終わりに「イメージや身体を感じる感覚が、とても良くて繊細ですね。とても感受性が豊かなんですね」と言われた。そんなことを言われたのは初めてだったのでびっくりした。
私はどちらかというとサイコパス気味で、えぐいホラーを見ながら刺身とか食べられるぐらいなので、鈍いんだろうなと思っていたのだけど…。サイコパス気味な自分のパーツも、感受性豊かな自分のパーツも、どちらも私ということになるのだろう。

パーツワークについて取り組むには1か月に1回なのが少しもどかしくもあるけれど、EMDRもやっているしこのぐらいでいいのかもしれない。パーツワークが佳境に入ったりしたら、間隔を短くしてもらってもいいのかもしれない。その頃にはもしかしたらEMDRが落ち着いているかもしれないし。

という訳で、また1か月後。

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