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カウンセリング/8回目

前回からの振り返りと報告

・前回に話した「私にとっての安心とはどういうことなのか」と「家以外に泊まる時と家での行動の違い」を書き出した。
・前回決めた「やめてみること」を実行できているので続けていきたい。


私にとっての安心とは

私が書き出した内容は以下の通り。
・清潔であること
・静かで誰にも邪魔されないこと
・お腹が空いていなくて、お金にも困っていないこと
・不安にさせるものや人がいないこと
・争いごとが無いこと
・誰も侵入してこないこと
・手触りが良く、いい匂いがするものがそばにあること
・自分の気持ちが穏やかで安らかであること

イメージとしては
「空調の効いているきれいな明るいリビングで、ソファでウトウトしたり好きなことをしている。子どもはそこにいてもいなくてもOKだが、それ以外の人間はいて欲しくない」
という感じ。

この条件が揃うことを目指して布団に対してこだわっているのだろうし、脅かしてくる(と私が感じる)相手には怒りを感じる。
カウンセラーに「こういう条件がないと安心できないのなら、毎日大変ですね」と言われた。本当にその通りだ。外に求めすぎている。

「争いごとが無いこと」や「不安にさせるものや人がいないこと」は、そういう事態になったら避けたりその場にいないようにしたり、自分で対処できる。
「誰も侵入してこない」というのは、鍵を掛けたり気を付けたりと、これも自分で対処できる。お腹がすくなら何か食べたらいい。
この条件を見ると、力のない小さな子どもみたいに感じる。
考えてみれば、大抵のことは私自身でできるし、昔のような怖いことはもう起こらないはずなのに。

心の中に安全基地を作って自立できたら、こんな風に自分のいる場所が安全かどうかにこだわってピリピリすることも無くなるらしい。
子どもの自分が「安心させてよ」と言っているのだから、それを受け止めて安心させてあげたい。もう大丈夫だし、怖いことは起こらない。


理想の親はどこにもいない

子どもの頃の記憶についてとりとめのない話をした。
カウンセラー曰く、話したければ何度でも同じ話をしてもいいし、気づいたことを断片的に話してもいいとのこと。どんどん話してください、と。
現在自分で成育歴を細かく振り返っているが、気づいたことや思い出したことが出てきている。

父が母のことを頻繁に馬鹿にする言動をしていたが、私も同調していたことを思い出した。
そして母が自殺未遂をした時、体調を崩したと聞いていたのでついに来たと思うと同時に、母を情けないと感じた。
心配とか元気になって欲しいという気持ちは無く(今のところ無かったと認識している)、この人は頼りにならない、心もとない、という不信感のようなものがあった。

カウンセラーに勧められて読んだ本の中に「子どもの頃、自分のためにそばにいた大人は誰だったか」という問いがあった。答えは「誰もいなかった」だった。両親は言わずもがなである。祖父母は遠方におり家庭の状況は言わないようにしていたし、学校の先生も近所の大人たちも、誰も信頼できる大人はいなかった。私はそのことに怒りを感じているのだと思う。

自分の子どもにも「私を受け入れて、受け止めて欲しい」という気持ちが起きることがあったことに気づいた。ただの反抗期でぶっきらぼうに応答しただけの時にも、傷つくことがあった。
私は子どもに対しても「100%の理想的な親」を投影している時があったのだと気づいてぞっとした。

とにかく、投影できそうな人には隙あらばそうしてきたように思う。
理想的な受け止め方などしてもらえないのが当たり前なのに、100%じゃないことにいちいちがっかりして傷ついてきた。0か100か思考になっていた。
「理想の親ではないのなら要らない」といろんな人を切り捨てて、それなら1人の方がマシだと思うようになった。まあでもこんなことを続けるのは他人にとってはいい迷惑でしかないので、私が1人を好んだことは結果的に周りの人間のためにはなった。

カウンセラーにも言われ、自分自身にも何度も言っているけど、理想的な親なんてどこにもいない。求めること自体が間違っている。
小さい頃にしてほしかったことをしてくれる人はもういないし、そういう親もいなかったし、今もいない。どこにもいない。仕方がない。
親には愛されて育ったのだと分かっている。だからこうやって無事に大人になった。当時の親も子どもだったのだから、どうにもならなかった。
私が求めていたことをしてくれなかった、というだけだ。
求めていた親はどこにもいないし、こうやって過ごしてみたかったという子ども時代は失われてしまった、と思うと悲しかった。悲しむぐらいしかできないのだから、悲しむことにする。

だからといって「はいそうですか分かりましたじゃあもういいですね解決ですね」とはならないのもわかっている。
私の子どもの頃の辛かった気持ちが残っている。それが私の今を歪ませている。
私自身が納得するまで、何度も何度も向き合うしかない。


強迫性障害ではない

「家以外に泊まる時と家での行動の違い」について。
ホテルや旅館に泊まる時や実家に帰った時は、一切気にならなくなる。イライラせずにリラックスして過ごすことができる。
海外に1年近く滞在していたことがあったが、その時も全く平気だった。多少厳しい環境でも、抵抗なく寝ることができる。
私の場合、こだわる時に出てくるのは不安や恐怖ではなく、いら立ちと怒りだ。本当に腹が立つしイライラする。自分自身に腹が立っているのかもしれない。
この困難(自分で作り上げているわけだけど)やイライラを乗り越えて布団に入って眠りにつくときは、心から安心するし苦労が報われたと感じる。
家以外で眠りにつく時には、そういう感情は全く湧かず、普通に寝ている。

こんなことをつらつらと話していたら、カウンセラーに「おそらく強迫性障害ではないですね」と言われた。
もしも強迫性障害なら、場所を選ばないはずだ。逆に外泊ができなくなって苦しくなったりする。
確かに、私もネットで症例を読んでいて違和感を感じた。不潔恐怖ではないし、いったい何なんだろうと思っていた。
「何か強烈な思い込みがあって、布団に対するこだわりになっている。その思い込みが強迫性障害に似た症状になっていると思います。何がそうさせるのかを見ていくといいですね」と言われた。

何がそうさせているのだろうか。怒りになるのはどうしてだろうか。どうしてこんなにこだわらなくてはいけないのか。
まったく見えてこないので、じっくり向き合っていくしかない。






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