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カウンセリング/3回目

強迫神経症

自分自身に向き合っていると、自分に驚くことが結構ある。
これまでは特に問題ではないと思い込んでいたのに、いったんそのことに向き合った時もそうだ。
「なぜこんなに大事なことなのに見ないフリをしてきたのか」と。

私の強迫神経症(医療機関にかかっていないので診断は付いていないが、ほぼ間違いないと思う)についてもそうだった。
何十年もずっと続いているが、生活に大きな支障が出るほどではないので、そのままになっていた。そして、見たくないことなので見ないことにしてきた。

某講座で自分と向き合った時も、このことには一切手を付けなかった。
あの講座では扱いきれないだろうということも分かっていた。
前回のカウンセリングでついに初めて他人に話したのだが、話す直前までは、向き合おうなんて1ミリも思っていなかった。
それが、話した後は気持ちがとても楽になり、どうして今まで見て見ぬふりをしてきたんだろうと自分に驚いている。

このことをスルーして何が「自分に向き合う、大事にする」だ。
言えてよかった。そういうタイミングになれたのだと思うし、自分の頑張りとタイミングと運の良さに感謝したい。
ここでちゃんと治したら、長年の苦しみから解放されるなんて夢みたいだと思う。時間がかかっても、自分を救いたい。

始まりは、確か中学の頃だった。
思春期と反抗期に入り、父のことを避けるようになった。
これは思春期女子あるあるだけど、私の場合は父の触れたものなどにも触れなくなった。それは「お風呂上がりの寝る前」に限定されていた。
とにかく、「きれいな状態」で布団に入らなくてはいけない。
布団を汚したらいけない。なぜか強くそう思っていた。

父は月数回しか帰ってこなかったが、父が不在でも「父が触ったもの」にお風呂上がりに触れてしまったら、手を何度も何度も洗わないといけなくなった。
父の触れたものに触れた手で蛇口をひねるので、手を洗った後にその蛇口を使って水を止めるのもダメだ…などと、どんどん自分で自分のことを苦しくしていった。

自分のことをキチガイだと思っていたし、こんな自分に価値などあるとも思えなかった。
両親は夜狂ったように手を洗う私に気づいていたが、私を責める言葉をかけてきただけだった。あの頃に専門家に繋いでくれていたら、と思う。
どう考えても家庭が原因だったが、両親は認めたくなかったのかもしれない。

不思議なことに、私の強迫観念にスイッチが入るのは「自宅の布団」のみだった。旅行先や親戚の家など、自宅以外の場所では何のこだわりもなく過ごすことができた。
そして、1人暮らしを始めたら布団にこだわることも無くなった。治ったのかな?と思ったのもつかの間、体を壊して自宅に戻ると元に戻って絶望した。

その頃、母は私のことを「いつもうるさい」「おかしい」と責めていたが、父は黙って私が水浸しにした洗面所を拭いていた。
なぜ父だけが対象だったのか。心情的には母も嫌だった。
父に申し訳ないという思い、強烈な自己否定、罪悪感、怒り、苛立ち、焦りなどをずっと抱えてきたと思う。

結婚して家を出ることになった時、本当に嬉しかった。
これでもうあの強迫観念から解放される。今の夫と結婚前に半同棲していた時には、何のこだわりも出なかった。
結婚してしばらくは、私の方が大雑把なのでは?というぐらい伸び伸びと暮らしていた。実家に帰省しても、何ともなかった。
ところが出産後、強迫観念がまた出てきた。今度は対象が父から夫に変わったのだった。絶望した。

幸い、子どもにはそういったこだわりは見られないし、私も生活に支障は無い。でも夫は薄々気づいていると思う。
ただ、夫は悪い人ではないけれど、衛生観念が私とは違いすぎてどうしても汚いと思ってしまう。ちなみに父は清潔好きなので、この辺はあまり関係ないのかも知れない。
私には、夫に対する怒り(不潔なんだよという気持ち)や罪悪感、自己否定などが強烈にある状態だったと思う。家族にいい影響があるわけがない。

こういった自分自身の中身を紐解いて、癒すとともに認知を書き換えていくことになった。
正直、話して自分で認めたことと、解放されるんだという気持ちになれたことで、ものすごく楽になれた。
こうやって匿名ではあるけれど、書くことができるようになったのは、すごい進歩だと思う。2週間前ぐらいまでは、墓場に持って行くんだと思っていたのだから。



布団へのこだわり

今回のカウンセリングでは、この1週間の自分の気持ちを話した後に、強迫観念について取り組むことになった。
私が強く思っているのは「布団はきれいにしていなくてはいけない」ということと「夫は汚い」ということ。
まずは布団へのこだわりについて見ていく。

カウンセラーに質問されるうちに、布団になぜそこまでこだわるのかが見えてきた。
「布団は安心できる場所なので、穢してはならない」と強く思っている。
安心できる場所は、きれいにしておかないと。私が自分を安心させられる場所はそこしかないのだから。
もっと見ていくと、小さい頃は布団が唯一安心できる場所だったということを思い出した。
両親がいつも喧嘩をしていたり母が不安定だったりした時も、布団にもぐっていたら寝ることができる。何もしなくてもいい場所だった。

「きれいに」というのは潔癖気味な母がいつも言っていたことだったので、「布団は安心」と「きれいにする」が紐づいたのかもしれない。
きれいにすることは安心につながると思っているのだと気づいた。
きれいにしてくれない夫は安心させてくれないのだから、家庭を荒らす父と同じように私にとっては敵だ。布団をきれいにしようとするのを妨害する奴になる。

私はこんなにしてまで安心が欲しかったということか。
苦しみながら必死だったのに、それを自分自身にまで否定されてきたのだから、ずっと辛かっただろう。ごめんなさい、自分。
もう楽になろう。大丈夫。絶対に見捨てない。子どもにも連鎖させない。


認知行動療法

カウンセラーに勧めてもらった本も読んでいるが、認知行動療法はとても有効だと感じている。ただ、小さい頃の自分の感情を癒すことと併せて取り組むことが大事だと教えてもらった。

「布団はきれいにしておかないといけない」というこだわり。

このことについて自分の中に出てくる感情を書き出し、その感情の割合も出す。
「焦り 70%、怒り 90%、いら立ち 90%、怖い 80%」というように。

次に、このこだわりについて自分が感じていることを書き出す。
「布団がきれいじゃないと、安心して眠れない」
「どうしてこんなにバカみたいなことをしなきゃいけないのかと腹が立つ」
「もしこれを止めてしまったら、布団が汚れてしまう」
「こんなことはやめて楽になりたい」
「私がおかしいからこんなことをしている」
「私ってダメだな、何でこんな人間なんだろう」

上に書いた自分の感じていること(認知)を、書き換えていく。
友人に対して説得するような感じでやるといいらしい。
が、難しい。普段の軽い出来事だったらできるかもしれない。
でもこの件は私にとってすごく大きな認知の歪みだから、やはりカウンセラーと一緒に取り組まないと無理だと思う。
書き換えを進めるうちに、自分で自分を苦しくさせているんだということを改めて実感した。自分を苦しい状況に追い込んだ上で、さらに責めていた。

認知を書き換えた後に自分の中に出てくることを書き出す→書き換える→感情を見る、ということを何度か繰り返す。
認知を書き換えた結果、最初に書いた感情の割合が徐々に低くなっていった。胸の奥にある重石が少し軽くなった気がした。
ただ、それはこの時点の感覚なのだそうだ。夜になり、寝る前になるといつもの怖さや焦りなどがきっと顔を出す。
その時に、書き換えた認知を思い出すようにする。すぐには難しいけど、いずれしなくなる。おかしくない。ダメじゃない。

そして、その日からできそうなことに取り組むことになった。
最初は本当にささいな、小さなことから取り組む。その日だけではなく、そのささいなことを毎日続けて、何も考えなくても続けられるようになること。
こだわりというのは厄介で、油断しているといつの間にか拡がっていたりする。
最近になってこだわり始めた事柄もある。そういうものは、案外すぐに止められるのではないかと思う。
カウンセラーと一緒にリストアップしてみて、まず取り組むことを決めた。
カウンセラーによれば、おそらく日によってできる時とできない時があるでしょう、とのこと。
できた日もできなかった日も、自分がどんな感情だったのかを書き留めておくこと。そして、できた日の感情がどんなだったのかを見ていく。

ポイントは「安心感」なのだろうと思う。
この件に関係なく、私は安心することを強く求めているのはわかる。
安心したかった自分のことを癒す必要もあるのだそうだ。

本当にこつこつ取り組むしかないのだ。劇的に治ることではない。
でも、取り組めている自分を誇らしく思うし、嬉しく思う。
私はどんな風に変わって、どんな風に楽になっていくのだろうか。


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