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トラウマ関連の読書記録④「感情的に見捨てられたことへの傷つき=トラウマ」

トラウマ?大げさな、という誤解を解く

トラウマを抱えている人(=アダルトチルドレン)にあるあるなのが「私はそこまで大したことされていないのに大げさなんじゃないか」という気持ちだと思う。

トラウマ治療はアメリカ発なので、これまでに読んだ本などの事例や症例では、かなりすさまじい虐待のものが多い。身体的な暴力や性暴力などだ。
そういった虐待は受けていない私は、自分自身が大げさなのではないかと恥ずかしくなったりする。もっと大変な人もいるのに、大騒ぎし過ぎなのでは?と時々ふと思ったりする。

この思いに囚われると、治療するほどじゃないかなというところにまで行きそうになる。それでも私は自分の中にしんどい部分があるのと、「絶対に子どもには連鎖させねえ」という強い思いがあるので、踏みとどまっている。

…とこういう話を前にEMDR治療のセラピストに話したら「それは陥りがちな考え方ですね」とこの本を勧められたのだった。

まず冒頭の私の感覚についての答えが第5章にあった。
私の感覚は「幼少期のトラウマを『軽視する』という防衛の構造」だそうだ。
この本は「感情的な虐待、言葉による虐待」によるトラウマを中心に書かれている(もちろん、身体的や性的な虐待がひどいトラウマになることは当然のこととして)。

ざっくり言うと、親や養育者から受けた傷や傷ついた出来事について、子どもが恐ろしさや惨めさや悲しさなどを感じた時に誰も頼れる大人がいなかった場合、感情的ネグレクトとなる。感情的に見捨てられたということだ。

親にひどいことを言われたり、傷ついたりした時に「辛かったね」とその感情を受け止めてくれる人がいなかったことが繰り返されると、子どもの中に「自分は愛されないんだ、価値が無いんだ」という感覚が根付いてしまう。
この時に複雑性PTSDが発生するのだとのこと。その程度は年月の長さやひどさによって個人差がある。

そしてここですよ。
「多くのサバイバーは、このレベルの傷(感情的に見捨てられたという傷)を発見し、解決することができません。これは、わかりやすい虐待を自分の苦しみの原因とし、感情的な見捨てられという核心的な問題のほうへたどり着かないために怒ります。より目立つ激しい虐待を受けた人と比較して、自分のトラウマを否定するサバイバーには、特にこの傾向があります。」
自分で気づいて解決できないからこそ「私よりもっとひどい人がいるのに」とか言っているという訳か。永遠に気づけないではないか。

やっぱりトラウマという言葉がいけないのかもしれない。
「幼少期に感情的に見捨てられたことによる傷つき」とか「感情発達不全」とか呼ぶ方がいいのかもしれない。それでもピンとこない人はこないままだろうとは思うけれど。


フラッシュバックってナニ?

トラウマ関連の本には、当たり前だがフラッシュバックという言葉が頻繁に出てくる。
実は、私には無関係でフラッシュバックは起きていないとこれまで思っていた。フラッシュバックというものがどういうものなのか、イマイチ分かっていない。
テレビドラマや本などで知ったフラッシュバックは、ものすごい恐怖などの感情に圧倒されて、気を失ったりその場で動けなくなったりしているものばかりだったので、そういうものなんだろうと思っていた。

ちなみに私には記憶の映像がポンポンいきなり再生され、それが脈絡も無く続くことがある。嫌な思い出も、そうではないものも関係ない。感情的に圧倒されたりはしない。自分が意識して「はい、もうやめやめ」としないと延々と続く。ちなみにこれはフラッシュバックではないらしい。ASD傾向のある人に特有の「タイムスリップ」というものだそうだ。
「動画の自動再生のような感じ」とどこかで読んだが、言い得て妙だ。

ただ、この本を読んでいると一連のトラウマの感情の流れに自分自身の内面が全て当てはまっており、フラッシュバックも起きていないと不自然だと感じた。ちなみに本の中には、フラッシュバックは映像的なものではないとあったので、やはり私の自動再生はフラッシュバックではなさそうだ。

だが、読み進めるうちに、私にもフラッシュバックがあるのではないか?と思うようになった。単に嫌な記憶がよみがえって辛い気持ちになっちゃったなと思っていたのだけど、それなのか?と疑問に思い始めた。
これについては次回のEMDR治療の際にセラピストに聞いてみたい。結果は追記したいと思う。

追記:フラッシュバックについて質問したくだりは、こちらの記録に書いた。


自分の中に批判家(内在化された親の声)を飼っている

この「批判家」という言葉を見て「それな!」と膝を打った。まさに批判家。私は批判家を長年飼っている。自分のことを軽蔑的に批判したり馬鹿にしたりして、ずっと「お前は悪い子だ」と私の耳元で囁いてきた。

これは、内在化された親の声だそうだ。親に幼少期言われたり否定されたりしたことが自分の中でどんどん大きくなって、批判家になった。
「内なる批判家は、両親に拒絶された原因だと思われる欠点についてあなたを絶え間なく非難します。内なる批判家は、本当の原因が両親の欠点にあることを理解することができません。」

ちなみに批判家には外向きと内向きがいる。内向きは自己嫌悪や自己否定で、外向きは他者を批判して攻撃するらしい。
これは、自分のトラウマのタイプによって内向きと外向きの比率が変わるそうだ。闘争、逃走、凍り付き、迎合の4つのタイプがある。
私は凍り付きのみだと思っていたが、どうやら逃走もあるみたいだ。どれか1つのタイプのみが当てはまることはなく、複合的に持っていることがほとんどらしい。

批判家が出てくる前に、フラッシュバックと有害な恥と恐れの感覚が出てくる。恥と恐れは私にもお馴染みだ。
この本を読んでいると「私は大げさだ」という感覚が解毒されていくような感じがする。そして、自分への思いやりや慈しみの気持ちがますます大きくなったように思う。


回復への過程

回復についての具体的な過程もちゃんと書いてある。
毎度おなじみマインドフルネスがここでも大事になってくる。自分の感情だけでなく、自分の体の感覚にも気持ちを向ける。
身体の感覚はとても大事だ。トラウマを持っている人には、消化器系に症状が出ることが多いらしい。はい、私もです。

そして、その中に悲嘆と怒りを感じる過程もある。
子どもの自分のために嘆き悲しむこと、感情的に見捨てられて傷ついてきたことに怒りを感じること。これは、全て幼少期の自分のためだ。
それでも、あるあるな感情である「親への罪悪感」が出てきたりもするだろう。この本の中にあったこの言葉が私の怒りへの感情を後押ししてくれそうな感じがしている。
「あなたは私の子ども時代を完全に台無しにした」

ただ、この過程を自力でどうにかしようとすることはかなり難しいように思う。やっぱりセラピストと取り組むのが安心だし早いのではないだろうか。
当たり外れや相性はあるだろうけど、やっぱりきちんと訓練を受けた公的な資格を持つカウンセラーやセラピストがいい。
例えば、やり方を知っていて自分も克服したことがあるというただの素人ではダメなのだ。自他境界や転移について無防備過ぎるし、だいたいそういうことしたいのならちゃんと勉強して資格取れよ、そして知識もアップデートしろよと思う。


訳者あとがきもすごかった

訳はトラウマ治療に携わっている牧野さんという方だが、日本で育つことの「文化的トラウマ」について書かれていて、ここでも膝を連打した。
日本の文化(他者を優先できることがいいことだという、自分を大切にする視点がそもそも無い文化)そのものが迎合反応なのかもしれない、とあって、まさにその通りだと思った。

だから、トラウマのある無しに関係なく「自分を大事に」と言われてもさっぱりわからない。美味しいものを食べたり旅行に行ったりと、とんちんかんなことをしてしまう。

そして本編にあるのだが、「エモーショナル・インテリジェンス」がほとんどの人に無い世の中であるという。
重要な人間関係の中で繰り返し生じる当たり前の感情を適切に管理できない。感情はキラキラしたポジティブな感情だけな訳ではないのに、怒りや悲しみ、恐れなどのネガティブな感情を感じることを避けてしまう。文化的にもネガティブな感情は受け入れられない。トラウマを持っていると、その能力が発達していないとのことなのだけど、これはトラウマは関係ないのかもしれないと思う。本の中にもそのように言及されていたが。
自分の感情についてそうなのだから、当然他者の感情も適切に受け入れたり認めたりができない。結局子どもにも同じことをしてしまい、連鎖していく。ああ恐ろしい。

こういうことに気づくことができて、これから自分の中を育てていける機会を持てるのは、非常にラッキーだしお得なのではないかと私は思っている。
ケガをした分身体を大事にしながら鍛えたら、もともとケガをしていない人よりも丈夫な体になりました、みたいな感じだ。

これまで読んだトラウマ関連の本は、治療者の視点や俯瞰した視点のものばかりだったが、この本は自分自身の中に入って読んでいくような感覚があった。

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