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EMDR/11回目

驚くほど解放された感がある

前回の記憶処理から2週間、うまくは言えないがかなり解放された感覚になっていた。ただ、急にいろいろと魔法のように変わったということではない気がする。髪の毛が延びるような、薄皮を剥ぐような、本当に少しずつの積み重ねで実感できるようになってきたという感じだ。

感情を感じたり過去の出来事に触れるのは毎回その場のセッションのみで終わるような仕組みになっているし、今ここにいる自分を常に意識しながらではあるし、EMDRはそんなに時間がかからない。でもやはりトラウマになった出来事の中に入るので、EMDRは疲れる。それから、毎回受ける前は「今回はどんな感情が出るのだろう」とそれなりに怖い。でも、取り組んだ甲斐があったと思えている。これはもう個人差があると思う。

前回胸の中に入れた透明なボールの中で、おソノさんと大人の私に見守られて眠る私はとても安心している。信頼のできる大人2人に見守られていて、母は天上で一休みしている。弟も私の隣ですやすや眠っている。大人の私は、イメージの中の寝室で、箪笥に貼ってあったイエス・キリストのポスターを剥がした。お祈りしたくなければしなくていいのだ。

私には解放感以外にも変化があった。強迫的に本を読み漁らなくなった。もちろん、本を読むことは好きだし、今も読んでいる本がある。読書は私にはとても大事で好きなことなので、これからも好きなように続けていきたい。
ただ、寝食削って読まなくなったし、「読まなくては」という変な焦燥感が無くなった。読める時に読んだらいいと思えるようになった。おかげで謎に疲れ果てている自分からも解放されてきた。

それでもまだ「しんどいなあ」と思う部分はある。寝室へのこだわりや、自分を脆弱だと感じ、それを怖いと思うところなど、まあいろいろある。少しずつ少しずつ、時間をかけて回復していくものなのだから当然だ。


父、ASD説浮上

父はこだわりが強く、その時々で何かに憑かれたようにこだわったりのめり込んだりする。過去には女性や浪費、ギャンブルなどがあったが、年老いた今は「何でもかんでもビニール袋に入れる」ということにこだわっている。父なりにちゃんと理由があるのだけど、端から見るとドン引きだ。強迫観念のようなものがあるのかもしれない。

客としてお店などに行った時、普段から威張っているということは無いのだが、何か気に入らないこと(隣の客が父にとってはうるさく感じる等)があると、途端に不機嫌になりぞんざいな客に変わる。とにかく自分の想定から外れると不機嫌になるし、そうなると周りのことが見えなくなる。溺愛する孫がいても同じ。歳をとって少し丸くなってきたように思えるが、私は父のこういうところが本当に嫌だった。

そして、感情を出すのを嫌う。自分もあまり出さない。小さい頃から私が泣くと「泣くな!泣き止め!」と怒鳴られていたのを覚えている。受け止めてもらったことはほとんどない(というか、そこまでの関わりを持てる関係性にはなれなかった)。できない訳ではないのだが、親せきや近所の集まりに顔を出したがらない。でも悪気は無いようだった。

そんなこんなをセラピストに話していて、やはり父にも特性があるのだろうと思えた。ASD傾向が強い感じがする。セラピストも同意していた。それが父の成育歴に由来しているのかどうかはわからない。わからないが、今の私から見たら、このことは過去のいろんなことに対しての答え合わせのような感覚になった。そして「そうか、それならば仕方なかったのだろうなあ」と大人の自分としては思ったのだった。父も生きづらいだろう。

そして、こんな父といても特に何ともなく喧嘩して「本当に嫌なのよ」と私に愚痴るだけでずっと一緒にいる母は、共依存しているのもあるだろうけど、あまり気にならないんだろうなと気づいた。私ならあんな夫は無理だ。こう思うと、かなり強烈な両親ではあった。でも2人に悪気は無い。悪気が無いのは質が悪いのだけど。


今回も割とハード目な記憶を処理する

今回も7歳ぐらいの記憶の処理を行う。この年齢では他にもかなり大きめのトラウマ記憶があるのだけど、前回と同じく「親の夫婦喧嘩」つながりで処理した方がいいのではないかとセラピストに提案されたので、こちらの記憶を先に処理することにした。

父が長男ということで、私や弟が中高生になるまでは休みの度に家族で父方の実家へ帰省をしていた。

父は外面を気にする人なので(まあその割にはファミレスで母と大喧嘩とかしていたけども)、自分の両親には母と険悪になっている様子を一切見せようとしなかった。そして、母も父の実家ではおとなしくいい嫁を演じていた。私はそんな2人を見て、何も言われた訳ではないのにいい子にして、父と母は喧嘩なんてしませんよという素振りをいつのまにかするようになっていた。子どもの学習能力すごい。

祖父母は優しかったし、いとこ達とは楽しく遊べたし、何より例え嘘でも父と母の喧嘩を見ないで済むのはとても楽だった。なので、私は祖父母宅に行くのが好きだった。私が成人後に父と母の間が拗れ、父方の親戚も巻き込み私もいつの間にか巻き込まれていて大変なことになったのだが、それはまた別の話だ。

ただ、父と母はみんなの前で我慢している反動からか、帰省中に家族だけで出かけたりすると、そこで必ずひどい喧嘩をした。そして、喧嘩が終わってから何食わぬ顔で祖父母宅に戻る。私も弟もそれに合わせて何食わぬ顔で過ごしていた。当時は相当きつかったはずだけど、おかしなことだと思わなかった。父と母のことを知られるのが恥ずかしかったというのもある。

今回処理するのは、7歳の年末年始に、父方の祖父母宅へ帰省した時の記憶である。

その日は何かの用事で祖父母宅から家族だけでどこかに出かけていた。帰りの車の中で、例によって両親はひどい喧嘩になった。私は小さな弟と後部座席に座っていたのだが、いつものように固まって身動きしないようにしていた。ふと弟を見ると、涙を流していたのでびっくりした。「泣いていいのか」と思ったが、弟を慰めるようなことすら思いつかずにそのままじっとしていたら(治療中に気付いたのだが、私が余計な動きをすることで両親の喧嘩が破局に向かうのが怖かったので、毎回じっとして凍り付いていた)、母が気づいて弟を慰めた。

これは、今も「あの時弟のことを抱き寄せたらよかったのに」と心が痛くなるが、その時は凍り付いていて呼吸だけでいっぱいいっぱいだったのだろうと思う。ていうか、私のことも誰か抱き寄せてやってくれという感じだ。

その日はいつまで経っても父も母も気が済まず、喧嘩が終わらなかった。そろそろ祖父母や親戚のみんなが心配するかもしれないということで、祖父母宅の家の前に車を停めて私だけ降ろされ、先に入っているように言われた。お父さんとお母さんたちは後から帰ってくると伝えなさい、と。弟は小さいので母といなくてはならない。そして、父と母はまだ車内で喧嘩を続けるという訳だ。今思うとクソだ。

私は言われたとおりに祖父母宅に戻り、お父さんとお母さんは後から戻るよと伝えた。そして、ちょうどゲームで盛り上がっているいとこや親戚たちに混ざった。心の中は不安と怖さでいっぱいだったが、ここでは隠さないといけない、笑わないといけない、父と母のことは隠さなくてはならないと思い、無理に笑ってゲームをしていた。そして楽しそうないとこ達を見て「ああ、みんなは嘘をつかないで笑ってて楽しそうでいいな」と思ったのを覚えている。

そのうち父と母と弟が戻ってきた。母と弟はそのまま自分たちの部屋へ行ったが、父がそっと様子を見に来て、私がみんなに混ざってゲームをしているのを見て頷き、そのままいなくなった。私は「喧嘩が終わったんだ」とホッとした、という記憶だ。

何がきつかったかというと、喧嘩が怖かったのもあるが、祖父母やみんなの前で辛いのに笑わないといけなかったのと、圧倒的な孤独感だと思う。誰にも分かってもらえるとも思えなかったし、誰にも話せないし頼れないと思っていた。周りの大人は全員ダメだった。抱えきれないようなきつい感情も、全部自分で何とかしないといけないということが本当にしんどかった。

セラピストに「感情を感じてはいけない」「嘘をつかなくてはいけない」というのは機能不全家族に特徴的だと言われた。しかも、暗黙の了解でそれをするのだ。子どもが自分から役割を演じるように仕向けている。

これを処理していく。


また両親を「ケア」していることに気づく

今回の記憶で私が持っている否定的認知は「私は孤独だ」「私はわかってもらえない」だ。肯定的認知はセラピストと話して「私は大丈夫だ」になった。この時の私は「どこに行っても安心なんてできないんだなあ」と絶望していた。自分の居場所はどこだろうと感じていた。みんなが楽しそうにしているその場所も、私にとっては「不安なのにそれを隠して笑っていないといけない場所」だった。安心感が無い。自分は大丈夫だと思えない。だから、この場面で「私は大丈夫なんだ」と自分自身で安心感を持てたらいいのだろうと思ったのだった。

この記憶を思い出すと感じる身体感覚は、ひどい動悸と喉の奥が詰まるような感じと、身体に力が入らない感覚だった。

いつものように装置を使って、何セットも繰り返して処理をしていく。その時の記憶と感情、身体感覚に意識を向けて、1セットごとに出てくる認知に向き合う。

今回の記憶では「絶望」が大きかったのだと気付いた。こんなしんどいことをするしかないのか、という感情があったが、それを感じないように笑っていた。どこに行ったらいいんだろう、どこにも行けないし、という感じ。辛い。必死に感情を感じないようにしている。セラピストに「この場面では解離していたかもしれません」と言われた。そりゃあ何食わぬ顔で過ごせるわけだ。

私は両親と祖父母や親戚たちとの間を取り持っていた。両親が安心して喧嘩できるようにしてあげていた訳で、本当に両親は馬鹿じゃないのかと思う。
不安な気持ちを抑え込んで両親の暗黙の望み通りに嘘をつき、本当のことを隠して取り繕っていた。しっかり父と母を「ケア」して、「役割」を果たしていた訳だ。またケアしているではないか。

こんなにケアばかりしてきたのに、自分をずっと「悪い子」だと思っていたってどういうことだろう?


自分の感情をそのまま出して受け止めてもらえるという安心感

ここで、大人の私がこの記憶の場面に入る。実は私的にはもう「待ってました」という感じになっている。これまでに大人の私が子どもの私を救い、安心させてあげることを繰り返してきた。なので、大人の私が来てくれるというのはとても安心できることなのだ。そして子どもの私に「怖いよね、不安だよね」と言ってあげる。すると子どもの私は泣きだした。怖いと思っていいのか、と気持ちが緩んだみたいになった。

ここで、大人の私は子どもの私にどうしてあげたいですか?とセラピストに聞かれた。子どもの私をその場から違う場所に連れ出してあげたいと思った。感情を抑えずに、安心して泣いて欲しかった。でもおじいちゃんおばあちゃんに本当のことは話したくない、という子どもの私の気持ちも尊重したい。なので、大人の私が「ちょっとこの子を連れてお散歩してきますね」と祖父母に話してから連れ出すことにした。安心できる部屋で子どもの私に寄り添う。子どもの私は怖いよ、とたくさん泣いた。

感情をそのまま出して、それを受け止めて分かってもらえるというのはなんと安心できるのだろう。怖いのも不安なのもそれでいいのだ、隠すことはないのだという気持ちで安心できる。大人の私が何でも受け止めてくれる。本当は親にやって欲しかったことだ。

そして、子どもの私を安心させるために、大人の私は両親や弟の様子も見に行った。大丈夫。もう終わるよ。○○ちゃん(弟)ももう泣いていなかったよ。そう伝えてあげる。子どもの私はますますホッとする。気持ちが落ち着くと、いとこ達と遊びたくなってきた。遊ぶのは楽しいのだ。大人の私は近くで見ていてあげるから、遊んでおいでと言う。子どもの私は元の部屋に戻る。私は大丈夫だ。


思えば結構解離してきたのではないか

ここまで来ると、否定的認知の数値が低くなっている。ただ、今回は完全にゼロにはならなかった。それは祖父母には隠し通さなくてはならないという絶望感がどうしても残ったからだった。大人の私としては、結果的にそれしかなかったし仕方ないとは思っている。ただ、やはり現実は変えられない。
セラピストによると、この部分に取り組みたければ別の処理になるそうだ。そこまで重要なこととは今の段階では思えないため、これでよしとした。

そして、肯定的認知の植え付けに入る。大人の私が受け止めたことで、安心感を持てるようになっていた。辛かったししんどかったけど、それを受け止めてあげられる。私は何も悪くないしそのままでよかったのだ。私は大丈夫。それより、本当によく頑張っていたよな。自分に対する思いやりの気持ちでいっぱいになる。

その後私のリソースであるおソノさんが出てきてもらい、今回の記憶について話を聞いてもらった。大人の私とおソノさんで、子どもの私に寄り添う。とても安心できる。

今回の記憶に限らず、きついことがあっても固まって、その後何事も無く過ごすということが多かった。セラピストが言うには、結構解離を使ってきたのではないかとのことだった。最初に受けたテストでは解離はそこまでひどくないが、多少なりとも解離はあるでしょうという結果だった(おそらく解離がひどかったらEMDRでこんなにバンバン処理できないと思う)。

きっとこうやって普通に生活していくために解離を使っていたのだろうと思う。本当に辛い中頑張ってきたのだ私は。私の幼少期の人生に寄り添い、レッドカーペットを敷いて回りたい気持ちになる。

自分に対する思いやりの気持ち(セルフコンパッションなのだろう)で、涙が出るようになった。悲しいとか辛かったというのとはまた別の感情だ。

おそらく次回もきつい記憶を処理するはずなので、今から少し怖いししんどい。でも子どもの私を助けたい。
また2週間後。


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