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EMDR/3回目

インナーチャイルドの叫び

先日アダルトチルドレンのカウンセリングで話したのをきっかけに、この治療を受ける数日前から感情がドバっと出る時期が続いていた。それは、とても深い悲しみの感情だ。夜になると決まって悲しくてたまらなくなる。何が悲しいのかというと以下の6点だ。

  • 自分は本当に誰かに心から全部わかってもらって、受け止めて欲しかった

  • 老若男女は分からないが、いつかそういう相手に巡り会えるんじゃないかと思っていたし、無意識に探していたし、この人は違ったと思っていちいちがっかりしたりしていた

  • そんな相手はどこにも存在しないし、自分の親でもあり得ない、そもそもそんな「理想の保護者」は幻想だと気づいた

  • 本当にそんな人はどこにもいないんだと心の底から実感した

  • じゃあこのわかってほしい気持ちはどこに行けばいいのか

  • わかって欲しい、見て欲しい、受け止めて欲しい、寂しい

これはずっと子どもの私が心の奥に抱えていた感情なのだと思う。でも、もうそういう相手はいないんだと心の底からわかってしまって、どうしようもなく悲しくなっている。普通に考えたら「どうしちゃったの」という感じだ。当たり前のことだし、私だって何も大人の頭ではこんな相手を探したりはしていない。でも、子どもの私は探してきたんだというのは今はとてもわかる。それがもう無理なんだ、やっても仕方無いんだとわかってしまって悲しくてたまらない。

そういう訳で、夜になって悲しさが抑えられなくなり、1人になってこっそり泣いていた。自分ではどうにもならない感情だったので、インナーチャイルドなんだろうなというのは何となくわかった。


応接室にもう1人発見

EMDR治療前のカウンセリングでセラピストにこのことを話した時も、どうにもならなくなり泣いてしまった。EMDR治療やカウンセリングで子どもの自分を出しているので、こういう風に子どもの感情が出てしまうことはよくあるらしい。まあ、いいことではある。今まで抑えて見ないようにしてきた感情を出せるようになったのだから。

そんなこんなで感情ダダ漏れで始まった今回のセラピーだが、感情ダダ漏れのまま終わった。今回は前回よりもますます「こいつ何言ってんだ」感がすさまじくなると思う。ただ、これって私にとっては全部「本当のこと」だ。

今回もいろいろとあった5歳の時の記憶を処理することにした。いくつかある記憶の中から、どれをターゲットにするかは、イメージの中の応接室にいる5歳の私と相談してみましょうということになり、安全なイメージに入った後に、地下への階段からいつもの応接室に降りて行った。

入ってみたら、いつもの5歳のブルーのワンピースの私(以下青ちゃん)が元気そうに座っていたが、その向かいに白いワンピースの同じく5歳ぐらいの私(以下白ちゃん)がいた。座って、応接室のテーブルに突っ伏している。元気が無くぐたっとしていて、髪の毛はぼさぼさだった。怒っているし疲れている。その子を見たとたんに涙が止まらなくなった。

もしかしたら最初からいたのに、私が見ないようにしていただけかもしれないと思った。なんとなく、その子がいろんなことを1人で背負っていてくれたような感じがした。青ちゃんが元気でくるくるしているのも、白ちゃんがその分を肩代わりしてくれているからかもしれない。

セラピストの誘導で、2人に挨拶してから青ちゃんと白ちゃんに記憶を処理してもいいか、どの記憶がいいかを聞いてみた。青ちゃんは元気に我関せずなので、白ちゃんに聞いて、5歳の時の母が私と弟を連れて家出をした時の記憶をターゲットにすることになった。青ちゃんと白ちゃんにも一緒に見ていてもらう。


リソースを作りながら記憶を処理する

ざっくりとした記憶の内容は
「5歳の時に、母が私と弟を連れて近場の温泉へ家出した。置手紙から父が探して翌日ホテルを突き止めて迎えに来た。翌日は父の用意したホテルに泊まって帰ったが、その時に母がずっと泣いていて、父が取った行動で私がとても傷ついた」
という出来事だ。傷ついた出来事の内容は書かないが「私が悪いのではないか」「私がおかしいのか、普通の子じゃないのか」という感覚になった。

ちなみに、感じていた身体感覚の中に「自由になりたいのになれない絶望感」のような、ここから逃げたいのに逃げられなくて苦しい感覚があって、それは私が美容院のシャンプーなどで感じる予期不安にとてもよく似ていた。

肯定的な認知は「私は私でいい」というもので、否定的な認知は「私は普通の子ではない」というもの。最初はもちろん、肯定的な認知は低く、否定的な認知は高い。白ちゃんにも聞いてみたが、私よりも否定的な認知が高かった。ちなみに今回は最初から泣きっぱなしである。白ちゃんの存在でもうどうにも感情がメタメタになってしまっていた。

前回と同様、頭に浮かんでくるイメージや感情を感じながらセットを繰り返す。途中で記憶の中に大人の私が登場して当時の私を助け、だんだん自分の中に出てくる新しい認知や感情が湧き起こり、これまでの辛い感情が治まっていった。ここで、当時の5歳の私を励まして「私は私でいい」と、父と母に向かって言ってもらうことができた。青ちゃんと白ちゃんと私も加勢して一緒に叫んだ。「私は私でいいんだ」。白ちゃんと青ちゃんは楽しそうな感じだった。このみんなで言えた時のイメージが最高によかった。

そして、認知でちょっと行き詰ったかなというところで、新たにリソースを作った。
この当時の両親は「まだ親として未熟で修行が足りない」。なので、いったん用意した大きな箱に入ってもらう。私の当時感じていた体の感覚も一緒にその箱に中に入れる。そして、その箱は天空まで伸びる強い光の中をどんどん上に上って行って、一番上までたどり着く。両親はそこで「親になるための修行」をしていてもらう。

そして、セラピストに「こういう人が親だったらいいな」と思うような存在はいるかと訊かれた。映画やキャラクター、ドラマなどなんでもいいとのこと。そんなのを考えたこともなかった。そもそも、円満なシーンを見ても「何かあるんじゃないのか」と勘ぐってしまうタイプなのだ。

でも、そこでふと頭に浮かんだのが「魔女の宅急便」のオソノさんと寡黙なパン屋の旦那さんだった。
親だったらいいのに、と切望したことはないけれど、キキのジタバタに対して一定の距離で見守っている感じがいいなあと思っていた。尊重している感じ。でもきっと、何かあって話をしたかったら、黙ってうんうんと聞いてくれるだろう。そして、何より安定している。きっと大人同士の問題を子どもに晒したり見せてきたりはしない。私にとっては「安定している人」というのがとても大事なのだと思った。

そして、天空で修行中の両親に変わって、とりあえずの「親」として、オソノさんとパン屋さんが代役を務める。弟も連れて行き、4人で暮らし始めるところをイメージする。私は安心している感覚があった。喧嘩が無いからだ。大人が安定して、こちらの話を聞いてくれるって何て安心なんだろうと思った。私は弟をいじめることもなく、訳の分からないことでぐずることもなく、普通に安定して暮らしている自分をイメージできた。どうやら私がおかしい訳ではないらしい、というのが実感できた。

お父さんとお母さんはいつ修行を終えるかな、でもあっちでお父さんとお母さんが幸せなんだったら、別にこのままでもいいかなという感覚になった。

そして、最後にオソノさんたちと暮らして安定している自分を透明なボールに入れて、苦しい身体感覚があった胸の真ん中にしまう(その身体感覚は、さっき箱の中にしまって天空に上げてしまった)。胸から取り出して見てみると、そのボールはキラキラしている。私の情動を助けてくれるものなのだそうだ。これから一日一回、このボールを胸から取り出して眺めることをしてくださいと言われた。

(ちなみに、この流れの中で治療を何セットも繰り返して、記憶の処理と新しい記憶の植え付けなどをしている)


「私は私でいい」という心からの感覚

一連のセットを終えて、また自分の認知を確認する。
治療前はあれだけ低かった「私は私でいい」という認知が、最高値になっていた。本当にそう感じる。父や母がどうあろうと、嫌で悲しい記憶だけど、その中でも「私は私でいい」のだ。絶対に。私に悪いところがあったんじゃないかという感覚が全く無くなった。これはデカい。私自身にもちゃんと言ってあげられるようになれる。「私は私でいい」と。子どもの私たちと一緒に叫んだのがとてもよかった。

そして、また応接室から地上に戻るために青ちゃんと白ちゃんに挨拶をする。白ちゃんはまたぐったりとテーブルに突っ伏してしまった。まだまだしんどい気持ちがあるのだろうと思う。
また次回ここに来るからね、ありがとうと声を掛けて、布団をかけてあげた(後になって、ちゃんとベッドを作って寝かせてあげたらよかったと後悔した。次回はそうしてあげたい)。

青ちゃんは、前回から私に付いてきたそうな感じがあった。今回、一緒に帰りたい感じだったのでセラピストに聞いてみたら、自分の中に統合することができると言われたのでやってもらった。青ちゃんは、私の胸の中の透明なボールが入っているその上で、ふわふわと座っているような感じになった。

私の気持ちとしては、とても嬉しい。連れて帰れてよかったと思っている。青ちゃんはあまり感情をため込んでいない感じで、子どもらしい子どもだ。寂しかったんだろうというのはとても伝わってくるので、話しかけたりしながら気持ちを大事にしていきたい。

次回は2週間後。
最近、ものすごくよく眠れるようになった。休日は何も無いと10時間ぐらい平気で寝てしまう。そして、その日の夜も普通にぐっすり眠れる。体が求めているということなのかもしれない。

読み返しても、私以外の人間が読むと「訳わからん」という感じになるなあと思う。でも私の中では「本当のこと」だ。
私は言語と目に見えるもの偏重人間だったはずなのに、変われば変わるものだと思う。

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