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トラウマ関連の読書記録⑳「EMDRと自我状態療法」

今受けている治療の解像度が爆上がり

この本は、三森みささんがXでポストされていて「めっちゃ面白そう」と思い、即購入した。

いやー面白かった。確かに専門用語が多く使われているが、ある程度トラウマ治療関連の本を読んできたので難解ではなかった。あと、絵がかわいい。
ちなみにどうでもいいけど、本が大きいので持ち運びがかさばった。

この本は解離性同一障害のクライアントに向けた、EMDRと自我状態療法を組み合わせたプロトコルについて書かれている。解離の有る無しや重症度は個人差があるけど、治療の過程は共通するものがあるので、かなり興味深かった。

EMDRはトラウマ治療に有効であるということは広く認められているが、幼少期からのトラウマにはEMDR単体だと効果が無いらしい。私もEMDRだけの治療を受けてはいない。これまではホログラフィートークと組み合わせているのかな?と思っていたのだが、この本を読むと自我状態療法と組み合わせていたのだろうと思った(私の受けているセラピストは、ホログラフィートークも自我状態療法も専門にしている)。

この本では、EMDRを始める前段階における手法と、EMDRの治療の時に使うアプローチと、その後のプロセスについて順を追って書かれている。何と言っても前段階が長い。この段階で感情耐性を高め、自我を強化し、トラウマ題材を封じ込める。そうしないとEMDRに耐えることができないかららしい。ここに時間をかけて、じっくり取り組んでいく。

解離の軽い私には縁の無さそうな過程もあるが、今自分が取り組んでいることに対する解像度が爆上がりした。


イメージはやはり強力なのだな

EMDRにたどり着く前のごく初期の段階について書かれた「封じ込めと安定化」の章がとても面白かった。そういえば「会議室のイメージ」などは、最初の頃にやっていた。途中から会議室に入ることなく記憶の処理を始めるようになっていたけど、私には必要無いということだったのだろうか。当時白いワンピースの7歳ぐらいの私を置いてきたままだったのだけど、どうなっただろう。次回聞いてみよう。

そしてイメージについて。私の癒やしはほぼイメージの中で行われている。安心感を持てて心が満たされる感覚になるのは確かだし、おかげで記憶の処理もどんどん進んでいるという実感もあるのだけど、イメージだけで?そんなものなのかな?これってどうなの?と少しだけ思っていた。でも、それでいいらしい。こう書いてある。

「誰かに愛されて育てられた、という感覚の欠落を埋めるには、イメージが強力な手段となります。人間の脳というのは、そのイメージが想像の産物だということはあまり気にしないようにできていて、たとえ心の目に映るだけの慈愛体験であっても、その癒しの効果には目を見はるものがあります。」

「イメージは、生命力を体感する助けとなり、このような感覚はクライエントのリソースを増強する」

私がイメージの中でおソノさんや小さな私と安全な場所で過ごすイメージは、回復にとても重要で効果のあるものなのだなと改めて思った。

ただし、こうも書いてある。
「また、イメージを使って慈しみの体験をさせようとする場合は、適切で共感的な治療関係の流れの中で行わないかぎり、単なる空虚な遊びに終わってしまうこともあります。」
イメージを使うのは関係性やタイミングも大事なのだろう。


やはりここでもパーツの概念登場

自我状態療法がどういうものか、私はきちんと理解できていないが、パーツの概念が出てきた。これは解離性同一障害のクライアントの治療に向けたものだからという訳ではないだろう。トラウマ治療にパーツの概念はとても有効なのだと改めて思う。

治療の過程は用心深く慎重にいろいろな手法を使っていて、かなり面白い。
健忘障壁を壊さないようにしながら「フロントパート(日常生活を送っている、表面的にノーマルな人格)」には気づかれないように進めていく、とか、会議室以外にもさまざまなツール(感情調節のスイッチとか待合室とかトラウマ記憶をしまっておく書庫とか)を使って、クライアントのパーツと協力しながら進めていく、とか。

どれも少しずつ進めていき、セラピストとクライアントとの関係性を適切に築いていく。事例を読むと、EMDRまでに年単位の時間をかけていたりするので驚く。

パーツの統合は、トラウマ治療の過程で自然に起きるとあった。
「自己が統合されると、思いやりとセルフケアの能力が増し、複数の自我状態が適応的な機能と学びのためのチームとなって円滑にはたらくようになる」
この文章には、この本の表紙の絵が添えてあるのだけど、とてもいい。回復した内面の状態なのだろう。


内在化された親の像=親の姿を取り込んだパーツ

「母親の理不尽な意見を、子どもはそのまま信じてしまう」
とある。これは解離の有る無しに関係無いらしい。そして信じた結果、自分の中に理不尽な意見を言う親の像を内在化し、親の姿を取り込んだパーツとなる。きっと内的な批判者は同じようなものだろうと思う。それとも親の姿のパーツとは別の概念なのだろうか。

クライアントは「自信を持ちたい」という願望を持っているが、親への忠誠心に束縛されていて(内在化された親の像に対する忠誠心ということなのか)、この2つの間で内面の葛藤が生じている。この内在化された親の像を修正していくと、葛藤を解決していく手がかりになっていく。

でも、親の像を修復できない場合もある。ていうか、修復できるの?と私は思ってしまう。愛されていなかったとかそういう問題ではなく、私の母はやっぱりどう考えてもこちらのことをわかってくれるとは思えない(それは母が悪人だからとかそういうことではない)。その答えは、やはりおソノさんに代わりに癒してもらうということだった。

「クライエント自身が選んだ想像上の代理母を使って、クライエントに内的な慈しみを与えるようにすれば首尾よく運ぶことがあります。」

そして、「子どもの健全な発達に必要でありながらも満たされてこなかった欲求」を満たすために自我状態に働きかける。私もおソノさんや大人の私に、当時の親や周りの大人に子どもの私がやって欲しかったことをやってもらって満たされてきた。こうやって発達上の欲求を満たしていって、内面の葛藤を解決していく。

ちなみに「たいていのクライエントは内的力動が再編されるまで安定した状態でセラピーを受けられない」とある。
解離がひどくなくても、やっぱり前段階はとても大事なのだ。焦っていきなりEMDRだけ受けて楽になれるということは無いのだろう。当然のことながら、それは逆効果らしい。


加害者の目を通して外界を見る

上にも書いた内在化された親の像に関連しているが、怒りのパート(この本ではパーツとパートと書き分けている)もある。自己防衛機能として生じるのだけど、そのことを自分で忘れてしまうこともあるらしい。

怒りのパートは自分よりも小さくて弱いパーツを軽蔑するようになり、クライアントのトラウマを弱い子ども(のパーツ)のせいにしようとすることがある。これは子ども時代の自分の親の権力や、親子の力関係を内在化することで、加害者(親)の力をいくらかでも感じようとしている、とある。なんとなくわかる気がする。

「つまり、加害者の犠牲になったという辛い感情を否定し、自分は犠牲者ではないと思い込み、それをほかのパート/パーツに押しつけてしまうのです。」

自己批判や自己否定って、結局は「攻撃者との同一化」であって「加害者の目を通して外界を見る」ということをしてきたということなのか。
前回のEMDRで処理した記憶みたいに、母が寄り添ってくれず否定されたことを「私が悪い、失敗した、恥ずかしい」と思ってきたというのは、母の目を通して見てきた(それは実際の母とは違うし、私の中の母なのだけど)ということなのか。なんかすごいな(ちなみに今現在あの恥ずかしい感情は一切無くなっていて、しみじみと驚いている)。

「治療が終盤に近づくにしたがい、加害者の意見を正しいとする傾向が減り、テレサは自分自身を責めるのではなく、当時の幼かった自分に思いやりがもてるようになりました。テレサの忠誠心とカセクシス(心的エネルギー)は自己のほうへと移り、加害者への愛着に向けられていたエネルギーは大幅に失われました。」

加害者(親)への愛着!
つまり、当時の幼く傷ついていた自分のことを思いやるよりも「自分が悪かったからだ」と思うのは、親への愛着や忠誠心ということなのか。傷ついたのにそれを感じないようにして(これが解離か)、さらに親を内在化して自分を否定して攻撃し、その内在化した親の視点で物事を眺める…めちゃくちゃ辛いししんどい。でもそうしないとあの時は生きていけなかった(日常生活を送れなかった)んだよね。


引き続きじっくり取り組んで自分を癒していきます

実は、前回のEMDRの時、セラピストの本棚にこの本を見かけて密かに興奮していた。そして、セラピストはアセスメントもしっかりしてくれたし、慎重に進めてくれているのだなと改めて感謝の気持ちが湧いた。

この本にあった「部屋を一度に掃除すると、ますます混乱する」という言葉と、セラピストの「(記憶を)一つ一つ片付けていきましょう」という言葉がリンクした。引き続き焦らずじっくりやりたい。EMDRを受けることができて、私は本当に幸運だと思う。

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