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EMDR/10回目

前回までとは打って変わって穏やかな日々だった

今回までの2週間は、とても穏やかな日々だった。フラッシュバックも怒りも無く、何となく「気が済んだ」というような感覚だった。こういう時期もあるし、前回のような時期もあるということなのだろう。

セラピストからは部屋に入ると「今日は目に力がありますね」と言われた。前回よりは確かに元気な状態だと思う。
前回怒りの気持ちを正直に話したことで、セラピストに気を遣わせてしまっているのではないかと思い、そこで「こういうところだよなあ」と気づいた。正直な気持ちを話したのだからそれでよかったし、そしてこういう風に思って少し気まずい気持ちになるのも私なのだから、まあいいかと思った。


予期不安が軽くなってきたような感覚

まずは前回の確認。
1歳の私が、瞼を切開されるという処置を受けたところをイメージしてみる。その時の感覚や肯定的な認知はどうなっているのか。
前回処理した後と変わらず、手術台で恐ろしいことをされるイメージから、明るい診察室で処置を受けているイメージになっている。心配され大事にされている自分という感覚。怖くて痛かっただろうけど、それはそれ。

先日耳鼻科に行ったとき、小さな子どもが診察室で処置を受けて大泣きする声が聞こえてきた。耳鼻科あるあるだ。待合室でその泣き声を聞いて、過去の私のことを思った。小学生ぐらいまで怖くて泣いていて、親や医者に怒られ呆れられていたけれど、でも怖かったんだもんね。悪いことしていたわけじゃなかったし、それでいいんだよ。怖いものは怖い。そう思ったらホッとした。怖がったっていいじゃないか。

そして、何となくなのだけど美容院のシャンプーなどに対して抵抗が薄くなってきたような感じがする。まだわからないけれど。とりあえずずっと受けたいと思っていた整体に行ってみることにして、予約した。うつ伏せで施術を受けたりすることが怖いと思っていたが、今は想像しても大丈夫そうだと感じる。行ってみてやっぱり怖かったら止めればいい。


かなりきつかった記憶を処理する

今回は7歳頃の記憶を処理する。思い出してもきつかったなあという記憶だ。セラピストはセッションを終わる時に「この記憶にはいろんな要素があって、ルルさんの中で核となるような記憶だと感じていたので、大事にルルさんのペースで取り組もうと思っていました」と言われた。確かにそうだった。

ちょうどこの時期、いろいろと辛かったであろう母は熱心に教会に通うようになった。もともと母の両親(私の祖父母)が敬虔なクリスチャンで、母も以前から教会に行ったりはしていたらしい。私と弟は土日に母と教会に行くようになった。日曜学校などは楽しく、特に辛い記憶も無い。そこでお祈りを教えてもらい、毎食前にしましょうと言われた。家でも母が主導して、食事前にはお祈りをするようになった。

私はお祈りの文句を覚えて、母と一緒に唱えるようになった。そうすると母は喜び、褒めてくれた。そして私は学校でも給食前にこっそり心の中でお祈りを唱えるようになり、寝室の入り口にイエス様のポスター(どうやってそんなものをゲットしたのかは覚えていない)を貼り、寝る前にもお祈りをするようになった。今思えば、母に認めてもらえるので頑張っていたのだろう。当時の私は神様を信じていたわけではなかったと思う。

一方、父は月に数回しか帰ってこなかったが、帰ってくると必ず母と喧嘩になった。特に私や弟が寝てから夜中に喧嘩をするのだが、ヒートアップすると怒鳴り合う。そのたびに私は目が覚めてしまい、喧嘩に怯えながら布団に潜ってやり過ごしていた。あれは本当に嫌な気持ちだった。

そして出来事があった日の夜中も、父と母は喧嘩をしていた。私はいつものように起きてしまい、また眠るまで布団に潜ろうと思ったのだが、その日は「神様にお祈りしてみよう」と思いついた。寝室の入り口にあるイエス様のポスターの前に立って「お父さんとお母さんが喧嘩をやめますように」とお祈りしていた。

ふと目を開けると、寝室の襖が開いて母が目の前に怖い顔で立っていた。びっくりした私が何か言う前に母が「そうやってお母さんとお父さんの喧嘩を見て楽しんでるんでしょ。喧嘩すればいいと思ってるんでしょ。あんたのせいで喧嘩してるんだからね!」と怒鳴った。

怖かったし悲しかった。母の言っていることが信じられなかったが、私のせいで喧嘩しているのだから仕方ないと思い、そのまま黙って布団に潜って泣いていた。父がやってきて母に「そんなことを言うな!」と言っていたが、母は向こうの部屋に戻り何か怒鳴りながら泣いていた。そこから先の記憶は無い。おそらく、朝目が覚めたらいつも通りの生活をして学校に行ったのだろう。母ともそのことで何かを話したり謝られた記憶は無いので、そのままだったのだと思う。

この記憶を処理していく。今回は結構時間がかかった。


自分を受け止めてくれる大人が1人いるだけで違う

この記憶に対する否定的認知は「私が悪い」で、辛い気持ちは8ぐらい。かなり高い。肯定的認知は「私はそのままでいい」で、この言葉を信じられるかどうかの度合いは0だ。全然無理だと感じる。身体感覚は、喉の詰まりとお腹の上のあたりがキューっとなる感覚、そして呼吸が浅い。

いつものように眼球運動と両側刺激で処理を行っていく。セットを繰り返しては浮かんだことや認知を話す。今回は最初から最後まで涙が止まらなかった。最初は怖くて分かってもらえなくて悲しくて仕方なかったので涙が出ていたが、だんだん違う涙に変わっていった。

母が怖い、分かってもらえなくて悲しい、でも喧嘩の原因になっている私が悪いのだから仕方ない、というのが当時の気持ちだった。それを全て飲み込んで布団に潜り、翌朝からいつも通りに生活をした。いつもそうやって自分1人で感情の処理(というよりも考えないようにする)をしてきた。

ここで大人の私がその場面に行き、子どもの私に「お母さん怖いよね」と優しく言うと、子どもの私は泣きだした。寄り添い抱きしめながら、大人の私は母に「どうしてそんなことを言うのよ。何も悪いことをしてないじゃないか」と怒る。子どもの私は「分かってもらえた、私が言いたかったことを代わりに言ってくれた」と思い、ものすごくホッとした気持ちになった。大人の私も、子どもの私のことを心から支えたいと思っていた。

大人の私がそばにいることで、子どもの私の気持ちにも余裕が出てきた。もう大丈夫。分かってくれるひとがいる。
そして、当時の私が何もかも飲み込んで1人で泣きながら布団に潜り、翌朝から何食わぬ顔で普通に生活を続けたことを思うと、本当に頑張っていたんだ、辛かっただろうと思い号泣した。こんなに抱えきれないほどの気持ちを全て飲み込んで暮らしていたのだから、しんどくなって当然だと思った。


私は本当に悪い子なのか(5か月ぶり125回目)

今の私は「本当はあの頃の自分は悪い子ではなかった」と分かっている。でも、当時の私はずっと悪い子だと信じていた。この出来事の時も、悲しくてショックを受けながらも「私は悪い子なので仕方ない、こういう扱いを受けるのが当然だ」という声が自分の中でしていた。だから何を言っても仕方ないとあっさり諦めて布団に戻ったのだった(母の精神状態がどう考えてもおかしかったというのもあるが)。

この声について話すと、セラピストに「内なる批判者ですね」と言われた。そうだった。内なる批判者はその頃にはしっかり私の中にいた。日頃から親が喧嘩するのは私のせいで、私が悪い子だからだと親に言われてきた。わがままで思いやりが無いとも言われてきたので、その声がしっかり内在化されている。

このセッションの時に気づいたのだが、中学生ぐらいになると、親(特に母親)は私を悪い子だとか私のせいで喧嘩すると言わなくなった。その代わりに母からは父の素行のことや親戚の悪口など、いろいろなことを聞かされるようになった。でも私の内なる批判者はそのまま残り、ずっと私のことを責め続けて嘲笑してきた。

セラピストは「結局ルルさんは、小さい頃からずっと親の精神的なケアをしていたんです。お父さんは依存症でお母さんも精神的に不安定だったのを、ルルさんが無意識に面倒を見る形になっていました。ヤングケアラーだったと思います」と言われた。ヤングケアラーの定義には、精神的に不安定な親の面倒を見るという項目もあった。そこまでなのかな?とは思うが、確かにずっとケアをさせられていたのだろうとは思い当たる。

私は親に「悪い子だ」と言われ、自分でも悪い子をなぞる行動をしていた。よく愚図るし弟もいじめていた。どちらが先なのか。私が悪い子だから親が言うのか、その逆か。そこでセラピストに「家族のスケープゴートだったのだと思います」と言われた。家族がうまく回るように、私が生贄になる。父と母は、私に怒る時や私を悪い子だと言う時は意見が一致していた。私が問題を起こし、それを怒る親という構図で家族が機能するようになっていた。親も自分たちのバランスを取るためにそういう役割の私を必要としていた。

私はどうだったか?悪い子になりたい子どもなんていない。ただ、親がそれぞれ精神的に不安定だったり問題があるということに直面するよりも、自分が悪い子だと思っている方が楽だったかもしれない。

こういったことはこれまでにいろんな本を読んだり過去のカウンセリングで向き合ったりして、頭では分かっていた。でもEMDRのセッションの中で処理をしながら向き合うことには大きな意味があったように思う。この出来事の時の私に、大人の私が心から「悪い子じゃないよ、本当によく頑張ってきたじゃない。もう一緒にいるから大丈夫」と言ってあげられた。子どもの私は号泣して大人の私にしがみついていた。


母には休みが必要

安心したことで、子どもの私は眠くなってきた。そこで大きな箱が登場した。箱の中に当時の母を入れて、私の感じていた、喉の詰まりやお腹の上のあたりのキューっとなる感覚、呼吸の浅さなどの身体感覚(ここまで処理が進んでかなり軽くなっていたが)も一緒に箱に入れる。そして天空の一番上にその箱が上がっていき、母はそこでお母さんとしての修行をするために過ごす。

私のイメージの中では、天空は明るくて暖かく美しく、他にもいろんなお母さんの修行中の人たちや教える役目の人たちがいる。そこに上がり、母は嫉妬や喧嘩ばかりの日々から離れて一休みしている。ぼんやりとお茶を飲んでいる。悪くない。

母も父に振り回され、子育てに追われ、自分の感情に振り回されていた。母には休みが必要だったと思う。そう思うと母がお茶を飲んでいるイメージに安心した。

子どもの私は「お母さんは私のお母さんだから大事だけど、あんなお母さんだったら上でお休みしていてくれたら安心」と感じている。大人の私もそばにいるし、お母さんも休めるんならよかったなあと思ううちにますます眠くなった。そこで私のリソースであるオソノさんにも登場してもらった。私とオソノさんに見守られながら子どもの私は眠る。この時点でもホッとして涙が止まらなかった。

このオソノさんと大人の私に見守られて眠る場面は、透明なボールに入れて私の胸の奥に仕舞った。これから毎日ボールを取り出して眺めることが宿題になった。私の情動を助けるものになってくれる。


解放された

ここまで来て、否定的認知である「私が悪い」はどう感じられるか確認した。0になっている。なぜ自分が悪いと感じたのか不思議なぐらいだった。
今回は強烈に「解放された」という気分になっている。とにかく安心したのだった。

この後肯定的な認知の植え付け処理を行い、その記憶について「私はそのままでいい」という言葉を信じられるかどうかを確認する。これも最高値だった。私はそのままでいいって本当にいい言葉だなと思う。そのまんまでいいのだ。いいことも悪いことも全て私で、そのまま変わる必要も無くて、それを大人の私やオソノさんにそのまま受け止めてもらえる。なんて安心なんだろうと思って涙が止まらなかった(こうやって書いていてもまだホッとして涙が出てくる)。

今回はセッションが終わってもまだフワフワしている感覚が強かったので、しっかりと解催眠をしてもらった。かなり目が腫れていたが、マスクをしたらおそらく気づかれないだろう。

こんなに解放された気持ちになるなんて信じられないな、と思いながらまだ多少ふらつくのでゆっくり帰った。
また2週間後。








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