カルロ・ギンズブルグ「他者の声」

・カルロ・ギンズブルグ「他者の声ー近世初期イエズス会士たちの歴史叙述における対話的要素」上村忠男訳『歴史・レトリック・立証』みすず書房、2001年

前からギンズブルグは気になりつつ手を出せなかった。早くは山口昌男が、『知の旅への誘い』のなかで『チーズとうじ虫』を絶賛していた。

また、市村弘正が、ギンズブルグが、痕跡をたどる歴史家の作法を狩猟の作法の延長ととらえる視点に触れていたのも印象深かった。

『歴史・レトリック・立証』は、本屋に置いてあり、前から気になっていた本だった。
今回年末最後の買い物と思い、手に取って、目次をみて「他者の声」という論文のタイトルをみた瞬間買うことを決めた。
あきらかにミハエル・バフチンだったからだ。
最近、民俗学者のテクスト(柳田国男や折口信夫などの著作や民俗誌)をどう読むかということを考えようとしていた。方法としてはジェイムズ・クリフォードに依拠していくのがよいと思っていたが、彼はバフチンの文学理論を用いてエスノグラフィーを読み直していた。

小説は常に社会の多言語的な状況を反映している対話的なもので、様々な階層・階級の声が含まれているというバフチンの議論は、いまでも新鮮でおもしろいと思う。

ギンズブルグの「他者の声」は人類学と歴史学、そこに文学理論が介入していく状況を踏まえ、それがどんどんと資料の先に過去があり、それは実証可能であるとする素朴実証主義から離れていくことについて、それ事態は否定しないものの、危惧を表明している。
資料がテクストであることは、過去は存在しない、書かれたものでしかないとするのではなく、資料は単純ではないが、その背後に過去の「事実」があることまでを否定することはできない、という立場を示す。
その具体例として、イエズス会士の記録のなかにある陰謀の首謀者(先住民の反乱のリーダー)の演説の分析を披露する。ギンズブルグは、それが古くから歴史資料たりうるかを問われてきたといい、モンテーニュの『エセー』の「高貴な野蛮人」はじめ、いかにヨーロッパの知識人の言説に沿って書かれたものであるかを白日のもとにさらす。その手つきはあざやかであり、読みの鋭さと知識の広さに圧倒される。
しかし、そうでありながら、ギンズブルグは、演説についての作者の注に着目し、わずかながらそこに過去の先住民の姿が垣間見られる、と指摘し、そういった「隙間」が資料にはあるのだ、と結ぶ。
やや、最後の部分が舌足らずな気もするがいいたいことはわかる。私もまさに民俗学者のテクストとは、こういう「隙間」がたくさんありうるがゆえに再読しないといけないと思うのだ。「隙間」とは、「他者の声」である。それは、作者の意図やイデオロギーのなかに隠れている。だから、作者についてのイデオロギー批判(ナショナリズム、コロニアリズム、ジェンダーなどからの批判)を踏まえなかまらもなお再読に値するのだ。
まだ私も舌足らずだが、じっくり考えていきたい。
ちなみに、訳者の上村忠男が『みすず』に連載している「独学の思想」は読み物としても、思想史、歴史資料としても秀逸なものなので、はやく単行本で読みたい。


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