イビチャ・オシム氏に心からの御礼を
イビチャ氏から受けた恩恵
私がイビチャ・オシム氏のサッカーと出逢ったのは2005年。
私は、Jリーグ開幕当初からのジェフサポ…だったが1997年に大学進学し、司法試験の勉強にほぼ専念したのを機にジェフ、そしてサッカー自体から遠ざかっていた。
なんとか試験に合格した後も相変わらずジェフやサッカーとは縁遠く、就職してからは仕事に追われ続け、サッカーどころではなく、とにかく仕事のことばかりが頭の中を支配していた。
むしろ、力不足で仕事が思うようにできず、程なく心を病み休職した。
休職した頃の私の心境。
俺って、存在意義があるのかな?
生きていて、楽しい事あるのかな?
感情がほぼ消え失せ、そんな事ばかり繰り返しボーッと考えていた。
幸い、親、そして、何よりも妻の支えがあったからこそ踏み留まれたが、そうした支えがなかったら……今でも考えると身震いする。
当時の妻の存在と支えは、私が愛妻家たる理由の大きな一つである。
イビチャ・オシム氏のサッカーと出逢えたのは、正にその頃。
きっかけは、とりあえず精神的に一休みするため実家に帰省した際、妻とジェフの試合を観に行った事だった。正直、久々の観戦に大した感情を持ち合わせていなかった。ちょっとした気分転換のつもりだった。
ところが
イビチャ・オシム氏が率いるジェフは、気分転換の域をはるかに超えていた。
「人もボールも動くサッカー」は、全ての選手が流動的、主体的、組織的に動き、観ていて自然とワクワクしてきた。病んでいた心が動き始めた。
あぁ、俺、今、楽しんでいるなぁ。
自然と笑顔になれているじゃんか。
イビチャ・オシム氏が見せてくれたサッカーは、私の心を蘇らせた。
程なく、私は、職場に復帰できた。だけでなく、ジェフサポとしても復活し、サッカー旅を再開した。
そして、私は、妻や親もサッカー旅に巻き込んだ。その結果、家族の会話に花が咲く新たな共通話題が生まれた。
イビチャ・オシム氏が私にもたらしたのは、生きた心であり、生き甲斐であり、家族団らんのツールであった。
これらの恩恵は、今でも掛け替えのない私の財産である。
感謝してもしきれない恩恵である。
突然の訃報の衝撃
知らせは、あまりに突然だった。
2022年5月1日の夜、Twitterで何となくタイムラインを追っていたら
イビチャ・オシム氏、逝去
の発信を見つけた。
予想だにしなかった訃報は、あまりにも衝撃的すぎて現実味が湧かず、ただただ呆然とした。後からじわじわと喪失感や哀しみで胸が塞がった。
親族や知り合い以外の訃報で胸が塞がったのは、後にも先にもイビチャ・オシム氏をおいて他にいない。
イビチャ・オシム氏が逝去した年のうちに追悼試合が行われ、「ありがとうオシム」と銘打たれた。私自身、試合で販売されたユニフォームや日本酒を購入したし、黙祷もした。
しかし、私は、この時点でも、哀悼の意を捧げるのが精一杯。まだ悲しみの気持ちが強く、感謝の気持ちまで抱くことはできなかった。
御礼の言葉は、まだ言えなかった。
それが、心に引っ掛かったままだった。
ようやく言えた御礼
時が経ち、イビチャ・オシム氏の銅像を建立する話が持ち上がり、クラウドファンディングが開始された。
正直、最初は銅像の建立に懐疑的だった。果たしてご本人が生きていたら望んでいただろうか?フクダ電子アリーナのオシムゲートならともかく、銅像まで建立するのは、今なおイビチャ・オシム氏に過度に頼り過ぎていないだろうか?
だから、私は、最初は静観していた。
しかし、私は、その後、懐疑的な考えを思い直すに至った。
その要因は2つ。
1つ目は、除幕式で設置される花束というリターン品の登場。
2つ目は、アシマ夫人と息子のアマル氏が出席する除幕式の出席権というリターン品の登場。
共通点は、これまで受けてきた恩恵に対する御礼を形にできること。
相応の出費を伴うが、はっきり言って迷いはなかった。
ためらったら間違いなく後悔する。
だから、私は、動いた。
そして、迎えた除幕式当日。
銅像の下に設置された花束。
記念写真撮影。
記念写真撮影の際、アシマ夫人やアマル氏から会釈をされ、特にアシマ夫人からは「Thank you」と声をかけられ、私も「Thank you」と応えた。
その瞬間、ハッとした。
そう、ようやく形にして伝えられた。
アマル夫人を介して、イビチャ・オシム氏に対して御礼の言葉を。