「僕がどんなに眩しくても」の意味を解読して見えた、後藤ひとりが恐れる未来、願う未来、目指す未来 / 『星座になれたら』徹底考察
note書くのいつぶりだ……? という感じ。
世間が春アニメは豊作じゃ~! と歓喜に渦巻いている中、やっと2023年冬アニメに辿り着きました。
るりばなです。
やっと冬アニメに辿り着いたということは最近まで2022年秋アニメを見ていたということであり、すなわち『ぼっち・ざ・ろっく!』を完走したのも最近ということであり……
最高のアニメだった!!!
という感想は当然として、今更になってやっと『星座になれたら』の歌詞に感動の涙を流す権利を得たのですが、その解釈が巷ではまぁ割れてること割れてること。
というのもこの曲、1番のサビの最後という物凄く重要な場所に
という歌詞があり。
「これは喜多ちゃん視点では?」
「いやいやぼっち作詞のはずだよね?」
「でもぼっちは自分が眩しいなんて歌詞書くか?」
と解釈が難しく、いろんな考察を眺めてみてもここの歌詞だけ人によって解釈が様々。
その上ざっと眺めていた限りでは僕と同じ解釈が見当たらず……
なら今更だけど俺も書いとくか! という次第です。
そんな感じでこの記事では、『星座になれたら』の歌詞を正しく解釈するという目的の元、一字一句詳しく考察していきます。
前書き・前提・注意点
ここに書く解釈は100%私個人の思い込みによる妄想でしかなく、他者の解釈を否定するものではありません。絶対的な正解は作詞の樋口愛様と、ぼっちの心にしかありません。
この記事の主題は「僕がどんなに眩しくても」という歌詞を解き明かすことなので、主に1番の歌詞にフォーカスを当てています。2番以降の歌詞も触れるべきものには触れますが、基本的には1番の歌詞の解読が主な内容になります。
各話の感想はTwitter上で垂れ流しています。今回noteで投稿したのは、これは間違いなく文章が長くなりすぎる……! という早口オタクの先見の明が働いたためです。そのため私のnoteを漁ってもぼざろの感想記事は見つかりません。
長文超注意。マジで長いです。できるだけ細かく区切ったので、何回かに分けて読むことをおススメします。
歌詞
『星座になれたら』は誰視点?
前書きで「解釈に絶対はない」と書きましたが、ここに関しては解釈が割れたままだと話が進まないため、この記事内では意見を確定させておきます。
私は、この曲はぼっち視点の歌詞だと確信しています。
そもそもとして、作中で「作詞はぼっち、作曲はリョウ」という明確な言及があります。
実際に歌詞を読んでみても、大部分は「ぼっちから喜多ちゃんや結束バンドへ向けたもの」として捉えるのが一番自然です。
よし! じゃあこの話終わり! 次!
……といければ話は早いのですが、ここで出てくるのが例の、
という歌詞。
「これがぼっち視点だと!? お前はぼっちの何を見てきたんだ! こんな自己肯定感の高い歌詞をぼっちが書くわけねぇだろうが!!!」
という声が聞こえてきますね。
「この曲って実は喜多ちゃん視点なのでは?」
という主張は基本的にこの歌詞が根拠の軸になっていると思ってるんですが、まぁこの歌詞は今回の記事の主題であり、ぼっち視点でどう解釈できるのかはこれから長々と語るのでいったん置いといて。
厄介なのは、喜多ちゃん視点でも『星座になれたら』の歌詞が凡そ成り立ってしまうこと。
勿論これにはちゃんと理由があります。
ぼっちと喜多ちゃんがお互いに対して「憧れ」という同質の感情を抱いているからです。
ぼっちは陽キャで人気者な喜多ちゃんに憧れていますが、喜多ちゃんもぼっちのギターの腕に憧れています。
この曲の重要なテーマである「憧れ」という感情を抱いているのが、ぼっちだけではなく。
喜多ちゃんもまたぼっちに対して憧れの感情を抱いている。
これによってどちらの視点でも歌詞が成り立つ事態が発生し、そこに「僕がどんなに眩しくても」という一見するとぼっちらしくない歌詞が出現することで、この曲の解釈が難しくなってるわけですね。
ただじゃあ逆に喜多ちゃん視点で歌詞を振り返ってみようとすると、それはそれで不自然な部分も多々あるわけで。
1番A~Bメロのネガティブさもそうですし、とりわけBメロ最後の
の部分については、喜多ちゃんの性格を考えるとどうにもしっくりきません。
曲全体の(自虐的な)雰囲気はぼっち視点の方がしっくりくるし、作中設定でもやはり作詞はぼっちの担当。
となればやはり『星座になれたら』はぼっち視点だと考えるのが自然です。
また一応、
「喜多ちゃんからの憧れをぼっちが自覚した上で書いた歌詞なのでは?」
という解釈についても触れておきます。
の部分を、
「ギターが上手すぎる私(ぼっち)の姿は、喜多ちゃんには眩しすぎるかもしれない。レベルの違いに後ろめたく感じるかもしれない。でも挫折しないでついてきてね」
と解釈するパターンです。
ただこれに関してはぼっちらしさ云々以前の話。
実は、そもそも喜多ちゃんはぼっちへの憧れを本人に伝えたことがありません。
アニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』本編では10~最終話が「喜多ちゃん編」とも呼べる内容になっており、喜多ちゃんがぼっちに憧れている描写や、尊敬している描写が多く描かれます。
しかしその胸中を直接ぼっちに伝えたシーンは、実は一度もありません。
11話では伝えかけたけどやめました。
10、12話ではモノローグに留まっており、声には出していません。
私たち視聴者はこの二人の双方向の想いの尊さにニチャニチャと顔面を歪ませまくっていたため勘違いしがちですが、そもそもぼっちは喜多ちゃんの気持ちに気付ける材料がないのです。
勿論、ぼっちが喜多ちゃんの想いに気付いた、或いは気付いていると思われる描写もありません。
12話の保健室でも、
という会話がありますが、
ぼっちの反応は
「ぼっちちゃんは人を惹きつけられる演奏ができるんだよ」
と言われているなんて想像すらしていないだろうものでした。
その後喜多ちゃんが去った後も、ぼっちはキョトンとしています。
完全に「ひとりちゃん」と呼ばれたことに意識が全て持ってかれてますね。
ということで、
『星座になれたら』はぼっち視点の曲(歌詞)であり、かつぼっちは喜多ちゃんからの憧れの感情に無自覚なままこの歌詞を書いている
という前提のもとで考察を進めていきます。
……え? まだ歌詞の話に入ってないのに既に長い? ソンナコトナイヨネ?
歌詞の考察
Aメロ
さっそくですが、この歌詞から分解していきます。
ここで分かるのは、
現在の場面設定
ぼっち視点での、ぼっちと喜多ちゃんの関係性
の2つ。
場面設定
初っ端の「もうすぐ時計は6時 もうそこに一番星」。
これは2番Aメロの最初の歌詞である、
と対応しています。
対応とは……? という人に思い出してほしいのが、ぼっちが通学に要する時間。
2話で話していましたが、ぼっちは通学に片道2時間かけています。
ちょうど6時と8時も2時間ですね。
加えて、
この歌詞によって、今は帰り道、つまり18時だということが分かりました。
また、18時ということはちょうど通勤ラッシュの時間帯です。
このことから、
今は帰り道で18時。人が沢山いて、人混みが嫌いなぼっちにとっては物や人の影に隠れたくなるような時間帯だよ
と解釈することができます。
さて、時間ははっきりしましたが、これで終わりじゃありません。
Lyric Videoのサムネにもなっているこの画像。
右端に「北沢2丁目23」の文字が!
ということでこれをGoogleマップに打ち込むと、下北沢駅にピンが立ちます。
Googleマップをこねくり回すと、カメラの位置が下北沢駅西口(南側)のちょうど入り口になっていることが分かります。
そう、『星座になれたら』1番の歌詞の舞台は下北沢駅です。
そして画像をもう一度見てみると、喜多ちゃんは空を指さしながら振り向いています。
となると、ぼっちは喜多ちゃんの後ろを歩いていそうです。
と上に書きましたが、喜多ちゃんの後ろに隠れていたんですね。
ここまでを纏めて、1番の場面設定は、
時刻は18時。STARRYからの帰り道で下北沢駅に着いた頃、喜多ちゃんが一番星を見つけて、後ろにいるぼっちに話しかけている場面
だということが分かりました。
これで虹夏とリョウが画面にいない理由にも納得がいきますね。
虹夏はSTARRYが家ですし、リョウも下北沢に住んでいるため、電車を使うのはぼっちと喜多ちゃんだけです。
喜多ちゃんと2人きりの帰り道をきっかけにした歌詞だったから、これだけ喜多ちゃんにフォーカスが当たってるんですね。
ぼっち視点での、ぼっちと喜多ちゃんの関係性
続いてAメロ後半。
まず重要な前提として、ぼっちは喜多ちゃんに憧れを抱いています。
では喜多ちゃんのどんなところに憧れているのか。
そう、ご存じ「陽キャであること」です。
友達が多い、コミュニケーション能力が高い、人気者、と言い換えることもできます。
そんな喜多ちゃんへの憧れを、1番では一番星と表現しています。
友達が多いだけでなく、自分のような陰キャとも仲良くしてくれて、ギターも弾けて、誰からも注目されている。
いつも周りに人がいて、みんなが集まってくる人気者。
そんな喜多ちゃんを、みんなに注目され、そしてこれから周りに沢山星が出てくる「一番星」に例えているわけですね。
或いは、一番最初にできた友達だから「一番星」という解釈もできます。
どちらにせよぼっちにとって喜多ちゃんの存在は、憧れとしても友人としても唯一無二だということです。
また、Aメロでは喜多ちゃんへの憧れを謳うのと同時に、ぼっち自身と喜多ちゃんを比べてもいます。
人気者な喜多ちゃんとは違い、ぼっちには友達が喜多ちゃん1人しかいません。
※ちなみにここで「虹リョウも友達だろ!」という意見があるかもしれませんが、虹リョウは先輩、或いは保護者的な側面が大きいと思っています。
虹夏がぼっちに対して保護者的視点で接しているのは言うまでもありませんし、リョウも4話でアドバイスを送っていたのを代表に、普段の接し方も友人というより先輩の方がしっくりきます。
本編の会話等々を振り返ってみても、1年組と2年組のやり取りは年齢相応の上下関係を感じられるものになっていますよね。
話を戻します。
改めて、ぼっちには友達が1人しかいません。
自分のことを友達として見てくれている人は、喜多ちゃん1人だけです。
沢山の友達(星)が集まってくる喜多ちゃん(一番星)と比べて、自分はどれだけ探しても友達が1人(喜多ちゃん)しかいない。
だから星が1つしか見えません。
そして「何億光年 離れたところからあんなに輝く」とあるように、喜多ちゃんとぼっちは陽キャと陰キャ。
対照的な存在なのに、今こうして自分のことをちゃんと友達として認めて、接してくれる。
喜多ちゃんが向けてくれた想いや友情は、ぼっちにとって初めてで唯一のもの。
それを「輝き」に例えたからこそ、ただ輝くのではなく「あんなに」とつけているのでしょう。
2番Aメロ(おまけ)
余談になりますが、2番Aメロの歌詞も1番Aメロに対応しており、ぼっちから喜多ちゃんへの想いの大きさがよく分かるため、こちらも解釈を置いておきます。
1番から2時間経ち、20時になりました。
1番の18時時点で下北沢駅にいたわけですから、もうとっくに電車に乗って喜多ちゃんとは別れているはずです。
そろそろぼっち家に着く、或いは着いた頃でしょうか。
ぼっちはまだ喜多ちゃんのことを想い続けています。
ぼっちにとって結束バンドや喜多ちゃんは、初めてできたバンドメンバーで、初めてできた友達です。
ぼっちが帰路で1人「結束バンドのことを思い返したり、決意を固める描写」は1話や2話でも描かれており、普段から帰り道ではよく結束バンドのことを考えているのかもしれません。
2時間とか絶対暇ですしね。
(ちなみに僕もちゃんとしたコミュ障なので、帰り道とか家帰ってぼーっとしてる時に「あそこでもっとあんな返しできたよなー」とか、会話の反省をしちゃうこと結構あります。みんなもあると思います。ない人はブラウザバックで)
ところで、「夜空に満天の星」とは、単純な時間経過の表現だけではありません。
ぼっちと別れた喜多ちゃんは、他の友達とロインをしたり、電話をしたり。
唯一の友達との時間を振り返り続けるぼっちとは違って、きっと沢山の友達(星)に囲まれた時間を過ごしているはず……
喜多ちゃんとぼっちは友達ですが、そうは言っても2人は陽キャと陰キャです。
夜空に満天の星が出てきてしまえばもう一番星を見つけることはできないように、喜多ちゃんが陽キャ集団に加わってしまえば、もうぼっちから話しかけることなんてできません。
ぼっちが喜多ちゃんと話せるのは、喜多ちゃんと2人きり、或いは結束バンドで集まっている時だけです。
ぼっちが喜多ちゃんと友達でいられるのは、一番星の判別がつく時間帯と同じく、2人きりでいられるわずかな時間だけ。
一度別れてしまえば、ぼっち自ら雑談のロインを送ることすらそうそうできないでしょう。
どれだけ喜多ちゃんを想っていても、喜多ちゃんがぼっちの元に来ない限り会話すらできない。
これが現状です。
「何億光年 離れたところにはもうないかもしれない」とあるように、もうぼっちは輝きを見つけることができません。
これは喜多ちゃんがぼっちに意識を向けていた時間が終わったからです。
陽キャの世界に帰ってしまったからです。
喜多ちゃんがぼっちに意識を向けない限り、陽キャの世界で楽しくしている限り、ぼっちは喜多ちゃんと友達として接することすらできません。
ぼっちと喜多ちゃんの関係は、全て喜多ちゃん次第なのです。
※勿論実際は喜多ちゃんもぼっちのことを大切に思ってくれていますが、これはあくまでぼっち視点の歌詞です。
「『星座になれたら』は誰視点?」項の後半でも書きましたが、ぼっちは喜多ちゃんが自分に憧れを抱いていることなんて知りません。
ぼっち視点では、
陽キャで友達も多く、
リョウ先輩に憧れてギターを始め、
向上心が高くて技術もどんどん上達してるバンドメンバーで、
かつ初めて友達になってくれた女の子
でしかありません。
何度も言いますが、ぼっちは自分が喜多ちゃんにとって特別な存在になっている自覚なんて全くないのです。
Bメロ
ここは分かりやすいですね。
喜多ちゃんと自分を比べて。
本音を隠して、強がって、その結果自嘲が口から零れた歌詞です。
「喜多ちゃんとはバンドメンバーで。陰キャと陽キャで対等ではないけど、喜多ちゃんが構ってくれる間は友達で、それでいいじゃないか。私はあんな人気者にはなれないけど、ギターがある。居場所だってネットの世界にあるんだから」
とこんな感じでしょうか。
印象的なのは、AメロBメロどちらにおいても、ぼっちが自分と喜多ちゃんを執拗に比べていることです。
今(アニメ終了時点)でこそ「結束バンドを沢山の人に見てもらいたい」と決意を固めているぼっちですが、元々ギターを弾く理由は承認欲求です。
そもそもぼっちがぼっちになったのも自己肯定感の低さ故。
だからこそ「いいな 君は みんなから愛されて」と、喜多ちゃんに対する憧れの感情は嫉妬を含むほどに強く。
人気者な喜多ちゃんと、その喜多ちゃんの後ろを歩いている自分との差を意識しすぎたが故に「どうせ対等になんてなれるわけがない……」と自虐的になり、思わず
という呟きが漏れてしまったのでしょう。
サビ
いよいよサビの話に入っていくのですが、それに当たってまずなによりも最初に触れておきたいのが↓の歌詞。
君と集まって星座になれたら
曲のタイトルにもなっており、1番2番のサビやラスサビで繰り返し使われている最重要フレーズです。
この歌詞、単純にフレーズだけを読めば「結束バンドで成功したい」という解釈で終了なんですが……
私は「結束バンドの未来だけでなく、喜多ちゃんとの関係性についても言及している」と思っています。
理由は2つあって、まず1つ目が「そもそもこの曲は喜多ちゃんとの関係性について歌っている曲だから」です。
AメロからBメロまで、この曲はずっと「ぼっちが抱いている喜多ちゃんへの憧れや想い」を歌い続けてきました。
にもかかわらず「サビでは結束バンド全体の話しかしません!」では流石に不自然です。
もしサビで結束バンドの未来を中心に歌いたいなら、少なくともAメロやBメロで虹夏やリョウにも触れているはず。
しかしこの曲は、わざわざ喜多ちゃんとぼっちが2人きりになる「18時の下北沢駅」を舞台に設定し、歌詞の内容でも喜多ちゃんにフォーカスを当て続けました。
そこまでしといてサビでは喜多ちゃん個人にノータッチ? んなわけあるかい!
「君と」の違和感
2つ目の理由は、「君と集まって」の「君と」です。
これ、僕は勝手に全人類が違和感を覚えたはずだと思ってるんですがどうでしょうか?
「君と『集まって』星座になれたら」の主語って、ふつう複数形では? って思いませんでしたか?
僕は思いました。
日本語として「君と」の部分は他の言葉の方が意味として自然だよな、と。
例を出すと、
みんな
僕ら
4人(4つ)
などなど、(挙げた例の語呂の悪さはさて置き)「結束バンドの4人が集まって星座になる」という意味としてもっと自然なワードはあったはずです。
でもそうはしなかった。
であれば、この「君(喜多ちゃん)と」には明確な意味があるはず。
具体的に「君(喜多ちゃん)」と特定することで歌詞にどんな意味が生まれるのかについては後々触れますが、ともかくこれが
は、「結束バンドの未来だけでなく、喜多ちゃんとの関係性についても言及している」と思う2つめの理由です。
サビ(序盤部分)
というわけでやっとサビの考察です。
まずは序盤部分から。
Bメロ「僕は一人きりさ」からの、「君と集まって星座になれたら」。
直前とは打って変わって、明らかに逆の意味の歌詞です。
脈絡もなく逆の内容を歌うわけがありません。
掌がひっくり返った理由があるはず。
そこで注目したのが「星降る夜 一瞬の願い事」。
Bメロでの諦めは、自分と喜多ちゃんを比べて、客観的に考えた末の結論でした。
しかし流れ星が降るのは唐突で、一瞬です。
願い事を用意する時間も、考える余裕もありません。
このことから、
喜多ちゃんと自分を比べて「どうせ私は喜多ちゃんみたいな人気者にはなれない。後ろに隠れてばかりで、人前で胸を張って彼女と並ぶこともできない。こんな陰キャ、結局今まで通り1人きりでいるしかないんだ⋯⋯」と自虐し、諦めたふりをしたけれど、流れ星を見て咄嗟に出てきたのは「君と星座になりたい」という願いだった
と解釈できます。
「君と星座になりたい」の具体的な意味に関しては、まずA、Bメロで喜多ちゃんと自分を比べているわけですから、「喜多ちゃんのようになりたい」という想いは間違いなく含まれているはず。
しかし勿論「君と集まって」とある通り、「喜多ちゃんと星座になりたい」のが前提です。
自分が喜多ちゃんのような人気者になれればそれで満足、という単純な話ではありません。
Aメロでは、
喜多ちゃんへの憧れ
唯一の友達の影に隠れてしまう自分
陰キャと陽キャで釣り合ってないのに、友達として接してくれること
について歌っていました。
そして「星座になる」とは星と星の繋がりに"他者から名前を付けられる"こと。
以上の材料から、ここの「君と集まって星座になりたい」は、
喜多ちゃんの隣に堂々と並べるような、人前でも違和感なく友人同士と受け入れられるような、釣り合った関係になりたい。
という解釈ができそうです。
シグナルの意味は「信号」や「合図」。
送っているのはぼっちで、相手は勿論喜多ちゃんです。
直前で「喜多ちゃんの隣に並べるようになりたい」という自身の本当の願いに気付いたわけですから、送ったシグナル、つまり起こした行動の内容は「喜多ちゃんの影に隠れず隣に並ぼうとした」とかでしょうか。
ですが、陽キャの人気者が友達として接してくれるという状況、陰キャ諸君なら分かると思いますが、嬉しさや楽しさと同時に後ろめたさも感じて、なんとなく周りの目を気にしてしまうものですよね。
(いやー僕私は陰キャじゃないからなぁ……という人は今すぐブラウザバック)
ぼっちがコミュ障になった根源的な理由は自己肯定感の低さですし、5話では、
という会話があり、やはり人前では喜多ちゃんの友達面するのを避けていることが分かります。
実はこれは映像でも徹底されており、本編で喜多ちゃんとぼっちが2人で話しているシーンって、スタジオ、謎スペース、保健室、人気のない廊下、夜の帰り道……
と、2人以外に人がいない、完全な2人きりの時だけなんですよね。
そのほか人が多い場所で喜多ちゃんと喋っている時って、ほぼ全て結束バンドとして行動してるんです。
(こっちは挙げるとキリがないので引用はしませんが、例えばアー写撮影や江ノ島、文化祭、最終回でギター買いに行ったりとかは思い出しやすいはず)
唯一2人が虹リョウ不在かつ人混みで行動してるのが3話、ぼっちが喜多ちゃんをSTARRYに案内している時なのですが……
この時2人は前後に並んでおり、まさにLyric Videoの下北沢駅同様、案内役にもかかわらずぼっちが喜多ちゃんの後ろに隠れようとしています。
このように、今までは人前で喜多ちゃんの友達面なんて出来なかったぼっち。
「きらめいて ゆらめいて 震えてる」とだんだん力強さが消えていくのを見るに、隣に並ぼうとしたけれど、意思は揺らいで、震えたのは瞳か、唇か、それとも膝か……
少なくとも今日のところは、堂々と隣に並んで友人然とできたとは思えません。
(※この話は2番以降に繋がっていくのですが、既に文字数が爆発しているためこの記事では割愛します。ゴメンネ)
サビ(中盤部分)
ここはストレートに解釈していいでしょう。
結束バンドの成功を願う歌詞だと思って良さそうです。
ただひとつ触れておきたいのは、やはり対象が「君と」になっていること。
本当に結束バンドのみについての歌詞なら「『君と』の違和感」の項でも語った通り、「君と」である必要がありません。
ラスサビで「だから」とあるように、別に「君と」縛りってわけでもないですし。
つまり何が言いたいかというと、「喜多ちゃんと結束バンドで成功したい」という想いが強調されているんです。
なぜわざわざ「喜多ちゃんと」と強調されているのについてですが、これこそが次の歌詞への布石だと思っています。
さて、ここまでサビでは「喜多ちゃんに釣り合った関係になりたい」、「結束バンドを沢山の人に見てもらいたい」という、喜多ちゃん個人と結束バンドへの願いが歌われました。
その集大成が、次の歌詞。
サビ(終盤部分)
いよいよこの記事の本題! 一気に駆け抜けるぜ!
……といきたいのですが、じっくり順番に見ていきます。
「線をつなぐ」「星座になる」の定義
ひとまずぼっちにとっての「線をつなぐ」、「星座になる」の定義を理解するところから始めます。
見てほしいのは、「星座になれたら」と「つないだ線」、それぞれの直後の歌詞です。
それぞれ「空見上げて 指を差されるような」と、「解かないで」ですね。
「指を差される」のは結束バンド以外の人に依存していて、「解かれる」のは喜多ちゃんに依存しています。
つまり、
「線をつなぐ」のは自分たちで完結しているが、「星座になる」のは結束バンド外の人々からも認められることが前提である。
というのが、この曲でぼっちが定めている定義です。
つないだ線
「線をつなぐ」ことの最低限の定義について理解できました。
次は「つないだ線」とは何を指すのか。
これについて詳しく見ていきます。
「星座になる」ことを「他人からも認められる」と定義している以上、「線をつなぐ」はその前段階ということになります。
つまり、4人が「私たちが集まったら結束バンドだ!」と自称するこれこそがそうです。
自分たちの関係に、自分たちの中で意味を持たせる
上のは結束バンドを例にしましたが、喜多ちゃん相手なら「互いを友達だと認識する」ことがまさにそれです。
これはAメロを思い返すとイメージしやすいですね。
めちゃくちゃ要約すると「唯一喜多ちゃんだけが、自分を友達だと思ってくれている」という歌詞ですが、これこそ線が繋がれていることを可視化している表現だなと思います。
他の星ではなく、喜多ちゃんとだけ友情が双方向に向いているよ。
喜多ちゃん以外の星(人)は自分を友達として認識してないから、輝き(想い・意識)が届かない(自分に向いてない)よ。
ということではないかと。
「想いが双方向になっていて、友情や仲間意識などの特別な感情を抱いている状態」を「線がつながれている」と表現しているのではというのが、僕の解釈です。
星座になりたいという「未来」
本題を考察するための前提が整ったところで、もう一度サビの歌詞を見てみましょう。
私はサビ部分の考察を、
序盤の「君と集まって星座になれたら~」
中盤の「君と集まって星座になれたら~」
最後の「つないだ線~」
この3つのまとまりに分けて考察してきました。
何故ならこの曲最大のキーワードは「星座になれたら」であり、
1つめの星座になれたら=喜多ちゃんの隣に並べるような友達になりたい
2つめの星座になれたら=結束バンドとして成功したい
そして2つを踏まえた上での最後の歌詞
という構成になっていると考えているからです。
ですから、当然最後の歌詞は2つの「星座になれたら」に関連する歌詞になっています。
そして2つの「星座になれたら」に共通するのが「未来の話をしている」こと。
何をいまさら、と思うかもしれませんが大事なことです。
どちらの「星座になれたら」も、見据えているのは将来辿り着きたい未来です。
そして叶えたい未来を想い描くと同時に、ぼっちは「つないだ線を解かないでほしい」=逆説的に解かれる可能性があると思ったわけです。
何故なのか。
喜多郁代の将来
現在、喜多ちゃんとぼっちは間違いなく友達です。
互いが互いを大切な友達だと思っているのは当然の事実です。
神視点では。
僕たち視聴者一同は、喜多ちゃんにとってぼっちがとても大きな存在であることを当たり前に知っています。
しかしぼっち視点では違います。
自分が喜多ちゃんにとって大きな存在である自覚なんて全くありません。
せいぜい「バンドメンバーの延長で友達やってくれている」という認識よりはマシ程度でしょう。
別に休日いつも2人で遊んでるとかでもありませんし、悪意はないとはいえ夏休み全く遊びに誘われなかった事実がありますからね……
ならもしバンドという接点がなくなったら……?
その後喜多ちゃんとの関係がどうなるかは、ぼっちからすれば容易に想像できてしまいます。
「いやいや大丈夫でしょww 結束バンドが解散とかありえないっしょww 大袈裟すぎるでしょww」
……本当にそう言い切れますか?
それって神視点だからじゃないですか?
ということで、例えばぼっちが結束バンドに向ける気持ちはこうです。
将来の夢に高校中退を掲げているくらいには、音楽で食べていく気です。
その覚悟たるや、音楽で食べていけなければニートになる前提の妄想をするレベルの悲壮さです。
虹夏も、
と言っています。
5話では
とも言っており、武道館ライブは通過点だと考えています。
少なくとも音楽で生きていく覚悟は決まっていると思っていいでしょう。
リョウは言わずもがなですね。
友達は虹夏だけ、休日も基本1人で過ごすような性格なのに、ただ楽器に触れるだけではなくバンドという形を、まして一度重めに失敗したのにもう一度選んでいる。
バンドに対する想いはぼっちや虹夏にも間違いなく負けていませんし、なんなら売れなかったとしても一切気にせず楽しく活動できるでしょう。
家も太いし。
そして虹リョウの2人が結束バンドに夢を託していることは、既にぼっちにも伝わっています。
リョウは4話で、虹夏は8話で直接ぼっちに話していますからね。
じゃあ、喜多ちゃんは?
まずそもそもの前提として、コミュニケーション能力がずば抜けていて、なんでもできるみんなの人気者。
それが喜多郁代です。
言ってしまえば、バンドを辞めて普通に大学に進学するなり就職するなりでも、全く問題なく人生を送ることができます。
実際8話で虹夏とぼっちがしていたやりとりにおいても、虹夏やリョウ、ぼっちとは違い、少なくとも虹夏視点での「喜多ちゃんが結束バンドに託している想い」からは、喜多ちゃんがバンドや音楽に拘る必要性を見出せません。
もちろんリョウがきっかけで結束バンドに入ってたり、一度逃げた責任を感じてたりはありますが、裏を返せばリョウ目当てでバンドへ応募した時の気持ちは一度逃げた程度のものでしかなく、「音楽をしたい、バンドをしたい」という根源的な強い欲求があったわけではありません。
結果だけを見ればぼっちへの憧れという「音楽やバンドそのものではなく『“結束バンド”に拘る理由』」が育まれたわけですが、何度も書いた通り喜多ちゃんはそういった想いをぼっちには明かしていません。
つまり、
自分は喜多ちゃんにとって親友でもなんでもない
喜多ちゃんは陽キャでなんでもできるので、バンドをしなくても人生の選択肢は無限にある
喜多ちゃんが音楽やバンド活動、或いは結束バンドに拘って人生を賭けるほどの理由を、ぼっち視点では見つけられない
これがぼっちにとっての喜多郁代なのです。
いつまでも喜多ちゃんと友達でいられて、時間とともに関係を深めて。
ずっとこの4人で結束バンドを続けていって、いつか遠い未来に人気になる――
そんな未来予想図は、ぼっちからすればあまりにも都合が良すぎます。
3年後、高校を卒業した後も喜多ちゃんがぼっちと友達でいてくれる保証なんて、結束バンドを続けてくれる保証なんて、どこにもないのです。
希望に満ちた未来を楽観的に語れる材料なんて、ぼっちに見える世界には存在しないのです。
つないだ線 解かないで
僕がどんなに眩しくても
遂に本題です。
今までの解釈を繋げながら見ていきます。
「つないだ線」は上でさんざん触れた通り「ぼっちと喜多ちゃんの関係」や「結束バンド」を指しています。
自分とは正反対のような喜多ちゃんが、しかし唯一自分を友達だと思ってくれている。
喜多ちゃんだけが向けてくれるその想いを、友情を、輝きに例え「あんなに輝く」と言語化していました。
そして勿論ぼっちも喜多ちゃんを大切な友達だと思っています。
そんな双方向に輝きを届けている様を、ぼっちは「線がつながっている」と例えました。
では何故、つないだ線を解かないでほしいのか。
それは自身の心の奥底にあった2つの願い(星座になりたい)に気付いたからです。
友達として堂々と喜多ちゃんの隣に並べるようになりたい
初めての居場所である結束バンドを、沢山の人に認めてほしい
この2つの願いは、喜多ちゃんがいなければ叶えられません。
つまり、
喜多ちゃんと一緒に2つの願いを叶えたいから、この関係を解かないでほしい
というのが、
部分の意味です。
では逆に何故ぼっちは、喜多ちゃんがこの関係を解く可能性があると危惧しているのか。
これはぼっちが抱いた2つの願いが、喜多ちゃんの未来を巻き込まなければ叶えられないものだからです。
喜多ちゃんの将来を犠牲にしかねない願いだからです。
1つめの願いは、「喜多ちゃんと対等な友達になりたい」というもの。
陰キャなぼっちが人前で喜多ちゃんと親しくする。
そんなもの、喜多ちゃんの迷惑になりかねない、どうしようもなく分不相応な願いです。
でもそれが、ぼっちが喜多ちゃんと結びたい友情の形です。
と、さぁここまでくれば
の意味も見えてきます。
そう、眩しいのはぼっちが叶えたい願いです。
喜多ちゃんへ向ける想いです。
Aメロで「輝き」という単語が「想い」として使われていました。
喜多ちゃんの友達としてぼっちが叶えたい想い(輝き)が、喜多ちゃんが向き合ってくれるか分からないほどに、受け入れてもらえるか分からないほどに大きすぎる
というのが、
の「眩しい」の1つめの意味です。
もう1つの願いは「結束バンドの4人で成功したい」というもの。
「成功」の具体的なラインは分かりません。
ぼっちにも明確には見えていないかもしれません。
ですが、簡単な目標じゃないことだけは分かります。
もしあっさり達成できたとして、じゃあそこですぐ解散するのか? という問題もあります。
つまりこれは実質的に、結束バンド4人の人生を相当な期間拘束することが前提の願いです。
虹夏やリョウ、ぼっちはそれでもいいかもしれませんが、結束バンドに執着する理由が(ぼっち視点では)見つからず、そもそも結束バンドに拘らずとも充実した人生を送れるだろう喜多ちゃんには、重すぎる夢です。
付いてきてくれるか、付き合ってくれるか分からないほどに、眩しすぎる願いです。
これが2つめ。
自分に自信がないぼっちに、「夢に付き合ってくれ」なんて身勝手なこと、言えるはずがありません。
自身の奥底にあった想いと夢の重さに気付いたぼっちは、だからこそ喜多ちゃんには「解かないでほしい」と願うことしか出来ず、ただ喜多ちゃんの選択を祈るしかない。
これが私の
部分の歌詞の解釈です。
まとめ
ということで1番の歌詞を振り返ります。
喜多ちゃんとの関係や喜多ちゃんへの憧れを再確認し、己との差に自虐的になったぼっち。
しかし内なる願いとその重さに気付き、喜多ちゃんに受け入れてもらえるか不安がりながら、「自身の想いや夢を叶えたい。だからこの関係を解かないでほしい」と願う。
これが1番の歌詞でした。
そんなぼっちが2番、Cメロ、ラスサビを経てどうなったのか。
少しだけ、結論だけですが、せっかくなので覗いてみます。
余談:後藤ひとりの変化
最後に、この曲を経てぼっちがどうなったのか、結果だけ見てみます。
(2番やCメロ、ラスサビ全てこのペースで考察を垂れ流してしまうととんでもない文字数になってしまうので、結果だけで勘弁してください)
星座に「なれたら」
上で「君と」について違和感がどうとか言ってましたが、違和感と言えばこれもそうです。
君と集まって星座になれたら。
………………
…………
……え!?
そこでブツ切り!?
ってなりませんでしたか?
僕はなりました。
普通「~になれたら」の後って、結果や目的が続くものです。
虹夏の子供になれたら人生幸せだろうな
お金持ちになれたら友達100人できるかな
みたいな感じで。
でもこの曲では、「君と集まって星座になれたら」という歌詞が何度も出てくるのに、「その後(星座になれたら)こうなる」と続く歌詞は一度も出てきません。
「君と集まって星座になれたら」で完結していて、直後の歌詞と文章的な繋がりがないんです。
つまり「星座に『なれたらいいな』」という意味で使われているんですね。
星座になることそのものが最大の目的なんです。
しかしそうなると、別の疑問が出てきます。
「星座になりたい」じゃだめなの?
星座になったら目的に近づいて云々……とかではなく星座になる事が最終目標なら、「星座になりたい」で良くないですか?
その方が自然じゃないですか?
というか、なんならラスサビには普通に「星座になりたい」って歌詞もあるんですよね。
つまり、同じ 「星座になることそのものが目的ですよ」という歌詞を歌うために、「星座になれたら」と「星座になりたい」の2つの言い回しを使ってるんです。
何故?
という疑問を解消してくれるのが、次の歌詞。
つないだ線 解かないよ 君がどんなに眩しくても
ラスサビの最後、本当に最後の最後のファイナルラストフレーズです。
んで、今回話したいのはこの歌詞の細かい解釈ではありません。
この歌詞に宿る意志です。
1番では「解かないで」と喜多ちゃんに選択を委ねているのに対し、今回は「解かないよ」とぼっちが明確に意思を示しています。
そして、今までずっと「星座になれたら(いいな)」と願望を歌っていたのに対して、ラスサビの最後だけ「だから集まって星座になりたい」と、明確な目標として歌っています。
1番では自身の想いや夢を受け入れてもらえるか不安で、自分への自信のなさから願望として歌うことしかできなかったぼっちが、2番、Cメロを経て。
最後には意志を持って、
「私は喜多ちゃんたちと星座になりたい。だから喜多ちゃんを離さない」
と決意した。
と、これがこの曲全体のストーリーでした。
……神曲すぎないか?
後語り
ということで、以上がこの記事で書きたかったことの全てです。
何この文字数……
最後まで読んで下さった方、こんな長文読ませてほんとすみません……&ありがとう、そしてありがとう。
最初の方にも書きましたが、この記事の解釈が唯一絶対の正解だと言うつもりは微塵もありません。
できるだけ正しく、納得できる解釈がしたいという思いを持って考察しただけで、あくまでも1つの解釈でしかありません。
その上で、あなたのこの曲やアニメに対する考察、解釈、理解度を深める一助になっていれば幸いです。
前書きにも書きましたが、ぼざろ含めアニメの感想は基本的にTwitter(@_nemos_phileo_)に垂れ流しているので気になる人はそっちへ。(2023年5月中旬現在、まだ2023年冬アニメを見始めたばっかですが、どこかで必ずリアタイに追いつくぞ!)
……っていうかマジで神曲だった!
アニメ本編も曲も何もかも最高だった……
アニメ完走してそのままこの記事を書いたから原作は買うだけ買ってまだ読めてないけど、今から読むのが本当に楽しみ。
それじゃ僕は2023年冬アニメへ旅立ちます。
秋アニメが始まるまでには追いつきたい……
では。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?