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愛の人

自分が占いをしてもらうと
よく言われるのがタイトルの言葉

私は愛の人なんだそうだ

愛ね

ただなぁ、自分愛って言葉を聞くたびに
心の中に冷ややかなものを感じる特異体質があって。

ふつうみんな愛ってどんなイメージを持つかな?
あたたかなものとか、安心みたいな
あれ?そう思うはずと思ってるのって私だけかな。

もしかしたら、私の幻想かもしれないね。

なら、なんで私の心の中に愛が冷ややかなものになるのか。

これも宗教の刷り込みであろうな。

愛=自己犠牲である。
神に認められるためには愛を示さなくてはいけない。
自己犠牲で、与える。
自分が許せないと思う相手でも許せと。
それも完全に許せと。
私はそういう見解でいる。
それがアガペーだと。

実際には完全に許せってよりも、とりあえず許せないという気持ちを持ち続けちゃいけない。
その自己犠牲のアガペーって愛を人に対して示して行けと。

そこから「愛で覆う」ことを強要されていくわけだ。
人には愛で覆うことを強要して
自分は弱いのだから愛で許されて当然なのだと
ヒステリックにわめくいい年した大人の仲間に
我慢を強いられる場面ということが多かった。

いうなれば、女性の権利を守ろう的な団体が
自分たちは弱い立場なのだと振りかざし、相手に我慢を強要する。
あれにそっくりなことを、ずっと見てきたわけだ。
いい年した大人の女性が、なんなら自分の母親よりも年上の女性が
子供に当たり前のように我慢させる。
それが、愛なんだと。

そんな歪みに歪み切った愛を押し付けられてきた。

若干うんざりしてきている愛って言葉が
ここにきてまた自分に纏わりついている。
そんな風に思ってしまうのだ。

そこで自分の中で渦巻く言葉は

愛は時に苛烈

である。

苛烈とは

か‐れつ【苛烈】
読み方:かれつ
[名・形動]厳しく激しいこと。また、そのさま。

デジタル大辞泉


らしい。
いやぁ、調べてみて納得した。
私にとって愛というのは、厳しいもの、そのものである。
グーグルで苛烈を調べたときにまず意味がでてくるんだけど
そこには
(むごいほど)厳しく激しいさま。
となっていた。

笑ってしまうほど納得した。
愛を振りかざした私の周りの大人は
私に、愛という、本来はもっと安心やら安定やらあたたかいみたいなものであらわされるべき言葉を、酷い(むごい)、厳しい、激しいものという真逆な印象を植え付けてきたんだ。

さーて、そんな私からみて愛の人は・・・?
他人を裁きまくり、自分の主張を通すためになりふり構わず自分は弱いと振りかざして喚き散らす・・・?

とは、やっぱりならないんだよなぁ。

だってそんな人にはなりたくないもの。

できれば、慈悲とか安定、安心、癒し、そんなものを与える人になりたい。

神社やお寺は異教であり、神の敵の巣窟くらいの勢いで忌避しろと言い切ってきたあの宗教にいたにもかかわらず・・・

神社に行くと空気の清浄さに心洗われ、
祭壇の上の龍の像、天井に描かれた龍の絵に畏怖の念を抱き、
そっと、たなごころをあわせてお礼を念じれば風が体を包まれるのを心地よく思う。

私が物心ついたときからかかわっていた神様に感じた純粋な恐怖。
そういえば、その神様も、神は愛と言っていたな。
自分こそ愛そのものだと。
その割に自分以外の神は絶対認めないのだ。ほかの神はすべて悪魔の化身とされていた。

そんな宗教を信じ込まされていた私でも
手を合わせてお礼を言ったら、やっと会えたね、と言葉をくれた。
くれた、気がした。
そんな感じがした。
そう思いたかっただけかもしれないけれど。
少なくとも、嫌な感じはしなかったから、拒否はされなかったのかな。

日本の神様のほうが、私の考える“愛”ってやつに近い気がするんだよな。
心が広いというか。

というわけで、私が愛の人ならば、
苛烈にならないように、あの私が恐怖を感じた神様、
(実際にはその神様を標榜する団体の主張)
を、反面教師にして

癒し、慈悲、安心、を与えられるような人になれたら・・・
そのための手段にカードを使ってみようかな。

ぜひやってみてくれと、言われてもいるからね。

あぁ、今思いついたよ。

愛ってのは

慈悲と苛烈が表裏一体になった諸刃の剣。

なのかもしれない。

なかなかに扱いの難しいものなのかもしれないね。

面白そうだ。

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