母の日によせて。

感受性の強い母。美しいものが好きな母。
私の感受性の強さ、美しいものを美しいと思えるこの感性は、そして涙脆さは、多分母親譲りだと思う。

愛情深い母。
でも、母とのことを思い返すと、寂しい、という感情とともにある思い出が多い。
単純に弟と妹がいたから、というのと、多分、母自身も寂しい人で、純粋にベクトルを外に向け続けることが難しかったんだと思う。
先日一緒に私の幼い頃のアルバムを見て、写真を見ながら小さい頃のエピソードを語る母の姿に、ああ、ちゃんと愛されていたんだなあと思えた。とにかく大変だったこと、それでも元気に大きくなってほしい、という思いで育ててきたこと、その言葉だけで、ちゃんと愛を受けて育てられてきたんだと思えた。なんだかほっとした。あの時間は今の自分のお守りになっている。

行きたかった専門学校も親の反対で諦め、若くして結婚して、もっとこういうことがしたかった、もっとこういう経験がしたかった、ふとした折に、そんなことを話していた印象が強い母。(だからこそ、色々と子どもには自由にさせてくれた、という部分もあるんだと思う。)
最近話を聞くと、こういうことに興味がある、こういうことを勉強したい、という思いを持っていて、それは変化というより元々持ち合わせていたことなのかもしれないけれど、今、そこに取り組めるようになったんだな、と思うと、なんだか嬉しくなる。
いろんなことを我慢してきたけれど、本当は多分奔放な人なんだと思う。
どうか軽やかに、母には母の人生を生きてほしい。

母も等身大の人間なんだなあ、と、自分自身歳を重ねて思う。
今だからこそ、2人で話せることも沢山あるような気がしている。

生まれ育った年代や環境の違いから、やっぱり分かり合えないこともあるけれど、それは愛がないからではない、と思えるようになった。

なんだかんだ、私は私の人生を良かったと思えていて、誇りに思っていて。
この自分でいられるのも、母の子どもだったから、母に育てられたからだ。(もちろん父にも感謝している。)

母の子どもで良かった。どうか、幸せで。
また会える日、一緒にミュージカルを見られる日が来ることを楽しみにしています。


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