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最近の問いと暫定解


対話が問いを深める。
久しぶりの感覚だった、山本さんとの対談。
みんながみんな人を喜ばせる天才になればいいのに。と。
じゃあ、どうしたらそうなる?何が必要?
ー人からしてもらったこと、その喜びをきちんと味わうこと。
ーパートナー、大切な他者がいること。この人が生きる社会が暖かさで溢れる社会であってほしいという願いを産むような。
ースマホを取り上げること。不便さが人をつなぐのでは。今はスマホさえあれば最低限のことは自分一人でなんとかなってしまう。


人を動かすことができるのは、危機感もしくは感動。
人を変えたい、社会を変えたい、は究極はエゴ。
生きる意味と同じで、絶対解はなくて、個人の意味づけでしかない。
みんながこうなったらいいのに、と思うこともある、価値観を押し付けたくなることもある、けれど、種としての人類は多様性が担保されていることが重要で、もしかしたら私が足掻く必要なんてなくて、実は既にこの社会は均衡が保たれているのかもしれない。


社会を性善説で捉えるか、性悪説で捉えるか。
立場上色んな人と話をする。自分の人生や社会に対してあまりにも考えていないと感じる人が多くて、自分に見えているものだけを捉えると、勝手に社会に絶望するけれど。
教育の業界では、20年前には夢のようだったことが今は当たり前のようになっている、と聞いて、社会はもしかしたらちゃんと良くなっていく方向に進んでいるのかもしれない、と思った。
(ちなみに人事は往々にして意識高い人が多いらしい。変な思い込みに囚われないように気をつけよう。)


自分らしく生きる、善く生きる、は能力だと思う。
知識、思考力、遂行力がある人は悩まない、自分で望むものを掴み取ることができる。武器がないと同じ現実に直面したときに人生に悩む、躓く。
自分らしく生きる人を増やしたかったら、実は受容とか共感ではなくて、能力を、武器を授けることが一番なのかもしれない。


自己分析、なんて、改めてそれっぽい言葉を作ることではない、と思う。
自分の人生を生きているのだから、常に考えるべきは自分の人生をどう生きるかであって。それを怠ってきて、突然「自己分析」だなんて。
真剣に自分の人生を生きていたら自ずと考えているはずのこと。


リモートワークが奪うもの、ってなんだろう。
なんだか緩やかにいろいろなものが奪われている感覚がある。
自分が何かを動かすことができているという確信
自分にはなんでもできるという自信
泣けるくらいに心動く瞬間、思いがけない感動、喜び、驚き
他者と生きている実感、自分の存在に対する実感
前に進んでいるという感覚


誰かの心を動かすために一生懸命になることの幸せなことよ
何かに一生懸命になりたいのになれないことの苦しさよ


凡人だと気づいてしまった、でも凡人で終わりたくない。

一体、本当の狂気とはなんだ
夢に溺れて現実をみないのも狂気だ
現実のみを追って夢を持たないのも狂気だ
しかし最も憎むべき狂気とは
あるがままの人生に唯折り合いを付けて
あるべき姿の為に闘わない事だ

ミュージカル『ラ・マンチャの男』

こんなもんだ、と、そこそこの幸せを信じて小さな幸せを見つけて味わう人生でもいいかもしれないけれど、それも尊いけれど、それでいいかなとなる気持ちもわかるけれど。今はまだ、それでは嫌だ、という気持ちがある。スペシャルでありたい、という気持ちがある。人は誰もが生まれた時からスペシャルだよ、というのもわかるけども。
スポットライトを浴びたいならば、それ相応に動くのみ、足掻くのみ。


人が自分の人生を手放すことは無条件に辛い。急に便乗して正義感を振りかざすような人になりたくない気もする、けれど。
皆、どうか生き切って欲しい。この感情だけは確かにある。


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