さらば「エースのジョー」横浜の波止場に花を捧げたい2020年の冬

1月21日、宍戸錠さんの訃報が入ってきた。とても残念であった。

私の映画好きのDNAの30〜40%は日活アクションという映画群で成立している。最初はテレビで見て、学生時代は、赤茶けたフィルムを名画座で見て、そしてビデオで多くのそれらに遭遇し、私の映画というものの一認識ができたといっても過言ではない。だから、錠さんとは長い付き合いだ。そして映画館の特集上映にかかわって直接お話もしている。ダンディーな大きなイメージの人だった。まさに映画俳優というオーラをまとっていた。

とはいえ、宍戸錠という人を小学生の時初めて知ったのは、テレビ「なんでもやりまショー」でのどっきりカメラの司会の彼だったことは確実だと思う。この時、多分、日本中の小学生が彼の姿を覚えたはずである。ということで、私にとって最初の彼は面白いおじさんでしかなかった。

その後、テレビで日活アクションの映画を見て、(多分、日活のロマンポルノ転換で多くのフィルムがテレビに流れ出したのだと思う)宍戸錠が、小林旭や赤木圭一郎の映画にでてくる悪役だと知ったわけである。

日本映画黄金期にあって、同じテイストの役者はほぼいないだろう。だから、日活を抜けてから、東映の実録物などに顔を見せても、違和感しかなかった気がする。そう、宍戸錠という役者は、エースのジョーとして成立していたのだ。少しそんな彼の役者人生を私の記憶で追っていきたい。(あくまでもリアルでは見ていないので、映画史に沿って記憶の断片をつないでおくということだ)

日活第一期ニューフェイスとして、映画界入りした彼は、何を作るか迷走中の新生日活の文芸路線?「警察日記」(久松静児監督作品)でデビュー。精悍な姿の若いお巡りさん役であった。そして、同監督の作品に立て続けに出演している。この初期作品に出る中では、将来のアクション俳優という印象は全くないが、背が高いので映画の中ではかなり印象的な役者であることは確かだ。

そして、石原裕次郎と邂逅することで日活映画は一気にアクション路線に走る。裕次郎、小林旭、赤木圭一郎、和田浩二で主役をローテーションさせた日活ダイヤモンドラインができ、宍戸錠は小林旭の「渡り鳥シリーズ」「流れ者シリーズ」赤木圭一郎の「拳銃無頼帖シリーズ」でのヒーローの敵役として完全に銀幕にその姿を印象付ける。コメディアンヌ風の演技もでき、ヒーローより目立とうとする敵役という位置は、彼のために用意されたステージのように感じたのではないだろうか?今見ても、彼の演技は全く古さを感じさせないのが本当にすごいところだと思う。

そして、彼にも主役を獲る機会が来る。「ろくでなし稼業」を皮切りに、完全なる和製西部劇「早射ち野郎」など、無国籍アクションの真っ只中で暴れまわり、ヒーローたちとはまた違った色で日活スクリーンの幅を広げて行ったと言ってもいいだろう。

そして、鈴木清順監督とのコンビで「野獣の青春」「探偵事務所23くたばれ悪党ども」など、鈴木清順の監督としてもアウトローぶりにも色をつけていく。ある意味、正統派ではないところを考えれば、宍戸錠と鈴木清順というコンビは似たもの同士であり、様々に変な化学反応を起こしたのだと思う。だからこそ、清順監督の日活最終作は宍戸錠主演の傑作「殺しの烙印」だったというのも、当然の結末だったのかもしれない。

そして、その「殺しの烙印」も含め、1967年には、日本映画史に残るハードボイルド三作品に出演する。この三作品を彼の代表作といっても過言ではないと思う。「拳銃は俺のパスポート」「殺しの烙印」「みな殺しの拳銃」である。この三本に関して、私は何回見ても興奮させられる。こういう暗黒街もので、色気を出して銃を撃てる役者は、これからも、なかなか出てこないだろうと思う。

だが、その後、1960年代後半から1970年代初頭はとにかく、映画がテレビに駆逐される時代で、宍戸錠も「ハレンチ学園」のマカロニをやらされたり、エロ映画もどきに出ていたり、本来の道を外れていく。そんな中、いわゆる日活ニューアクションと呼ばれる中で「流血の抗争」(長谷部安春監督)という宍戸錠、日活時代、最後の傑作と言っていい映画に出演、その存在感の健在さを見せるが、彼がスクリーンで本来の姿で舞う姿はこれが最後だったかもしれない。

そして、日活がロマンポルノに路線変更する前の最終作「不良少女魔子」に出演後、彼はテレビや、それ以外のリリーフ役を請負いながら役者を続けたわけである。

1933年生まれだから、日活から抜けるとき、38歳。今なら、まだまだ若手扱いの年齢である。そう思うと、日活や石原裕次郎が金銭的に苦しくならなければ、宍戸錠の運命も大きく変わったのだろうなと、今更ながら感じるわけである。

宍戸錠という人は、日活という会社に入ることを選んだ時から、運命の糸に引かれながら、そこに自分の資質をうまく重ねて、自分の場所を確実に探し、そして自分で作り上げて、仕事としての役者を続けてきたということなのだろうと思う。

先にも書いたが、この後は、映画ではあまり印象付いた作品はないと言っていい。訃報に合わせ、「仁義なき戦い 完結編」の写真が多用されているが、ここでの彼は、東映の色に馴染めない感じで、今見てもすごい違和感を感じる。そう日活のスクリーンでこそ、光る素材であったことは間違いない。

だから、1984年、日活アクションファンの矢作俊彦監督により作られた、日活アクション名場面集「AGAIN」で殺し屋を演じた宍戸錠は、久々にエースのジョーそのものだったと言っていいだろう。

昨日、訃報を聞いてから、ネットにある最近の記事を探して読んでいたが、昨年のAERAによるインタビューでは「90歳でアクションをやりたい」ということが書かれている。そこには、様々な思いが隠れていたのであろう。ただ、ただ残念というしかない。

とりあえず、私の知っている宍戸錠という役者をまとめることで、供養にしようと思った次第であります。

最近、日本映画はアクション不足であると思うのです。そんな中、新しいアクション映画の構築ということを私は考え出しています。21世紀のこの時代にあった、「令和アクション」と呼ばれるようなものは作れないか?そういう気持ちで、新しい映画群にスクリーンに対峙しながら、いろいろと見えてきたところでもあった時に、エースのジョーはこの世を去って行ってしまったというのも皮肉なものではあります。

新しい時代のエースのジョーを探して、今日も街をさすらう私であります。

本当にいろいろと、映画というものの素晴らしさを教えてもらった一人が宍戸錠さんだったと思います。お話しさせてもらったのが一回、鈴木清順監督の特集企画でステージでお話ししていたのを見たのが一回、それが私がリアルなエースのジョーと同じ場所にいた経験だと思います。ありがとうございました。あの世で、今頃、石原裕次郎さんや赤木圭一郎さんや二谷英明さん、和田浩二さんたちと杯をかわしているかもしれませんね。

さらば、エースのジョー!


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