太平記 現代語訳 2-1 有力寺院勢力への懐柔政策

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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元徳2年(1330)2月4日、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、万里小路藤房(までのこうじふじふさ)(行幸担当弁官・兼・都庁長官の職にあり:注1)を召されていわく、

後醍醐天皇 あんなぁ、藤房、来月の8日になぁ、奈良の東大寺(とうだいじ)と興福寺(こうふくじ)にお参りに行くからなぁ、早ぉ、供奉(ぐぶ:注2)のもん(者)らに、ちゃんと言うとけよぉ。

万里小路藤房 ははっ!

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(訳者注1)原文では、「行事の弁の別当」。

(訳者注2)お伴する人々のこと。
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藤房はさっそく、過去の行幸(みゆき:注3)の先例を調査、それにならって、供奉の者たちの装いや道中の行列順序を定めた。

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(訳者注3)天皇の旅行。
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都庁・三等官(注4)に任命された佐々木備中守(ささきびっちゅうのかみ)が、道中に橋を渡し、京都市中48か所・警護番所づめの者たち(注5)が、甲冑(かっちゅう)を帯して辻々をかためた。

そしていよいよ、奈良へ向けて、陛下、ご出発!

三公九卿(さんこうきゅうけい:注6)あい従い、百司千官(ひゃくしせんかん:注7)列を引く、その厳粛なる事、なんとも言葉に言い表しようがない。

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(訳者注4)原文では、「廷尉」。日本風の役職名は、「判官(ほうがん)」。

(訳者注5)原文では、「四十八箇所の篝(かがり)」。

(訳者注6)「三公」とは、太政大臣、左大臣、右大臣。「九卿」とは、公卿たちのこと。

(訳者注7)官僚多数という意味。前後の数の対応(「3公,9卿-100司,1000官)を用いての表現である。
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かの東大寺とは、聖武天皇(しょうむてんのう)の御発願により建立、閻浮第一(えんぶだいいち:注8)の廬舎那仏(るしゃなぶつ)おわす、み寺。

かたや、興福寺は、淡海公(たんかいこう:注9)の発願により建立、藤氏尊崇(とうしそんすう:注10)の大伽藍(だいがらん)。

代々の天皇は皆、これらに結縁(けちえん:注11)せんとのお志を持たれてはいたのだが、「陛下、御参拝!」ともなると、なにかとオオゴトになってしまうので、長年の間、棚上げ状態になっていたのである。 

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(訳者注8)「閻浮提(えんぶだい)の中で第一の」の意。閻浮提は、古代インドにおいて、人間が住むと考えられていたエリアのことであるが、ここでは、それを転用して、日本の事を意味しているので、「日本第一の」の意となる。

(訳者注9)[藤原不比等(ふじわらのふひと)]のこと。鎌足の子で、藤原家の2代目。

(訳者注10)「藤原氏の人々が尊んできた」の意。

(訳者注11)仏に縁を結ぶこと。
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しかしながら、この御醍醐天皇陛下の御代(みよ)になってようやく、「絶えたるを継ぎ、廃(すたれ)たるを興(おこ)し、天子(てんし)の車をいざ、奈良へ!」となったわけである。衆徒は、歓喜のうちに掌(たなごころ)をあわせ、み仏の威徳の光は、ただただいや増しの一途。 

衆徒A いやぁもう、なんとまぁ、ありがたいことやないかい。

衆徒B この奈良の春日山(かすがやま)に吹く嵐の音、今日から急に、万歳三唱の声に、聞こえるようになってしもたぞぉ。 

衆徒C 北の藤波(ふじなみ)千代(ちよ)かけて、花咲く春の陰深し。(注12)

衆徒D いや、まったく!

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(訳者注12)「北の藤」で[藤原北家]のことを表現している。不比等の4人の息子の流れを、[藤原南家](武智麻呂)、[藤原北家](房前)、[藤原式家](宇合)、[藤原京家](麻呂)と称する。このうち、[藤原北家]が後に、最大の権力を獲得した。
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同月27日、今度は、比叡山・延暦寺(ひえいざん・えんりゃくじ:滋賀県大津市))への行幸とあいなり、大講堂においての供養を行われた。

その大講堂(だいこうどう)とは、仁明天皇(にんみょうてんのう)の御発願(ほつがん)により建立されたもので、大日如来(だいにちにょらい)像を安置。

再建の後、供養法要も行えないままに幾星霜(いくせいそう)が経過、「甍(いらか)破れては霧、不断(ふだん)の香を焼き、扉(とぼそ)落ちては月、常住(じょうじゅう)の燈(ともしび)をかかぐ」といったありさま、延暦寺メンバー全員の嘆きのうちに、ただただ年を経ていくばかりであった。

ところが、このようにしてたちまち、堂宇(どうう)修造の大事はなし遂げられ、速やかに供養の儀式を調える事とあいなった。延暦寺メンバーたちは大いに歓喜し、ひたすら感謝の首(こうべ)を傾ける。

当日の法要の御導師(おんどうし)は、妙法院尊澄法親王(みょうほういんのそんちょうほっしんのう)、願文(がんもん)朗読を担当するは、時の延暦寺座主(ざす:注13)・大塔尊雲法親王(おおとおのそんうんほっしんのう)。(注14)

み仏(ほとけ)称揚(しょうよう)の讃仏(さんぶつ)儀式のかぐわしさは、霊鷲山(りょうじゅせん:注15)の花々もこれには及ぶまいと思われるほど、仏徳(ぶっとく)を称(たた)える歌唱の荘厳さは、あの中国・魚山(ぎょさん)の嵐さえもが、これに唱和するかと、思われるほど。

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(訳者注13)延暦寺のトップ僧侶を、「座主」という。

(訳者注14)妙法院尊澄法親王、大塔尊雲法親王は、後醍醐天皇の親王である。後に二人ともに還俗して、宗良親王(むねよししんのう)、護良親王(もりよししんのう)に名前が戻る。

(訳者注15)釈尊(お釈迦様)は色々な場所で仏教を説かれたが、霊鷲山もそのうちの一つ。
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奏者の演奏は行く雲をも止めるがごとく、舞う童子は雪のような純白の袖をひるがえす。百獣もみな、その場に来たりて舞踊に参加、鳳凰(ほうおう)もまた、天空より舞い降りてくるか、と思われるほどのすばらしさ。

住吉大社(すみよしたいしゃ:大阪市住吉区)の神主・津守国夏(つもりのくになつ)は、太鼓奏者として、比叡山に来ていたのだが、その彼が宿坊(しゅくぼう)の柱に書きつけた歌一首、

 縁あって ここに来れたのも あのくたら さんみゃくさんぼだいの 種植えたからか

(原文)契あれば 此の山も見つ あのくたら さんみゃくさんぼだいの 種や植けん(注16)

これはおそらく、

 「伝教大師(でんぎょうだいし)・最澄(さいちょう)が、この寺(延暦寺)を創設した際に、「我が立つ杣(そま:注17)に、ご加護あらせたまえ」と、さんみゃくさんぼだいの御仏(みほとけ)たちに祈願込められた」

との故事(こじ)を思い起こして、詠(よ)んだ歌なのであろう。
 
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(訳者注16)あのくたらさんみゃくさんぼだい:Anuttara-samyak-Sambodhi 迷界(めいかい)を離れ覚智円満完全(かくちえんまんかんぜん)し遍(あまね)く一切の真相を知る仏の無上の勝智(しょうち)をいう。(仏教辞典 大文館書店より)

(訳者注17)材木を収穫するために樹木を植える山のこと。
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元享(げんこう)以降、陛下にはとかく憂い事多く、臣下もまた屈辱を受ける事はなはだし、まったくもって、気の休まるひまも無い。

行幸するに適当な時期は他にいくらでもあるだろうに、いったいなにゆえ、よりにもよって、このような世情騒然たる時節に、奈良や比叡山へ陛下は赴かれたのであろうか・・・私・太平記作者の推測は以下の通りである。

近年、北条高時(ほうじょうたかとき)の振る舞いは、従来にも増して、ムチャさかげんがヒートアップしてきているとはいえ、関東の者たちは依然として、みな彼の命に服している。よって、倒幕挙兵の召集を陛下より彼らに対してかけられたとしても、それに応じてくる者などいるはずもない。

となると、頼りにできるのは、延暦寺と興福寺の衆徒たちのみ。ここは何としてでも、彼らを朝廷サイドに取り込んでおかねば・・・。

とまぁ、こういったような、鎌倉幕府打倒のための、一つの布石であったのではなかろうか。 

このような動きが出てきたのを見て、大塔尊雲法親王(護良親王)は、天台座主の地位にあるにもかかわらず、今はもう、仏道の修行・修学を一切放棄、朝から晩までひたすら、武芸の修練にうちこんでおられる。

それこそが、「好みの道」だったからであろうか・・・。

親王の身軽さは、江都王(こうとおう)のそれをも凌駕(りょうが)、七尺の高さの屏風(びょうぶ)でさえも、飛び越えてしまわれる。

かの張良(ちょうりょう)の兵法をことごとくマスターされ、戦術書「三略」に示されているテクニックのことごとくを、意のままに活用することがおできになる・・・いったん剣を取られたら、どれほどすごい存在となられることであろう・・・天台座主の僧位が定められてよりこのかた、初代・義真和尚(ぎしんおしょう)から百余代、これほどユニークな延暦寺トップが、いまだかつて存在したであろうか。

これは後になってからわかった事ではあるが、打倒鎌倉幕府・遂行の為にこそ、親王は自ら、武芸の修練にはげんでおられたのである。
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