太平記 現代語訳 13-3 クーデター計画

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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故・北条高時(ほうじょうたかとき)の弟、北条泰家(やすいえ)は、元弘(げんこう)年間の鎌倉攻防戦の時、自害したように見せかけて密かに鎌倉を脱出し、その後しばらく、奥州(おうしゅう:東北地方東部)に潜伏していたが、世間の目を避けるために、還俗して京都へやってきた。そして、西園寺公宗(さいおんじきんむね)のもとに身を寄せ、公家の家に奉公したての地方出身の侍のように装っていた。

いったいなぜ、西園寺公宗がこのような事を許したのか、それは、この家の過去の歴史を振り返って見ればよく分かる。

承久の乱の時、太政大臣・西園寺公経(さいおんじきんつね)は、鎌倉幕府に内通していた。そのおかげで合戦を有利に進めることが出来た幕府側のリーダー・北条義時(ほうじょうよしとき)は、「自分の後、子孫7代に至るまで、西園寺家と固く協力関係を結んでいくように」と言い置いた。

以来、鎌倉幕府は、西園寺家を格別に大事に扱ってきた。そのおかげで、代々の皇后もこの家から多く出て、諸国の官職もその半ばまでが、西園寺家の者に与えられてきた。

かくして、この家の主は太政大臣にまでなり、人臣位階を極めた。

西園寺公宗 (内心)鎌倉幕府が滅びるまでの、わが西園寺家の繁栄、これはひとえに、幕府があのように、我が家をひきたててくれたからやった。

西園寺公宗 (内心)そやからな、この際、何とかして、高時殿の一族を盛り立ててやって、彼らに政権を奪回させたいもんやわ。そないなったら、わが家は朝廷の中の第一人者となって、天下をわが掌中に握れるやん。

このような思いがあった故に、公宗は、泰家を還俗させて、刑部少輔時興(ぎょうぶしょうゆうときおき)という偽名を使わせながら、明けても暮れても、クーデター計画を二人で練っていた。

ある夜、西園寺家の家司の三善文衡(みよしあやひら)が、公宗の前に来ていわく、

三善文衡 国家の将来の興亡を判断するには、政治の善し悪しを見るのが一番ですわ。政治の善し悪しを見きわめるためには、賢明なる臣下を君主がどのように処するか、という点に注目していけば、えぇでしょう。微子(びし)が去って後、殷(いん)王朝は傾き、范増(はんぞう)が罪せられて後、項羽(こうう)は滅びました。賢明なる臣下を大切にしないような国家というものは、必ず傾いていくわけですよ。

西園寺公宗 うん、なるほど。

三善文衡 今の朝廷を見わたしてみるに、まともな臣下と言えそうなのは、あの万里小路藤房(までのこうじふじふさ)、ただ一人だけやったです。そやけど彼も、今の政権の先行きが決してよろしくないっちゅうことを、もう察知したのでしょうな、こないだついに、隠遁の身になってしまいましたよね。

西園寺公宗 ・・・。

三善文衡 これは、朝廷にとっては大いなる凶事ですけどな、御当家にとっては、これから運が開けていく前兆やと、私は思います。

西園寺公宗 ・・・。

三善文衡 今が、チャンスですわ。

西園寺公宗 ・・・。

三善文衡 どうか、クーデター決行のご決意を! 北条家の息のかかってたもん(者)らが、十方から馳せ参じてきますでぇ。天下ひっくり返すんなんか、たった1日もあれば十分!

西園寺公宗 ・・・よぉし、いっちょ、やってみよか!

三善文衡 やってくださいよぉ!

西園寺公宗 となると、兵力が必要やな。まずは、泰家殿を京都方面軍の大将に任命して、近畿地方から兵を集めるとして・・・。

三善文衡 関東は?

西園寺公宗 生き残った子供おったやろ、高時殿の。

三善文衡 時行(ときゆき)殿ですな?

西園寺公宗 そやそや、その時行(ときゆき)を大将にしてやな、甲斐(かい)、信濃(しなの)、武蔵(むさし)、相模(さがみ)の勢力を集めて、率いさせるとしよ。

西園寺公宗 北陸方面は、名越時兼(なごやときかね)を大将にして、越中(えっちゅう:富山県)、能登(のと:石川県北部)、加賀(かが:石川県南部)から兵を募ると・・・このセンで、行こか!

三善文衡 了解!

このように、諸方面の準備を同時進行で整えた後、西の京(京都市・中京区)から大工多数を招集し、西園寺邸内に、湯殿を急ピッチで建てた。

その脱衣室の床に落とし板を仕掛け、その下の地面に刀を植え込んだ。

遊興を催して、後醍醐天皇を西園寺邸に招き、「陛下、華清宮(かせいきゅう:注1)の温泉になぞらえて、「浴室の宴」なぞ、いかがでしょうか」と勧め、天皇をこの湯殿に導き入れた後、落とし板から刀の上へ落として殺害してしまおう、との計画である。

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(訳者注1)中国・唐の玄宗皇帝が楊貴妃とともに遊んだ所。
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このように、様々に謀略をめぐらし、クーデター決起のための兵力を確保した後、公宗は、「西園寺邸へ御行幸いただき、北山の紅葉をお楽しみくださいませ。」と、天皇に奏上した。

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行幸の日程はすぐに決まり、その際の儀式等の準備が着々と進められていった。

そしていよいよ、「明日の正午に、西園寺邸へ」との発表がなされた日の夜、

後醍醐天皇 あれ、あの女、いったい? 見かけん顔やなぁ。赤い袴の上に、薄墨色のあこめを、二枚重ねで着てるわ。

後醍醐天皇 おいおい、おまえ・・・こないなとこで、何しとるんや。

女 前方には、怒れる虎と狼、後方には獰猛(どうもう)なる熊とヒグマ。明日の行幸、なにとぞ、思い止まりください。

後醍醐天皇 エェ? おまえ、いったい、どこの誰や? どっから、来たん?

女 神泉苑(しんせんえん)のあたりに、長年住む者。(去っていく)

後醍醐天皇 あ、待て、待て、待てーーっ!

後醍醐天皇 (ガバッ)・・・あぁ、夢やったんかぁ。

後醍醐天皇 (内心)なんとも怪しき、夢のお告げやったなぁ・・・。

後醍醐天皇 (内心)「明日の行幸、思い止まれ」てかいな・・・そないな事、言われてもなぁ・・・もうここまで、色々と決めてしもてるんや、この期(ご)におよんで、中止になんか、できひんやん。

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翌朝、天皇は、行幸をスタートさせた。

後醍醐天皇 (輿の中で)(内心)それにしても、昨夜のあの夢のお告げ、気になる・・・気になる・・・気になるぅ・・・よし!

後醍醐天皇 おぉい、まず、神泉苑へ向かえ!

近臣たち ハハッ!

神泉苑に到着した天皇は、そこに祭られている龍神に、幣を手向けられた。

その時突如、苑中の池の水面に異変が起った。白波がしきりに岸を打ちはじめた、風も吹いていないのに。

後醍醐天皇 (内心)なんや、この池の状態は! うーん、ますます、昨夜の夢の事が気になってきた、うーん・・・。

輿をそこに止めさせたまま、じっと思案する後醍醐天皇。

そこへ、西園寺公重(さいおんじきんしげ:注2)が、あわてふためき、やってきた。

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(訳者注2)公宗の弟。
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西園寺公重 えらいこってすわ! 「西園寺公宗に、陰謀の企てあり、それゆえに、陛下に行幸を勧めた」と、さる方面からたった今、知らせがありました。

後醍醐天皇 ナニ!

西園寺公重 陛下、行幸をまずは中止され、急ぎ、御所にお戻り下さいませ。その後、橋本俊季(はしもととしすえ)、三善春衡(みよしはるひら)、三善文衡(みよしぶんひら)ら、公宗の腹心、呼び寄せられて、詳細をお調べ下さいませ。

後醍醐天皇 (内心)公宗が陰謀やとぉ! 昨夜の夢のお告げといい、今日のこの池の異変といい、これはどうも何かあるな。

後醍醐天皇 今日の行幸は取りやめや! 御所に戻るぞ!

近臣たち ハハァッ!

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御所へ帰還の後、後醍醐天皇は、すぐに、中院定平(なかのいんさだひら)を呼び寄せた。

後醍醐天皇 あんな、定平、結城親光(ゆうきちかみつ)と名和長年(なわながとし)引き連れてな、今すぐ、西園寺邸に急行せい。西園寺公宗と橋本俊季、三善文衡、ひっとらえてこい!

中院定平 ははっ

天皇の命に従い、2,000余騎が、西園寺邸の表門と裏門の前に寄せ、邸宅を厳重に包囲した。

これを見た西園寺公宗は、

西園寺公宗 (内心)あぁ、クーデター計画、露見してもぉたかぁ。

事ここに至っては、致し方なしと、公宗は落ち着き払っている。

しかし、事情を何も知らない奥方、女房、侍たちは、いったい何事が起こったのかと、あわてふためきながら、ただ逃げ回るばかり。

公宗の弟の橋本俊季は、頭の回転の速い人であったので、御所から軍が向かってくるのを見るやいなや、単独で邸内から脱出し、背後の山づたいに、どこへともなく逃亡してしまった。

中院定平は西園寺公宗に対面し、おだやかに事の次第を告げた。これを聞いた公宗は、

西園寺公宗 (涙を押さえながら)不肖、この公宗、故・中宮様との親族の縁のおかげで、位も給与も人の上を行っとります。これもひとえに、陛下が慈しみ深く、私どもの家をごひいきにして下さるおかげ。ですから、「陰に居て枝を折り、流れを汲んでは源を濁す」とでも言うべき、恩を仇で返すような事をしでかそうなどと、私が考えるはず、ありませんやんか!

中院定平 ・・・。

西園寺公宗 これはですな・・・色々と考えてみまするに・・・わが西園寺家は数代にわたって、官位は人を超え、いただく給与は身に余る、というような状態です。そやから、これはきっと、よその高家名門の連中らが私らのことをねたんで、あれやこれやと当家の事を讒言しとるんですわ。あることないこと言い触らして、わが西園寺家を没落に追い込もうと、しとるんですよ。

西園寺公宗 まぁ、遅かれ早かれ、天の鏡が真実を映し出すことでしょう。わが家のこの汚名、すべて虚偽によるものやったんや、ということが、陛下にもお分かり頂けますやろて。

西園寺公宗 ここはひとまず、お召しに従ぉて、宮中の衛士詰め所に参りましょう。その上で、私が有罪か無罪かの糾明を、していただく事にしましょう。ただな、俊季は今朝ほど、どこかへ行ってしまいましたんで、彼を連行するのは不可能ですよ。

(中院定平と共に来ていた)武士のリーダーA さては、橋本俊季を、舘のどこかに匿ってるな!

リーダーB よぉし、邸内くまなく捜索だぁ!

数千人の兵が邸内に乱入、天井も納戸も打ち破り、簾も几帳も引き倒し、くまなく捜索。

紅葉の賀の管弦楽の準備のため、楽器の音合わせをしていた楽人たちは、装束を着たまま東西に逃げ迷い、群れをなして行幸の見物にきていた僧俗男女も、「こいつら、怪しいぞ」ということで、多数が逮捕され、思いもかけない刑に逢うことになってしまった。

武士たちは周辺の山奥、岩の間までも、橋本俊季はここに潜んでいるか、あそこに潜んでいるか、と草の根分けて探し回ったが、ついに、彼を見つけることはできなかった。

仕方なく、彼らは、西園寺公宗と三善文衡とを逮捕・連行して、その夜、帰還した。

定平の邸宅の一間が狭い牢獄にしつらえられ、公宗は、そこに押し込められた。

三善文衡の方は、その身柄を結城親光が拘束、昼夜3日間、厳しく拷問を加えた。ついに、文衡は何もかも白状してしまい、その後すぐに、六条河原へ引き出され首を刎ねられてしまった。

やがて朝廷より決定が下り、「西園寺公宗の身柄は、名和長年の預かりとし、出雲国へ流刑」と定まった。

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「明日、流刑地の出雲へ出発」との決定が下った夜、中院定平はそれを、西園寺公宗の奥方に知らせてやった。奥方は人目を忍びながら、泣く泣く、囚われの身となっている公宗のもとにやってきた。

しばしの間、警護の武士を遠ざけてもらった後、奥方は、公宗が幽閉されている部屋の方へと進んだ。見ると、邸内のある一室、蜘蛛手に材木を厳重に組まれたその奥に、公宗は身を縮め、起きあがりもせずにただじっと、泣き沈んでいる。流れる涙は袖に余り、身も浮かんばかりである。

奥方の姿を一目見るや、公宗はますます涙にむせび、言葉も出ない。

奥方 いったいこれは・・・何という事に・・・(涙、涙、顔を袖でおおって泣き伏す)

暫しの時の経過の後、

西園寺公宗 (涙を押さえながら)「引く人もなき、捨て去られた小舟」とでもいうべきかなぁ、自分のこの現状は・・・深い罪の中に沈んでしもぉたわ。

奥方 ・・・(涙)。

西園寺公宗 お前は妊娠中の身や・・・私の事を心配して、どないに悩んでるかと思うとなぁ・・・死んでも死にきれんわ。

奥方 ・・・(涙)。

西園寺公宗 お腹の中の子供が男の子やったらな、将来の希望を失わんと、大事に育ててな、成人させてやってくれよ。成人した時にな、これ、渡したって。

西園寺公宗 これはな、先祖代々、我が家に伝えられてきたもん(物)なんや・・・「顔見たこともないあんたのお父さんが、残していった忘れ形見やで」いうてな、渡したって。

公宗は、「上原(しょうげん)」、「石上(せきしょう)」、「流泉(りゅうせん)」、「啄木(たくぼく)」の琵琶の秘曲が書かれた楽譜を一冊、はだにつけていた護袋から取り出して、奥方に手渡した。そして、側の硯を引き寄せ、その上包みの紙の上に一首書き添えた。

 あわれにも 夜露の命は 日の出まで それでも気になる 愛児の運命

 (原文)哀(あわれ)なり 日影(ひかげ)待間(まつま)の 露の身に 思いおかかるる 石竹(なでしこ=撫でし子)の花

硯の水の中に、公宗の涙が落ちる。

西園寺公宗 (内心)あぁ、涙で、薄墨の文字もはっきり見えへん。今自分が書いてる歌を見てると、なんや、自分がどっかに消えていってしまいそうな気ぃするわ・・・これが今生の形見となるんやな・・・(涙)。

公宗から渡された形見をじっと見つめていると、奥方は更に悲しみが増してきて、もう言葉が出てこない。彼女はうなだれ、ただ泣き崩れるばかり。

やがて、護送担当の者がやってきた。

護送担当 さぁさぁ、出発のご準備を! 今夜まず、名和長年殿の所へ移っていただき、翌朝、流刑先へ出発となりますでなぁ。

周囲が騒然としてきたので、奥方はその場から離れ、室外へ出た。しかしなおも、彼女は、公宗の事が案じられてならず、間の透いた垣の奥に身を隠しながら、館の中の様をじっとうかがっていた。

そこへ、名和長年が、2、300人ほどの武装メンバーを率い、公宗の身柄を引き取りにやって来てた。彼らは、庭にずらりと並んだ。

名和長年 夜も更けてるから、急がんとなぁ!

公宗が、縄を引かれながら中門を出てきた。その有様をじっと見守る奥方の心中、何と表現してよいものか・・・。

庭に据えられた輿(こし)の簾(すだれ)をかかげて、公宗がそれに乗り込もうとした時、

中院定平 (名和長年に対して)さ、早ぉ・・・。

名和長年 (内心)なに、「早ぉ」? なるほど、早ぉ殺してしまえ、という事かい、よし!

長年は公宗に走りかかるやいなや、彼の鬢をひっつかんでうつ伏せに引き伏せ、腰に差した刀を抜き、公宗の首めがけて、

名和長年 エェイィ!

臣下でありながら、天皇陛下を殺し奉ろうなどという、大それた事を企てた男に対して下されたその罰、まことに恐ろしいものである。

これを見た奥方は思わず、「あっ」と叫び、垣の奥に倒れ伏してしまった。そのまま息絶えてしまうのでは、とさえ思われ、女房たちはあわてて、彼女を助けて車に乗らせ、泣く泣く、西園寺邸へ連れ帰っていった。

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館の中にも外にも、あれほどたくさんの侍や女房がいたのに、全員、どこかへ逃亡してしまったのであろう、西園寺邸は無人の状態、簾も几帳も、引き落とされてしまっている。

居間には、短冊がここかしこに、散り乱れている。

奥方 (内心)月の夜といい、雪の朝といい、あの人はいつも興が向いたら、歌を詠んではあの短冊に書いてはったなぁ・・・この短冊も今は、亡き人の形見となってしもぉた。(涙、涙)

寝所には、布団が。

奥方 (内心)布団だけは、あないして敷いてあるけど、枕を並べたあの人は、もうあそこには、居はらへん。あの人の面影、わが胸中にしっかりと焼き付いてはいるけど、もう互いに話をすることもできひんように、なってしもぉた。(涙、涙)

庭には紅葉が散り敷き、風の吹くのも寒々しく感じられる。古木の梢に鳴く梟の声を暁に聞くのも、ものさびしくて、やるせない。こんな所に住み続けることなど、とてもできはしない、と思っている所に、西園寺家の財産はすべて西園寺公重に与えられることになった、ということで、侍が多数やってきて色々と処置をする。

何もかもが、公宗との別離の悲しみに、追い討ちをかけるような気がする。ついに奥方は、仁和寺(にんなじ:京都市・右京区)のあたりに、ひっそりとした住居を見つけ、そこへ転居した。

故・公宗の百か日にあたるちょうどその日、彼女は無事にお産を済ました。男の子であった。

かつての華やかなりし時であったならば、安産祈祷を担当する貴僧、高僧が歓喜の声を上げ、男子出生のニュースは国中に伝わり、門前に車馬が群れをなして集まってきたであろう。しかし今は、出産の祝いの桑弓を引く人もなく、蓬の矢を居る所もないあばら屋に、彼女は身を置いている。吹き込んでくる冷たい隙間風を防いでくれる夫もすでに亡く、乳飲み子に乳母をつけてやる事もかなわず、奥方は自らの力で、赤子を抱き育てていくしかない。

奥方 (内心)あぁ、この子、だんだんあの人に似てきたわ・・・そういえば、昔の人が詠んだ歌に、こんなんがあったねぇ、

 形見こそ 今となっては つらい過去 これさえ無ければ 忘れれるのに

 (原文)形見(かたみ)こそ 今はあたなれ 是(これ)なくば 忘るる時も あらまし物(もの)を

奥方 (内心)あぁ、こないな事考えてたら、また悲しぃなってきてしまう・・・(涙)。

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悲嘆の思いは胸に満ち、子供が生まれて間も無いというのに、中院定平のもとから使いの者がやってきていわく、

使いの者 中院定平様から、次のように仰せつかって参りました、

 「こちら様のお産の事について、朝廷から私に、おたずねがありましたので、もしも、男の子が生まれてんのやったら、その子を乳母に抱かせて、私の方に送り届けて下さい」。

これを聞いた奥方は、泣き伏してしまった。

奥方 (内心)あぁ、なんという悲しい事なんやろ。

奥方 (内心)この子がまだ私のお腹の中にいた頃、「公宗の子供の姿を、母親の腹を開いてでも、ご覧あそばす」てな事、聞いた事ある。この子が生れたこと、どっかから朝廷に、リークしてしもぉたんやなぁ。

奥方 (内心)悲しい中にもなんとかして、この子を、あの人の忘れ形見やと思ぉて、大事に育てよう、成人したら僧侶にして、あの人の菩提を弔わせようと、思ぉてた。そやのに、いまだに乳離れもしてないこの幼子が、人の手にかかって死ぬ、なんてことになったら・・・うち(私)は、いったいどないしたらえぇのん・・・。

奥方 (内心)あの人とも別れ、この子とも別れ・・・消えかねる露のようなわが命、これからいったい、何を頼りに、耐え忍んでいったらえぇのん?

奥方 (内心)命終えるまで与えられたわが人生、ほんまに自分の思うようにならへん・・・なんでこないに、悲しい目にばっかし、逢わんならんのやろぉか・・・(涙、涙)

これを見た公宗の母・春日局(かすがのつぼね)は、泣く泣く奥から出て、使者に相対していわく、

春日局 (涙)故人の忘れ形見の男の子、たしかに、生まれたことは生まれたんどすけどなぁ・・・その子の母親、あないなつらい目に逢ぉてまっしゃろぉ・・・あれ以来、彼女は、物思いに沈みきって、という状態が続きましてなぁ・・・そのせいでっしゃろか、その子は生まれて間もなく、死んでしもたんどすぅ。

春日局 (涙)何といいましても、罪人の子を産み落としたっちゅう事になりますやろぉ・・・そやから、朝廷からはいったい、どないな御沙汰が出るもんやら・・・お咎めが怖いよってに、出産の事は伏せとこか、と、まぁ、こないに思いましてなぁ・・・いやいや、これは決して、うそ偽り言うてんのとはちゃ(違)いますえぇ。その証拠に、神仏に一筆、申し入れさせてもらいましょかいなぁ。

彼女は、涙を流しながら、前後のいきさつをしたためた後、その最後に一首書いた。

 偽りを 糺すの森に 置いた露 消えてしまって 涙の毎日

 (原文)偽(いつわり)を 糺(ただす)の森に 置く露の 消えしにつけて 濡るる袖哉(かな)(注3)

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(訳者注3)[糺の森]は、京都の下鴨神社(しもがもじんじゃ)の境内に現在もある森。生れた子供のことを、「置く露」と表現している。
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使いの者が持ち帰ったこの文を読んだ中院定平は、涙を拭いながら、それを後醍醐天皇のお目に入れた。

この最後の一句には、さすがに天皇も哀れを催されたのであろうか、その後、この件についての詮索は行われないようになった。

嬉しい思いの中にも、奥方の心は休まらない。

焼け跡の野原の中に住む母雉(きじ)は、焼け残った草叢(くさむら)を命の拠り所として、雛を育てるという。それから後の彼女の毎日はまさに、その母雉のごとくであったといえよう。泣き声を人に聞かれるような事がないようにと、赤子の口を押さえて乳を含ませ、その子と同じ枕に世を忍びながら、泣き明かし泣き暮れて過ごした3年の歳月・・・まことに悲哀に満ちた彼女の心中。

その後、建武の乱が勃発(ぼっぱつ)、天下が将軍のものになると共に、この子も朝廷に出仕することができるようになり、やがて西園寺家の跡を相続するに至った。この男子こそが、後の、西園寺実俊(さねとし)である。

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西園寺公宗の没落に関して、宮内省・営繕局長(注4)の藤原孝重(ふじわらたかしげ)がその前兆を察知していた、と言うのが、実にまた不思議な話である。

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(訳者注4)原文では、「木工頭」。
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クーデター計画を進めるに当たって、公宗はまず、クーデター成功の祈願の為に、1週間、北野天満宮に参篭し、毎晩、琵琶の秘曲を弾き続けた。

祈願満願の7日目の夜、聖なる神の社に、最高に妙なる音楽を捧げ祭ろうと思ったのであろうか、公宗は、冴えわたる月の下、風冷ややかな夜更け方、簾を高く巻き上げさせて、「玉樹(ぎょくじゅ)三女の序」という曲を奏ではじめた。

琵琶 ジャララァーーン・・・ジャララァーーン・・・ビビィーン・・・ビビビビィーン・・・

第1弦と第2弦は、消え入るような調べを奏で、秋風が松の梢を払うがごとくに、ものさびしく響く。第3弦と第4弦は、限りなく拡散していくような音調で、子を思う鶴が夜に籠の中で鳴くがごとくに、歌を奏でる。弦を弾き、弦を押さえ、曲はリズムに乗って進んでいく。

リピート6回の後、新たなメロディーが奏でられ始めた。まさに、嬰児さえも立ち上がって今にも舞いはじめようか、という風情。

その夜、北野天満宮に徹夜で参篭していた孝重は、心を澄ませ耳をそばだてて、公宗の琵琶の演奏にじっと聞き入っていた。

演奏終了の後、孝重は、そこに居合わせた人々に対して語った。

藤原孝重 今夜のあの演奏なぁ、西園寺殿、こちらのお社の神様へ何かお願いごとがあって、あれを演奏しはったんやったら、その願い事は、かなわんで。

その場にいた人A え? いったい、なんでですかいな?

藤原孝重 あの「玉樹」っちゅう曲はやな、その昔、中国の晋(しん)の平公(へいこう)が、濮水(ぼくすい)っちゅう川のほとりを通りすぎた時に、川に流れる水音の中に管弦の響きを聞き取ってやな、すぐに、師涓(しけん)っちゅう楽人に命じて、それを琴の曲に写し取らせたっちゅう、イワクつきの曲なんや。

その場にいた人B へぇー・・・。

藤原孝重 もうとにかく、陰にこもる気に満ち満ちた曲でなぁ、それを聞く人は残らず、涙を流すっちゅうようなもんやったんや。そやけどな、平公はこの曲を好み、しょっちゅう、管弦で演奏させてたんや。

その場にいた人C ふーん・・・。

藤原孝重 ある時な、師曠(しこう)っちゅう楽人がこの曲を聞いてやな、平公にこぉ言うたんや、

 「そのように面白がって、この曲を演奏させてたら、やがて国家が乱れ、殿のお家は危機に直面しますぞ。なぜかといえば、」

 「その昔、殷(いん)王朝の紂(ちゅう)王は、淫靡(いんび)な曲を作らせてそれを奏でさせていましたが、間もなく、周の武(ぶ)王に滅ぼされてしまいました。しかし、紂王の魂魄(こんぱく)は、なおも濮水の底に留まり、その曲を奏で続けてきました。殿が聞かれたこの音楽こそは、まさにその、紂王の魂魄が奏でていた楽曲ですぞ!」
 
 「よりにもよって、そのような危険きわまりないシロモノを、殿は譜面に写し取らせ、今もそれを弄んでおられる、というわけです。鄭(てい)国の淫靡な音楽が、上品な音楽の世界を汚したのと同様、この曲、トンデモナイ音楽ですぞ。」

藤原孝重 師曠が危惧した通りになり、平公は身を滅ぼしてしもぉた。しかしその後も、この曲は、陳(ちん)王朝の代に至るまで、演奏され続けたんや。陳王朝最後の王もこの曲を弄んで、隋(ずい)に滅ぼされた。隋の煬帝(ようだい)もまた、この音楽をさんざん弄んだあげく、唐(とう)の大宗に滅ぼされてしもぉた。

藤原孝重 唐王朝の末の頃に、わが国の楽人にして宮内省・清掃局長(注5)の藤原貞敏(ふじわらさだとし)が、遣唐使として中国に渡ってな、あちらの地で、琵琶博士・廉承夫(れんしょうふ)に会うてこの曲を習うて、日本に持ち帰ってきたんやわ。

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(訳者注5)原文では、「掃部頭」。
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藤原孝重 この曲には不吉の音調あり、ということで、一手略して演奏すんねん、通常はな。ところが、今夜のあの演奏、その一手を略さんと、モロ弾いてはったわな。おまけに、ばちさばきも、ごっつう荒々しぃ聞こえたしなぁ、こらぁなんか、相当問題ありなんちゃうかぁ、てな事、思ぉてしもたよ。

藤原孝重 音楽と政治には、あい通じるものがあるっちゅうやんかぁ。西園寺殿の身の上に、これからいったいどないなトラブルが起こってくるんか・・・こらぁ先が思いやられるでぇ。

このように孝重は歎いていたのだったが、それから程なく、公宗は死刑という運命に遭遇してしまったのである。まことに、不思議な前兆であったとしか、いう他はない。

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