太平記 現代語訳 8-7 千種忠顕、20万の大軍を率いて京都へ

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「京都での数度の戦いに倒幕勢力側完敗、八幡(やわた:京都府・八幡市)と山崎(やまざき:京都府・乙訓郡・大山崎町)に布陣の赤松(あかまつ)軍の勢力、すでに衰微(すいび)に向かう!」との報に、後醍醐先帝(ごだいごせんてい)のストレスは、深まる一方である。

後醍醐先帝 あぁ、ほんまにもぉ! 天下の形勢、いったい、どないなっとんねん! なんとか、ならんのんかいなぁ! あぁーーっ!

後醍醐先帝 こないなったら、天に、祈りを捧げるしかないわなぁ!

というわけで、船上山(せんじょうざん)の御座所の中に壇をしつらえ、先帝自ら、「金輪法(こんりんぼう)」の行を修し始められた。

行の開始から7日目の夜、日天子、月天子、明星天子が壇上に現われ、そろって光を発した。

後醍醐先帝 (内心)よぉし、わしの願い、天は聞き届けて下さったぞ。これで、打倒鎌倉幕府の大願成就(たいがんじょうじゅ)間違いなし! やったぁ!

勢いづいた先帝は、

後醍醐先帝 直ちに、京都攻めに大将を一人派遣するぞ! 赤松円心(あかまつえんしん)と力を合わせて、六波羅庁(ろくはらちょう)を攻略させるんや!

先帝は、千種忠顕(ちぐさただあき)を頭中将(とうのちゅうじょう)に任命し、山陽・山陰両地方の武士たちを率いて、京都へ進軍させた。

この軍勢、伯耆国(ほうき:鳥取県西部)を出た時は、わずか1,000余騎であったが、因幡(いなば:鳥取県東部)、伯耆、出雲(いずも:島根県東部)、美作(みまさか:岡山県北東部)、但馬(たじま:兵庫県北部)、丹後(たんご:京都府北部)、丹波(たんぱ:兵庫県東部+京都府中部)、若狭(わかさ:福井県南西部)の勢力が次々と加わってきて、たちまち、20万7000余もの大軍勢に膨張した。

丹波国の篠村(しのむら:京都府・亀岡市)に到着した千種軍のもとへ、但馬国守護・大田三郎左衛門尉(おおたさぶろうざえもんのじょう)がやってきた。彼は、元弘の乱の時に鎌倉幕府に捕えられて但馬国へ流刑になっていた先帝の第六親王をトップにあおいで、倒幕の旗揚げを行い、近隣の武士らを仲間に引き入れて、千種軍に合流してきたのである。

千種忠顕は大いに喜び、ただちに錦の御旗を用意して、この親王を総司令官の地位に据え、親王の名でもって、諸国に兵力動員令を送った。

4月2日、親王を頭に頂いた千種軍は篠村を出発、西山(にしやま:注1)の峯堂(みねどう:京都市・西京区)に入り、そこを本陣とした。

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(訳者注1)京都盆地の西側にある山地をこのように呼ぶ。
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千種軍20万騎は、谷堂(たにどう:西京区)、葉室(はむろ:西京区)、衣笠(きぬがさ:西京区)、萬石大路(まんごくおうじ:西京区)、松尾(まつお:西京区)、桂(かつら:西京区)一帯に布陣。あまりの大軍勢ゆえに、その半数ほどは宿泊する家も無く、野宿するしかない。彼らの野営陣は、その周辺の地域を覆い尽くした。

かくして、倒幕勢力サイドは、3つのグループが京都周辺に布陣する形となった。

まずは、八幡(やわた)に陣取る、殿法印良忠(とののほういんりょうちゅう)率いる軍団。

次に、山崎に陣取る、赤松円心率いる軍団。

そして、京都西方に陣取った、千種忠顕が率いる大軍勢。

千種軍団の陣の位置と、八幡、山崎との間の距離はわずか50余町ほどである。互いに連絡を密にし、うまく連携しあって京都を攻めれば、戦いを有利に展開できたであろう。なのに、忠顕は、自軍の大兵力を頼んで、自信過剰に陥ってしまったのであろうか、あるいは、手柄を一人占めにしたかったのであろうか、

千種忠顕 我らだけで、京都攻めを決行や! 進軍は、4月8日午前6時!

これを聞いた世間の人々は口々に、

世間の声U えーっ なんやてぇ! 4月8日に、戦をやらはるんどすかぁ!

世間の声V 4月8日いうたら、お釈迦(しゃか)さまのお誕生日やないかいな。

世間の声W この日は終日、「仏に帰依する心の有る無しにかかわらず、誕生仏にそそぐ浄水に自らの心の汚れを流し落とし、仏前には花を捧げお香を薫じ、経典のページをめくりながら、捨悪修善(しゃあくしゅうぜん)に終日専念せよ」との、古来よりの習わしどすえぇ。

世間の声X その4月8日を、戦の開始日にするとはなぁ・・・。

世間の声Y 他にいくらでも、日があるやろぉにぃ。

世間の声Z よりにもよって、心を修め行いを慎むべき日に、合戦を始めるとは・・・。

世間の声U もしかしたら、千種はんは、天魔破旬(てんまはじゅん:注2)の道を学ばれたお人なんと、ちゃいますやろかいなぁ?

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(訳者注2)天魔破旬(てんまはじゅん)=欲界(よくかい)の頂上にある第六天(だいろくてん、別名、他化自在天:たけじざいてん)の主にして、名を破旬(Papiya)という。仏道を修めようとする人に対して、様々な妨害活動を行う。
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「敵サイドもこっちサイドも共に、源氏、平氏が入り混じっている。全軍共通の笠標(かさじるし)でもつけておかないと、そこら中で同士討ちになってしまうかも」、ということで、千種軍団メンバーは全員、白い絹布を1尺ずつ切ってそこに「風」という文字を書き、鎧の袖につけることにした。

いったいなぜ、「風」の文字にしたのか? それはおそらく、かの孔子著・論語にある以下の一節を念頭に置いてのことであろう。

 君子の徳を 風にたとえるならば
 小人の徳は 草とすべきであろう
 草に風が 吹きつけたならば
 必ずや草は それに靡(なび)く

(原文)
 君子の徳は風也
 小人の徳は草也
 草に風を加ふる時は
 偃(のえふさ)不(ず)と云ふ事なし

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京都の西方から攻めてくる千種軍団に備えて、六波羅庁軍サイドは、三条大宮(さんじょうおおみや:中京区)から九条大宮(くじょうおおみや:南区)の間の大宮通りに塀を並べ築き、要所要所に櫓(やぐら)を建てて、射手をそこに常駐させ、小路ごとに1,000騎、2,000騎と、兵を配置した。

魚鱗(ぎょりん)陣形で進み、敵陣を鶴翼(かくよく)陣形で包囲せんと、六波羅庁では、例によっての作戦会議。

六波羅庁リーダーA 今度攻めてきた敵軍の司令官、いったい誰が?

六波羅庁リーダーC いや、それがねぇ、フハハハ・・・総司令官はなんと、先帝の六番目のぼっちゃん、で、副司令官が、頭中将・千種忠顕なんですってさぁ。

六波羅庁リーダーB ブッ、なぁんだぁ、そりゃ! そんな連中が、全軍の指揮とってんのかぁ!

六波羅庁リーダーA ハァー、まったくもう・・・あきれたもんだねぇ。

六波羅庁リーダーB これだったら、もう勝負、決まったようなもんだなぁ!

六波羅庁リーダーA 千種の家系はたしか、村上源氏(むらかみげんじ)の流れだろ、だから、先祖は村上天皇だよな。かたや、我ら北条(ほうじょう)一族は、もとはと言えば平氏(へいし)の出、先祖は恒武天皇(かんむてんのう)だ。家のルーツをずぅっと遡(さかのぼ)ってったら、あっちもこっちも、天皇家に行きつくってわけさね。

六波羅庁リーダーA ただしだなぁ、問題はその後の、子孫の生きザマなんだわさ。「中国の長江(ちょうこう)の南に生えてる橘(たちばな)の木を、長江の北に移植したら、枳(からたち)に変わってしまう」ってな話、知ってるかい?

六波羅庁リーダーC エェー! そんな事ってあるんだぁ!

六波羅庁リーダーA こっちは先祖代々、「弓」と「馬」に、命かけてきたわさ。ところが、ところが、あちゃらさんと来た日にはぁ。

六波羅庁リーダーE 明けても暮れても、「風」に「月」でしょ?(注3)

六波羅庁リーダーB えぇ?「風」に「月」?・・・あ、なぁるほど、ワハハハ・・・。

六波羅庁リーダー一同 ワハハハ・・・。

六波羅庁リーダーD あっちから「いざ、勝負」て、言うてきてんねんからな、相手になってやりましょうやぁ!

六波羅庁リーダーE おぉ公家さん相手の戦によぉ、おれたちが負けるはず、ねぇでしょうが、エェー!

六波羅庁リーダー一同 ウワッハッハハハ・・・。

六波羅庁軍サイドの人々は各々勇みたち、7,000余騎を大宮通り沿いに展開、千種軍団の到来を今や遅しと待ち構えた。

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(訳者注3)「花鳥風月」(=文化芸術)の事しか知らない公家階級に所属する千種家の事を皮肉っているのである。
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千種忠顕は、神社総庁(注4)の前でいったん進軍を停止した。そして、北は宮殿宿直管理庁(注5)から、南は七条大路に至るまで、すべての小路毎に1,000余騎ずつ軍勢を分かって配分の後、一斉攻撃の開始を命じた。

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(訳者注4)原文では「神祇官」。

(訳者注5)原文では「大舎人」。
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六波羅庁軍サイドは、最前線に築いた拠点に射手隊を配置、その後方に騎馬隊を置いている。千種軍団陣営のどこかに弱点が生じたとみるやいなや、そこへ騎馬隊の集中攻撃を行う。

千種軍団サイドも二重、三重に、新手の軍勢を配備、第一陣が退けば第二陣がそれに入れ替わり、第二陣が敗退すれば第三陣がそれに入れ替わり、というように、人馬に息を継がせつつ、煙塵(えんじん)天を掠(かす)めんばかりの猛攻を繰り返す。

両軍ともに、義に依って命を軽んじ、名を惜しみ死を争う。戦場のどこを見ても、味方を助けんがため前につき進む者のみ、敵に相対して退いてしまう者は皆無である。

このままでは勝負がいつ、つくとも分からない形勢。

しかし、千種軍団サイドの秘策が効を奏した。但馬(たじま)・丹波(たんば)から参戦の軍勢中から、これぞというメンバーを選抜して特殊工作部隊を編成し、戦闘開始に先だって、京都市街地の奥深く、彼らを潜入させておいたのである。

特殊工作部隊メンバーらは、京都中のそこかしこに放火して回った。おりからの激しい辻風にあおられ、猛煙が六波羅庁軍の後方に立ち上りはじめた。

六波羅庁軍メンバーF おい、背後から火が!

六波羅庁軍メンバーG うわっ、こら、えらいこっちゃ!

六波羅庁軍の最前線の者たちはパニック状態に陥り、大宮通りから東側に退却し、京都市街中のさらに東方へ、陣を移動した。

この状況をキャッチした、六波羅庁両長官は、

北条仲時(ほうじょうなかとき) いかん、このままじゃ、総くずれになってしまう!

北条時益(ほうじょうときます) 予備軍を、投入するしかないな。

戦いが不利になった方面へ向かわせるために残留させていた、佐々木時信(ささきときのぶ)、隅田(すだ)、高橋(たかはし)、南部(なんぶ)、下山(しもやま)、河野(こうの)、陶山(すやま)、富樫(とがし)、小早川(こばやかわ)らに、5,000余騎を率いさせ、一条通りと二条通りへ向かわせた。

この新手の六波羅庁サイドの軍勢との戦いにおいて、但馬国守護・大田三郎左衛門尉(おおたさぶろうざえもんのじょう)は戦死。

丹波国住人の荻野彦六(おぎのひころく)と足立三郎(あだちさぶろう)は、500余騎を率いて四条油小路(しじょうあぶらこうじ:中京区)まで攻め入り、備前(びぜん)国住人の薬師寺八郎(やくしじはちろう)、中吉十郎(なかぎりじゅうろう)、丹(たん)、児玉(こだま)勢力700余騎と戦っていた。しかし、二条方面で千種軍が敗退したのを見て、荻野と足立も退却してしまった。

金持(かなじ)三郎は、700余騎を率いて七条東洞院(しちじょうひがしのとういん:下京区)まで攻め込んだが、そこで重傷を負ってしまった。進退窮まっている彼を、播磨(はりま)国住人・肥塚(こいづか)一族300余騎が中に包囲し、すきに乗じて生け捕りにした。

丹波国・神池寺(じんちじ:兵庫県・丹波市)の衆徒ら80余騎は、五条西洞院(ごじょうにしのとういん:下京区)まで攻め込んだ。味方の軍勢が退却してしまったのも知らずに、彼らは戦い続けていたが、備中国住人の庄三郎(しょうのさぶろう)と真壁四郎(まかべしろう)が率いる300余騎に包囲され、一人残らず戦死してしまった。

このように、各方面の千種軍団は、あるいは打たれ、あるいは破られ、みな、桂川(かつらがわ:西京区)のあたりまで退却してしまったが、名和長生(なわながたか)と児島高徳(こじまたかのり)率いる一条通りへ向かった軍団は、そこに踏みとどまって2時間ほど、戦線を維持した。

この戦場、守る側は、陶山(すやま)に河野(こうの)、攻める側は、名和に児島。児島と河野は、同族どうし、名和と陶山は、知人どうしの間がらであったがゆえに、

陶山 (内心)ここの戦場で、相手に後ろ見せるわけにはいかんでのぉ!

河野 (内心)そないな事したら、わしんとこの家のコケンにかかわるでな。

名和 (内心)後で世間のモノワライになってしまっちゃ、たまらんわなぁ。

児島 (内心)死して屍(かばね)をさらすとも、逃げて名をば失わじ!

互いに命惜しまず、おめき叫んで戦い続ける。

千種忠顕は大内裏址(上京区)のあたりまで退却したが、「一条通りに向かった軍勢が、なおも戦線を維持して戦闘続行中」との報を聞き、再び、神社総庁前まで引き返し、使者を送って、児島と名和に退却を命じた。

二人は、陶山と河野に対してあいさつ、

児島 今日の戦はこれまでじゃ、もう日も暮れてしもぉたけん。

名和 あしたまた、お目にかかるとしよう。

両陣営ともに東西に引き分かれて、各々の陣に戻った。

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日没とともに、全戦線にわたって戦闘中止となった。

峯堂に置いた本陣に戻った忠顕は、自軍の負傷者・戦死者を調査してみた。その結果、

千種忠顕 なんやてぇ! 負傷者・戦死者、7,000人超!

彼が最も頼りにしていた大田と金持も、一族以下数百人が戦死してしまっていた。

千種忠顕 (内心)こないなってしもたら、これからは、彼をリーダー役として頼りにしていくしかないなぁ。

忠顕は、児島高徳を本陣に呼び寄せた。

千種忠顕 なぁ高徳、こうまでむちゃくちゃにやられてしまうとはなぁ・・・。こないな事になるやなんて、まったく思いもよらなんだわ。

児島高徳 ・・・。

千種忠顕 もうみな、力尽きてしもてて、六波羅庁軍ともう一度戦うのんなんか、到底無理やろうなぁ。

児島高徳 ・・・。

千種忠顕 なぁ高徳、あのなぁ、こういう状況ではな、こんな京都に近いとこに陣を取ってるっちゅうのんも、どうかと思うんや。そやからな、京都からもうちょっと離れたあたりにな、陣をいったん移してやな・・・ほいでな、もう一回、そこらへんの勢力を集めてからな、再び京都を攻めるっちゅうのんは、どないやろか? なぁお前、どない思う?

児島高徳 いいや、それはいけん!

千種忠顕 ・・・。

児島高徳 戦の勝負というもんは、時の運ですけぇ、敗北そく恥辱という事には、必ずしもなりません。ただし、退却しちゃぁいけん局面で退却を命令し、攻撃をしかけるべき所で攻撃を命令せんかったとしたら、それはもう完全に、大将の不覚っちゅう事になりますわなぁ!

千種忠顕 ・・・。

児島高徳 赤松円心、見てごらんさんの。わずか千余騎の軍勢でもって、三度も京都へ攻め入りよりましたぞぉ。戦に破れはしたけど、それでも京都に至近距離の地点まで退却しただけじゃ。八幡と山崎の陣を、今もしっかりと確保しとりますじゃろうが。

千種忠顕 ・・・。

児島高徳 わしらの軍は、たとえその過半数を失ぉたとしても、それでもまだ六波羅庁軍よりも兵力が多いんじゃ。しかもな、ここの陣の地形がまた、えぇんじゃ。後ろは奥深い山になっとるし、目の前にゃぁ大河が流れとりますけぇのぉ。敵がもし寄せてきたとしても、防衛するにゃぁ絶好の場所ですわい。

千種忠顕 ・・・。

児島高徳 とにかく、撤退はいけん! 絶対に、撤退しちゃぁいけんですよ!

千種忠顕 ・・・。

児島高徳 一点だけ懸念される事、それはな、こっちが疲れとるスキをついての、敵の夜襲です。じゃけん、これからわしゃぁ、七条大橋の橋詰に陣取って、それに備えることにしますわ。千種様の方もな、信頼のおけるもんを4、500騎ほど選びなさっての、桂川の両岸に差し向けて・・・そうじゃのぉ・・・梅津(うめづ:右京区)と法輪寺(ほうりんじ:右京区嵐山)あたりがよろしいですかの、そいでもって、敵の夜襲に備えられませ。

千種忠顕 ・・・。

忠顕のもとを辞した高徳はすぐに、300余騎を率いて東に向かい、七条の橋(注6)の西方に陣を固めた。

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(訳者注6)原文に「七条の橋」と記されているこの橋は、おそらく、鴨川にかかっていた橋ではないだろう。鴨川の付近まで敵地深々と進出して夜襲に備える、というのはだいぶムリな設定となるし、それでは千種軍本陣とあまりに離れすぎていて、イザという時に、何の役にも立たないだろうから。
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高徳に強い言葉を浴びせられ、忠顕はなんとか峯堂に踏み留まっていた。しかし、

千種忠顕 (内心)あぁ、どないしょ、どないしょ、いったいどないしたらえぇんやぁ!

千種忠顕 (内心)高徳が言うとったな、敵が夜襲をかけてくるかもと・・・あぁ、いったいどこから襲ぉてきよんねんやろか・・・いったいどこから・・・いったいどこから・・・。

千種忠顕 (内心)・・・怖・・・。

夜半過ぎ頃、ついに忠顕は撤退を決意した。千種軍団全軍は、親王を馬に乗せ、葉室(はむろ)を斜めに横ぎり、八幡を目指して退却を開始した。

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このような事になっているとは夢にも知らない児島高徳、夜更け頃に峯堂の方を見やって驚いた。

児島高徳 (内心)なんじゃ、あれは! いったい、どうなっとるんじゃ!

つい先ほどまでは、夜空の星のごとくおびただしい数のかがり火が燃えていたのに、

児島高徳 (内心)かがり火の数が激減してしもぉとるぞ! いや、全く消えてしもぉとる陣もある、あっちにも、こっちにも・・・いったい、どうなっとるんじゃ!

児島高徳 (内心)うっ・・・ひょっとして、千種殿は逃亡かぁ? とにかく様子を見に行こう!

高徳は、馬を走らせた。

葉室大路から峯堂へ登る途中、浄住寺(じょうじゅうじ:西京区)の前で、荻野彦六にばったり出会った。

児島高徳 おいおい、こっちはいったい、どないなっとるんじゃ!?

荻野彦六 どないもこないも、あるかいやぁ! ほんまにもう、千種はんも困ったお人やでぇ。ゆうべの午前零時ごろ、ここから逃げ出してしまいよってなぁ! あぁ、ほんまに、どうしょうもないでぇ!

児島高徳 やっぱしそうか!

荻野彦六 わしらだけここに残ってても、しゃぁないよってにな、つい先ほどから丹波方面へ撤退始めたとこや。あんたもどや、わしらといっしょに行かへんか!

児島高徳 (大怒)チャッ! まったくもう! あないに臆病な男を、司令官に頂いてたのが、そもそもの大マチガイじゃったのぉ!

荻野彦六 ・・・。

児島高徳 ほぃじゃがの、わしゃとにかく、自分のこの目で直接、本陣の状態、見ときたいんじゃ。そうしとかんと、後からいろいろとまずい事になるじゃろから。荻野どん、あんたはわしにかまわんと、早ぉ丹波に帰りんさい。わしゃとにかく、これから峯堂まで登ってみてな、親王様がどうなってなさるか、確かめてみるけぇ。それから、あんたに追いつくから。

高徳は、配下の者らを山麓に留めおき、たった一人、山から逃げだす人波に逆らって、峯堂へ登っていった。

ついさきほどまで、忠顕が本陣にしていた本堂へ、高徳は走り込んだ。

児島高徳 いよらんのぉ、人っこ一人、いよらん、モヌケのカラじゃ!

児島高徳 まぁそれにしてもどうじゃ、このザマは。よっぽど慌てふためいて、陣を引き払っていきよったんじゃのぉ。錦の御旗、鎧直垂(よろいひたたれ)、なぁもかも、うっちゅらかしたまんま、出ていきよったわぁ。

遺棄(いき)された錦の御旗を手にとりながら、彼の心中には怒りがこみあげてきた。

児島高徳 フン、なにが、頭中将・千種忠顕じゃ! 聞いてあきれるわ! 千種め、どこぞの堀か崖へでも落ち込んで、とっとと死にくされぃ!

一人でわめき散らしながら、なおも、峯堂の縁上に歯噛みをしながら立っていたが、

児島高徳 いけんいけん、こんな所で怒っとる場合かや! あいつら、わしの帰るの遅いけん、心配しとるやろぉなぁ。

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高徳は、錦の御旗だけを巻いて僕に持たせ(注7)、急いで浄住寺まで走り降りた。

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(訳者注7)太平記原文には記述の矛盾がある。児島高徳が峯堂へ登っていくシーンは、「手の者兵をば麓に留めて只一人、落行く勢の中を押し分け押し分け、峰の堂へと上りける」となっているのだが、このシーンでは、「錦の御旗許(ばかり)を巻いて下人に持たせ、急ぎ浄住寺の前へ走り下り」となっている。
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児島高徳 本陣は、モヌケのカラじゃったわ。わしらも撤退じゃ、行くぞ!

児島軍団メンバー一同 オウ!

高徳たちは、馬を急がせ、追分宿(おいわけじゅく:京都府・亀岡市)付近で、荻野彦六に追いついた。

荻野彦六は、篠村(しのむら:亀岡市)、稗田(ひえだ:亀岡市)付近にたむろしていた友軍3,000余騎を配下に組み入れた。彼らは、丹波国・丹後国・出雲国・伯耆国から来た武士たちで、各々の領地を目指して、逃亡の途上にあったのである。

彼らは、行く手に群がる野伏(のぶし)たちを追い払いながら、丹波国の高山寺(こうさんじ:兵庫県・丹波市)へたどり着き、そこを、当面の根拠地とした。

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