太平記 現代語訳 18-1 後醍醐天皇、京都を脱出し、吉野へ

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「京都へご帰還いただければ、間違いなく、天皇位へご復帰に。」と、足利尊氏(あしかがたかうじ)から様々に言ってくる偽りの言葉を真に受けて、自ら京都への帰還を決意した後醍醐天皇(ごだいごてんのう)であった。

しかし、すべてはダマシの甘言。花山院の旧殿に幽閉されてしまい、秋風が淋しく吹く中に、心を悩ます日々である。

一面に霜おく朝、遠い寺から響いてくる鐘の音を聞いては、枕から頭をもたげて、我が身の悲哀をかみしめる。御簾(みす)を上げ、梢に雪が積もる京都北山(きたやま)の冬景色を眺めては、かつての御所での数々の遊楽を、涙の中に回顧する。

後宮3千人の花の美女らも一朝の嵐に吹き散らされてしまい、みんないったい、どこへ行ってしまったのやら。夜、寝床へ入っても、かつての栄華の日々は、ただ夢の中に再現するのみ。

御所の紫宸殿(ししんでん)に星辰(せいしん)を連ねるごとく列席していた老臣多数も、満天の雲に覆われて天皇の側に仕える者は一人もいないので、現在の日本の政情に関する情報を得る手段も無い。

後醍醐天皇 (内心)神仏には見捨てられ、逆臣からはこないな酷な仕打ちを受け・・・すべては、わしの不徳の致す所かいな、えぇ? わしがいったい、どないな悪い事をしたっちゅうねん。

後醍醐天皇 (内心)それとも、わしの前世に何か大きな問題があったっちゅう事なんやろかいなぁ? 今のこの苦しみは、前世に積んだ悪業(あくごう)の結果なんやろぉか・・・。

後醍醐天皇 (内心)あぁ、もうあかん、もう絶望や。わし、もう、この世の中がツクヅクいやになってきてしもぉた。

後醍醐天皇 (内心)いっそのこと、寛平(かんぺい)年間に宇多上皇(うだじょうこう)が出家しはったみたいに、わしも、出家してしもたろかいなぁ。花山天皇(かざんてんのう)かて、世をはかなんで出家しはったしなぁ。

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ここに、刑部大輔・景繁(ぎょうぶのたいう・かげしげ)という者がいた。足利側の許可の下、彼だけが、後醍醐天皇のもとへの出入りが可能であった。

ある日、勾当内侍(こうとうのないし)(注1)が、後醍醐天皇に奏上していわく、

勾当内侍 (小声)陛下、ご報告申し上げたい事が・・・。

後醍醐天皇 なんやぁ?

勾当内侍 (ヒソヒソ声)景繁殿より、密かにメッセージが・・・。陛下に、以下のようにお伝えするようにと・・・。

後醍醐天皇 (ヒソヒソ声)なになに?

勾当内侍 (ササヤキ声)「越前国(えちぜんこく:福井県北部)の金崎城(かねがさきじょう)攻防戦において、攻撃側の足利軍は、毎度のごとく敗退。その間に、加賀国(かがこく:石川県南部)の剣(つるぎ)、白山(はくさん)の衆徒らが、新田軍応援のため、富樫介(とがしのすけ)がこもっている那多城(なたじょう:石川県・小松市)を攻め落とし、金崎城の後づめをしようと計画中。この情報を得て、陛下の京都ご帰還の時にお供もうしあげた菊池武重(きくちたけしげ)、日吉加賀法眼(ひよしかがのほうげん)他のメンバーもみな、自らの本拠地へ逃げ帰り、義兵を挙げて一国中をなびかせておるとか。このような情勢ですので、「近いうちに、天下の形勢は再び逆転」との風説が、日本中に満ち満ちております。」

後醍醐天皇 ・・・。

勾当内侍 (ササヤキ声)「陛下、再びチャンスがめぐってまいりました! 急ぎ、京都を脱出なさいませ! 近日のうちに、夜陰に紛れて、大和(やまと:奈良県)方面に動座(どうざ)なさいまして、吉野(よしの:奈良県・吉野郡・吉野町)、あるいは、十津川(とつがわ:奈良県・吉野郡・十津川村)あたりに御座所を定められた後、諸国へ、逆賊・足利討伐命令書を送られて、忠臣・新田義貞(にったよしさだ)を助けられ、天子の徳を日本国中に輝き渡しくださいませ!」・・・以上が、景繁殿よりのメッセージでございました。

後醍醐天皇 (内心)そうか、そうか! なにも、絶望する必要なんか無かったんや。日本国中にはまだまだ、わしの帝徳を慕ぉとるもん(者)が多いんや!

後醍醐天皇 (内心)それにしても、ほんまに、なんちゅう嬉しいメッセージなんやろか。これはきっと、天照太神(アマテラスオオミカミ)が景繁の心の中に入り込んで、このようなお言葉をお示しくださったんやで。よーし、いっちょうやってみるかい!

後醍醐天皇 (ササヤキ声)あんな、景繁に、こない伝えよ、「明日の夜、必ず、皇室飼育馬(注2)を用意して、東の小門のへんで待っとれ」とな。

勾当内侍 (ササヤキ声)ハハッ!

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(訳者注1)ここに登場する「勾当内侍」は、おそらく、16-4で登場した「勾当内侍」とは別人である、という設定になっているのだろうと思う。新田義貞と深い関係にあった女性(16-4で登場)が、天皇の近くに行くことは、この状況では不可能であったろうから。(そのような事は、足利サイドに警戒されるので)。

(訳者注2)原文では、「寮の御馬」。
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いよいよ、約束の時刻となった。

後醍醐天皇は、女房姿に変装し、三種の神器(注3)を新任・勾当内侍(注4)に持たせて、近所の子供らによって踏み開けられた築地の崩れた箇所から、花山院を脱出した。

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(訳者注3)これが、本物の神器という事になるのであろう。17-10では、天皇は足利直義に、ニセの神器を渡した、ということになっている。

(訳者注4)原文では、「新勾当内侍」。この人は、この節に登場した「勾当内侍」(景繁よりのメッセージを天皇に伝えた)と、同一の人、という設定になっているのであろうと思う。
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景繁 陛下、お待ち申し上げておりました。

後醍醐天皇 おぉ!

景繁 陛下、さ、この馬にどうぞ。神器は、私が背負います。

後醍醐天皇 よし。

彼らは、夜が明けないうちに奈良街道へ入り、梨間宿(なしまじゅく:京都府・城陽市)まで進んだ。

景繁 さて、問題はここからですわ。白昼に奈良周辺をこないな姿で通っていったんでは、怪しまれますから。

そこで、天皇を粗末な張輿(はりごし)に御乗せし、お供する院警護担当らにそれを担がせた。三種神器を足つきの大型食器に入れて蓋をし、景繁は人夫姿に変装してそれを背負った。寺社参りをする人の弁当箱を付き添いの者が背負っているかのように、見せかけたのである。

景繁 (内心)まぁ、それにしても、慣れへん事ばっかしやなぁ。あせりにあせるんやけど、なかなか先に進めへん。

その日の暮れ頃、ようやく内山(うちやま:奈良県・天理市)までたどりついた。

景繁 いやいや、まだまだ安心できしまへん。足利側の追跡の手が、ここまで伸びてくるかもしれませんからな、今夜のうちに何としてでも、吉野のあたりまで進んどかんと、どんなりまへん。陛下、もうひとふんばり、お願いいたします!

後醍醐天皇 よっしゃ!

ここから再び、天皇は馬上の人となった。

時は12月21日の夜、道は暗く、いったいどちらに進んで行けばよいのか、さっぱり分からない。

その時、にわかに光明(こうみょう)が!

景繁 おぉ、あれ、いったいなんや!

春日山(かすがやま:奈良市)の上から金峯山(きんぷさん:吉野町)の方角めざして、光り輝く飛行物体が進んでいくではないか。

後醍醐天皇 まるで、空に松明がともったようやなぁ。

景繁 助かった・・・これで、我らの進路、はっきり見えますわ!

その不思議な光は夜通し、天を輝かし、地を照らし続けた。そのおかげで、明け方に、一行はようやく大和の賀名生(あのう:奈良県・五條市)という所にたどりつけた。

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この賀名生という所は、人里遠く離れて人家も少なく、山深い所で、鳥の声さえもほとんど聞こえない。住民は、柴のようなものを囲って住居としており、食料はといえば、野から掘り取った山芋のみである。

このような地域なので、御座所とすべき適当な場所もなく、陛下の食事にふさわしいような物を得る事ができない。

景繁 (内心)こないな状態では、どうしょうもないわ。ここはやっぱし、吉野らへんの衆徒どもを説いて、こちらの味方に引き入れて、陛下を吉野へお移し申し上げるべきやろぉなぁ。

景繁はすぐに吉野へ赴き、吉水院(よしみずいん)住職の宗信法印(しゅうしんほういん)に援助を依頼した。

さっそく、宗信の主宰の下、吉野中の衆徒らが、蔵王堂(ざおうどう)に集まって会議を開いた。

衆徒A 古(いにしえ)の時代、天武天皇(てんむてんのう)が大友皇子(おおとものみこ)に襲われはった時に、ここ、吉野に逃げてきはったんやわなぁ。(注5)

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(訳者注5)壬申乱(じんしんのらん)の初期に。
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衆徒B そうやそうや。天武天皇は、ここで勢力を盛り返さはってな、それから間もなく、天下を平定しはったんや。

衆徒C その先例にならうならば、今、先帝陛下がここに来られるっちゅう事に対して、我らとしても異議は一切唱えるべきではないやろ。

衆徒D それにほれ、昨夜(ゆうべ)のあの不思議な光! あの光が陛下の前に、奈良からここ吉野への道すじを、明々と照らし出したんやないかいな!

衆徒E あの光明こそはまさしく、この蔵王堂の鎮守であらせられる蔵王権現(ざおうごんげん)、さらには、子守(こもり)神社の神様、勝手大明神(かってのだいみょうじん)様らが、三種神器を擁護(ようご)し、万乗の聖主(ばんじょうのせいしゅ:注6)を守護されているっちゅ事の、何よりの証(あかし)やないかい!

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(訳者注6)天皇のこと。
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衆徒F もはや一刻の猶予も許されん、早いとこ、陛下を、吉野にお迎えしよう!

というわけで、若手の衆徒ら300余人が全員甲冑を着して、賀名生まで、後醍醐天皇をお迎えに来た。

さらに、楠正行(くすのきまさつら)、和田次郎(わだじろう)、真木定観(まきじょうかん)、三輪西阿(みわせいあ)も、そこに馳せ参じてきた。

紀伊国(きいこく:和歌山県)からも、恩地(おんぢ)、牲河(にえかわ)、貴志(きし)、湯浅(ゆあさ)らが、500騎、300騎と続々、馳せ参じてきた。

参集してきた武士多数に輿の前後を囲まれながら、後醍醐天皇は、吉野へ移った。

後醍醐天皇周辺の人G 春雷(しゅんらい)ひとたび、天に轟(とどろき)きわたる時、

後醍醐天皇周辺の人H 土中に篭(こ)もりし虫も、蘇生(そせい)して蠢(うごめ)き出す。

後醍醐天皇周辺の人I あぁ、まさに、そないな気分やぁ!

後醍醐天皇周辺の人J 陛下の聖運、たちまちにして開け、

後醍醐天皇周辺の人K 天皇を助ける良き臣も、ここに既に出現。

後醍醐天皇周辺の人L ああ、ついに我らに、歓喜の時ぞ来たれり!

後醍醐天皇周辺の人全員 さぁ、やるで、やるでぇ! これからイッキに、巻き返しやぁ!

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(訳者注7)
訳者はかつて、上記中の[吉水院]に行ったことがある。そこは現在、[吉水神社]になっていた。

明治時代の神仏分離により神社になったのだが、元は、(蔵王堂のある)金峯山寺の僧坊だったようだ。

[吉水神社]には、吉野朝廷に関連の文化財や資料が豊富に残されており、多くのものが一般公開されていた。後醍醐天皇の玉座があったという部屋も見る事ができた。

ここは、源義経にもゆかりが深いようで、[義経潜居の間]という部屋もあった。

境内には、[弁慶の力釘]というものもあった。

境内に、「一目千本」と名づけられた、見晴らしの良い場所があった。

吉野は桜の名所で、「下千本」、「中千本」、「上千本」、「奥千本」の4つのエリアがある。
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