二条城に見る[権威と高度]

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2024.7.20 presented in [note] ( //note.com/runningWater/]

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  1. はじめに

[Power and Altitude] of [Woman X], 女の人・Xの[権威と高度]

あるいは、

[Power and Altitude] in Kojiki, 古事記に見る [権威と高度]

に見たように、

[Framework of Power and Altitude stage]は、

[ある個人、あるいは集団]が保持する[権威]
と、
[その他の人々、あるいは集団]が保持する[権威]
との差異
を、表現するために、
様々な局面において、活用されてきたようだ。

このような活用の場を、21世紀の現代においても、目で見て確認できる場所が、京都市内にある。[二条城]だ。

2017年に、私は、[二条城]へ行き、それを確認した。以下に、その詳細を述べたい。

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2 二条城

[二条城]の完成を見たのは、この城の公式サイト中の記述によれば、1603年である、という。

関ヶ原の戦いから、まだ、数年しか経過しておらず、豊臣家、そして、それに強い関係を持つ封建諸侯たち(戦国武将)の威力は、徳川幕府にとっては、まだまだ軽視できないような状態であったと、歴史研究者たちは、している。

当時の日本は、未だ、パクス・トクガワーナ(徳川の平和)からは遠い状態に、あったのだ。ゆえに、徳川幕府トップ・徳川家康は、豊臣家や他の封建諸侯たちに、対して、

徳川家が保持している[権威]の量
が、
他の封建諸侯たちが保持している[権威]の量
よりも、極めて大きい

と、いうことを、示す、必要に、迫られていた
と、考えられる。

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3 目に見える[高低差]

[二条城]の中に、[二の丸御殿]という建物がある。
この中に、[大広間]という場所がある。
[大広間]の中に、[一の間]と[二の間]がある。そして、[一の間]と[二の間]との間には、目で見て分かるような、[高低差]が設定されている。
その高低差は、私が見たところでは、約20センチメートルか。おおざっぱな目測なので、正確な数値は分からない。

下記に、それを図示する。

Fig 1

徳川将軍(General)は、高い方のスペースに座し、封建諸侯たち(Feudal Lords)は、低い方のスペースに座した、と思われる、下記にあるように。

聖徳記念絵画館 壁画紹介 大政奉還 作者 邨田丹陵

これを、[Framework of Power and Altitude stage]を使って図示するならば、下図のように、なるだろう。

Fig 2

[二の丸御殿]の中には、[黒書院]、[白書院」というエリアがあり、それらのいずれの方にも、上記と同様の、[高低差]が設定されている事を、私は、確認した。

[白書院」は、将軍のプライベート空間であった、という事のようなのだが、そのような場所にまでも、[権威]の量の違いを表現する(見せつける)ために、[高低差]が設定されている、ということに、私は、驚きを感じた。

私は思った、

 そこまでするのか、そこまでしなければならないのか

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4 別の意味を持つ[高低差]

私は、その時、確認した、

[勅使の間]にも、[上段]と[下段]との間に、上記と同様の、[高低差]が設定されている、ということを。

この室では、

勅使(天皇が派遣した使者)は、上段の方に
将軍は、下段の方に

座したのであろうと、私は、想像する。

なぜならば、当時、

[原則 権威量の差異 朝廷-幕府]
天皇が保持している[権威]の量
は、
徳川将軍が保持している[権威]の量
よりも、大きい

という状態に、あったので。

徳川将軍の[将軍]という呼称は、[征夷大将軍]を意味している。

京都から遠隔の地の、天皇の統治に従わない人々を、武力でもって、天皇の統治に、従わせしめるようにする、
そのために、遠征軍を送った。
その軍の指揮をとらせるために、[征夷大将軍]という役職が、創設された。

その後、源頼朝、足利尊氏、徳川家康らは、天皇から、その役職に任ぜられ、自らの権威の量を増大せしめるために、[征夷大将軍]の役職を、活用した。

徳川家康・以降の徳川将軍たち([征夷大将軍]に任命された人々)は、政治面での最高権力を保持し、天皇は、政治面での権力を持っていなかった。

しかし、徳川将軍は、その[征夷大将軍]の役職に、天皇より、任命されている(すなわち、遠征軍の指揮を、委託されている)

と、いう事で、

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[原則 権威量の差異 朝廷-幕府]
天皇が保持している[権威]の量
は、
徳川将軍が保持している[権威]の量
よりも、大きい
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と、いう状態に、あったのだ。

高御座(たかみくら)という、天皇の即位の儀式に用いられるものが、あるのだそうだ。京都御所に行けば、それを見ることが、できるようだ。

おそらく、これの床の高さは、
上述の
[二条城]-[二の丸御殿]-[大広間]
に設けられている、
[高低差]([一の間]と[二の間]との間の)

よりも、大きい値を持っていると、想像する。

これを、[Framework of Power and Altitude stage]を使って図示するならば、下図のように、なるだろう。

Fig 3

そうでなければ、

天皇(Emperor)よりも、将軍(General)が、高い所にいる

ということに、なってしまい、

[原則 権威量の差異 朝廷-幕府]

から、外れてしまうので。

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5 消滅した、段差の意義

1867年に、この場所、すなわち、
[二条城]-[二の丸御殿]-[大広間]
において、徳川幕府の最後の将軍が、大政奉還を発表したのだそうだ。

これまで、天皇から徳川将軍に対して、委託されていた、日本統治の権力を、天皇に、返還する

と、いう趣旨の事であったようだ。

まさに、この空間に設定されている段差の、上の側に座りながら、将軍は、この段差が無効になってしまう(段差の設定が、その意義を失ってしまう)ような決定を、発表した、という事になる。

そのように考えると、この段差は、日本の歴史に関して、深い意味を持っていると、私は感じる。

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