太平記 現代語訳 12-7 護良親王、流刑に処せられる

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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先般の国中に戦乱の機運が満ち満ちていた時、護良親王(もりよししんのう)は、わが身に降りかかる難を逃れるためにやむなく、還俗(げんぞく)した。

しかし、今はすでに、天下は落ち着きを取り戻した。ならば、また前のように、天台座主(てんだいざす:注1)に復帰し、仏法と王法(おうぼう:注2)のさらなる発展を祈られる、という方向こそが、仏の意志にも叶い、後醍醐天皇の叡慮(えいりょ)にも違わない道である。

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(訳者注1)比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)のトップの位。延暦寺は日本の天台宗の総本山だから、天台宗のトップということになる。

(訳者注2)天皇が行う国家治世。
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しかし、殿下は、「征夷大将軍(せいたいしょうぐん)に就任し、武の道をもって、国家守護の任務にあたりたい」と陛下にお願いされた。陛下は、心中不愉快に思われたものの、殿下の望み通りに、征夷大将軍の任命を行われた。

世間の声A そないないきさつがあって、将軍に就任しはったわけやろ、殿下は。それやったらやねぇ、国家の柱石として、ちょっとは身を慎み、将軍にふさわしいような言動しはらんと、あかんわなぁ。あれ、いったいなんですねん! 親王はん、最近おかしなってしもてはるんちゃいますかぁ。わがまま放題で驕りまくり、世間の人々の謗りもなんのその。

世間の声B おまけにねぇ、色欲に溺れる毎日。

世間の声C 殿下のあんなお姿見てると、うち、なんやごっつう、危機感感じてしまうんどす。

世間の声A それは、あんただけとちゃうで。世間の人もみんな、あんたと同じような事、言うてるわいな。

世間の声D 「大乱の後は弓矢を包み、盾と鉾を袋に入れてしまう」と言う言葉が、あるんやけどなぁ。

世間の声C 「あれは強弓が引ける男や、大太刀の使い手や」と聞いたら、これまで何の忠義もない人間でも、手厚く取り立て、自分の家来衆に加えてしまわはりまっしゃろ。いったい何に使うおつもりなんやろ、そないなお人らを。

世間の声E あんなぁ、(声を潜めて)殿下の周辺の、そういった、刀をもてあそびよる連中らがな、毎晩、京都や白河のあたりをぶらついては、辻切りしとるんや!

世間の声一同 えぇっ、ほんまかいなぁ!

世間の声E (小声で)しぃっ、声が大きい! 道で連中らに出くわしてもた少年・少女が、方々で切り倒されて、毎日のように横死する者がおるんやでぇ。

世間の声一同 (小声で)えぇーーー!

世間の声E (小声で)いったいなんで、殿下があないに熱心に、ウデノタツもん集めてはるか、その理由、あんたら分かるか?

世間の声C (小声で)もしかして・・・アシカガ?

世間の声E (小声で)そうや! 何とかして、足利高氏(あしかがたかうじ)殿を討ったろ思うてはんねやんか、殿下は。

世間の声B あぁ、それで、殿下はあないに、人をぎょうさん集めては、毎日訓練してはるんかいなぁ。

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足利高氏は、これまで十分に朝廷に忠節を尽してきた人である。分不相応の振る舞いがあったとも聞かないのだが、いったいぜんたい、何故こうまでも、護良親王が高氏に対して、深い憤りを持たれるようになったのか。それには、以下のようなわけがある。

昨年の5月、倒幕軍が六波羅庁を攻め落とした時に、殿法印良忠(とののほういんりょうちゅう)の配下の者らが、京都中の資産家の家に押し入り、財宝等を掠奪した。その狼藉(ろうぜき)を鎮めるために、足利軍は彼らを捕縛し、20余人を六条河原にさらし首にした。その側に立てられた高札には、以下のように書かれていた。

 「護良親王殿下の侍者・殿法印良忠の配下のこれらの者ども、都の諸処において、白昼に強盗行為を行った。ゆえにここに、誅罰を下す。」

これを聞いた良忠は、頭に来てしまった。さっそく、あれやこれやと考えて、足利高氏に対する讒言(ざんげん)を、護良親王の耳に吹き込み始めた。

このような事が重なって、ついに殿下の耳に高氏非難の声が達し、殿下も、高氏に対して憤りの心を持たれるようになった。そこで、志貴山(しぎさん)に駐屯しておられた頃から、「何とかして高氏を討たねば」との思いがつのっていた。しかし、後醍醐天皇の許しが得られなかったので、仕方なく、殿下も沈黙を守っておられた。

しかしなおも、高氏に対する讒言が止まなかったのであろうか、ついに殿下は隠密裏に諸国へ、「高氏討伐命令」を出され、兵を募集しはじめた。

これを察知した高氏は極秘裏に、護良親王にとっては継母に当たる廉子(れんし)妃のもとを訪れた。

足利高氏 護良親王殿下は、陛下を廃位へ追い込み、自らが天皇に即位しようと計画、諸国から兵を招集しておられますよ。これが何よりの証拠です、ご覧下さい、この命令書を。

廉子 (「命令書」を見て)(内心)あらまぁ! なんちゅう恐ろしい事を考えてはるんやろ、殿下は! これは早々に、陛下のお目に入れとかんと。

これを見た後醍醐天皇の怒りは、頂点に達した。

後醍醐天皇 ほんまにもぉ、ナンチュウやっちゃ、あいつはぁ! よおし、護良、流罪!

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天皇は、清涼殿(せいりょうでん)での会合を開催することとし、そこへ護良親王を招待。そのような大変な事態に至っていることなど何も知らずに、殿下は、先駆けの者2人、随身の者10余人を引き連れて、お忍びで宮中に参内された。

鈴の間に迎え入れられた親王の前に、結城親光(ゆうきちかみつ)と名和長年(なわながとし)が現われた。

護良親王 おぉ、結城に名和やないか・・・こないなとこで、いったい何してんねん。

結城親光 殿下、御免!

名和長年 それっ、皆の者、殿下を召しとれ!

結城と名和の部下たち おおおおーっ(ドドドドド)

護良親王 こらっ、おまえら、いったい何すんねん! 無礼者め、ううう・・・こらっ、放せ! その手を放せ!

名和長年 よぉし、殿下をそのまま、馬場殿に押し込め奉れ!

護良親王 名和! 結城! いったい何すんねん! タダではすまんぞ!

このようにして殿下は、材木を蜘蛛手(くもで)に組み合わせて封鎖された室内に閉じ込められてしまった。身辺に近づく者は一人もおらず、ただ一人、涙の床に起き伏しの日々を送ることとなった。

護良親王 (内心)いったいぜんたい、これは何という事か・・・元弘年間の始めには、北条勢に追われて身を隠し、木の下、岩の間(はざま)に、露に濡れた袖を枕に眠った。やっと京都へ帰ってこれて、さぁこれからいよいよ、我が人生も開けるぞ、と思う間もなく、あっという間に、今度は、私を誹謗中傷する人間の為に罪に陥れられ、このような刑罰に苦しむ境遇に。いったい何の前世の因果でもって、自分の人生はこないな風になってしまうんやろ。

護良親王 (内心)そやけど、「偽りの名目は久しく立たず」という言葉もあるからな、そのうち陛下もきっと、私が無実の罪を着せられた事を、分かってくれはるやろう。

ところが、朝廷では既に、「護良親王、遠流」の決定をされたというではないか。殿下は悲しみに耐ええず、内々に心を寄せていた女官に、詳細な弁明を綴った書面を託し、急ぎ、伝奏(てんそう:注3)へ届させた。その書面の内容は以下の通り。

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(訳者注3)天皇への申請を、天皇に取り次ぐ役職。
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 「陛下よりお咎めを頂いたこの身を以って、わが無罪を弁明しようとは思うのですが、涙が落ちて心は暗く、心中には憂いが結び、言葉が滑らかには出てきません。一事を以って万事を察し、言葉の足らない部分を補って、私を哀れ悲しんで下さいましたなら、私のこの願いも達せられたというものでしょう」。

 「かえりみますれば、承久の乱よりこの方、武家が政権の座に就き、朝廷が政治の主導権を明け渡さざるをえなくなってから、既に久しい年月が経過しております。いやしくも私、護良はその現状を見るにしのびず、慈悲忍辱(じひにんにく)の僧衣を脱ぎ捨て、怨敵降伏(おんてきごうぶく)の堅き甲冑に、わが身を包んだのでありました」。

 「内においては破戒の罪を恐れ、外からは無慙(むざん)の謗(そし)りを受けながらも、ただひたすら陛下の為に、わが身の事を忘れ、敵と闘う為に死の危険をも顧みずに、粉骨砕身(ふんこつさいしん)して参りました。」
 
 「あの時、朝廷の中の数多い忠臣や孝子たちも、無力感に陥ったり、ひたすら運命の好転をただ待つ、といったようなフガイナイ状態の者ばかり。そのような中にあって、たった一人、この私だけが、寸鉄の軍備も持たないままに、義兵を募り、険隘(けんあい)なる山中に身を隠し、敵軍打倒の機会を窺(うかが)い続けたのでした。それ故に、朝廷の敵達は、専ら私を、倒幕運動の首謀者と見做(みな)し、全国に布令を発して、私の身柄に膨大な懸賞を懸けたのでした。」

 「それ以来、まことに、運命は天が定めるままとはいうものの、いかんせん、我が身の置き所も無くなってしまいました。昼は終日、深山幽谷(しんざんゆうこく)に臥(ふ)し、石や岩の苔の上に寝を取る。夜を徹して、荒村遠里(こうそんえんり)に出かけては、足の裏に霜を踏み。龍のひげを撫でるような危地に陥って、魂も消えんばかり、虎の尾を踏むような危険に直面しては、胸を冷やすといったようなこと、いったい幾千万回ありましたでしょうか」。

 「しかしついに、策を帷幕(いばく)の中にめぐらし、敵を斧鉞(ふえつ)の下に滅ぼすことが出来ました。かくして、天子の御車は都に帰還し、陛下はめでたく帝位に復帰されたのでした。それもこれもすべて、おそらくは、私めの忠功あってこその事、いったい他の誰の手柄でありましょうか! しかるに、功いまだ立たずというのに、罪責はたちまちに来(きた)る」。

 「風聞に聞きますところの私の罪状のうち、どれ一つとして、私には身に覚えがありません。このような虚偽が、いったい何処から発せられたものなのか、それをよくよく究明して下さってないのが、まことに残念の限りです。」
 
 「空を仰いで天に向かって、わが身の潔白を訴えようとしても、日月は不孝の者を照らしてはくれず、地につっぷしてわが身の不幸を、大地に対して慟哭(どうこく)しようにも、山も川も無礼の臣の居場所を提供してはくれません。父からは親子の縁を切られ、天と地からも棄てられ・・・これ以上の悲しみが、ありましょうか!」。

 「今後、いったい誰の為に、わが身を尽せばよいというのでしょうか。もうこうなったら、自分の栄誉などどうでもよい、陛下の御命によって、死罪一等を減じ、皇族の籍から名前を削って抹消していただき、私を、仏門に復帰させてくださいませ。」

 「陛下は、中国のあの歴史をご存じでしょう、申生(しんせい)が死して後、晋(しん)国は乱れ、扶蘇(ふそ)が刑罰を受けてからは、秦(しん)の治世は傾きました。水がじわじわと浸透していくように、あるいは、何度も膚にちょっと触れるような感じでもって、徐々に人を陥れていく讒言(ざんげん)、それは、まことに恐ろしきものであります。最初は小さな事のように見えても、やがては大きな禍になっていくのです。いったい何ゆえ、往古の例を鑑みて、現今にあてはめて考えてみようと、なさらないのでしょう。」

 「以上のように、どうしても嘆願せずにはおれません、伏してお願いいたします、どうかこの手紙を陛下にお伝え下さい。心より謹んで申し上げます。」

 3月5日 護良

 前左大臣殿
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もしも、この手紙が後醍醐天皇の元に届いていたならば、赦免の沙汰も出たのであろうに・・・伝奏は、様々な方面からの憤りを恐れ、天皇にこれを伝えずじまい。運命を司る天帝は、護良親王と後醍醐天皇の間を隔て、殿下の心よりの訴えはついに、陛下のお耳に達しないままに、終わってしまった。

この2、3年の間、殿下に付き従い、忠節を尽しながら賞を待っていた人々のうち30余人も、隠密裏に処刑されてしまった。ここまで事態が進行してしまうと、もう何を言ってもどうしようもない。ついに5月3日、殿下の身柄は、足利直義(あしかがただよし)に引き渡された。

護良親王は、数100騎によって関東へ護送され、鎌倉へ到着するやいなや、二階堂谷(にかいどうやつ)にある土牢の中に、幽閉されてしまった。

南の御方(みなみのおかた)という高位の女官一人以外、お側に仕える者もなく、月日の光も見えない闇室の中に、ただ座し続ける護良親王。

土牢の外を行く雨に袖を濡らし、岩の上をしたたる地下水に枕も乾かず、それから半年ばかりを、そこで過ごされた殿下の心中、まことに悲哀に満ちている。

天皇は一時的な怒りでもって、「護良を鎌倉へ」と言われたのであり、殿下に対してここまでひどい扱いをさせる事など、考えてもおられなかった。しかし、足利直義は、かねてからの恨みゆえに、このように、殿下を牢に閉じ込めたのである。まったくもって、ひどい話ではないか!

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孝行息子が父に誠を尽しても、継母がその子を讒(ざん)する時には、国家が傾き、家が滅びる、といった事例は、古から実に多い。

昔、中国に、晋(しん)の献公(けんこう)という人がいた。その后・齊姜(せいきょう )は、3人の子供を産んだ。長男の名は申生(しんせい)、次男は重耳(ちょうじ)、三男は夷吾(いご)。

この三人の成人の後、彼らの母は病に侵され、亡くなってしまった。献公は大いに歎いたが、后との別離から日数もようやく重なり、移れば替る心の花に昔の契りを忘れ、驪姫(りき)という美女を妻に迎えた。

驪姫は、美しい容貌で公の眼を迷わすのみならず、巧言令色をもって彼の心を喜ばしたので、献公の彼女への寵愛甚だしく、いつしか、齊姜の面影を夢にも見ないようになってしまった。

このようにして年月は過ぎ、やがて、驪姫に子供が生まれた。これを、奚齊(けいさい)と名づけた。

奚齊は未だ幼しとはいえ、その母・驪姫へ寄せる寵愛故に、献公は、3人の息子よりも奚齊の方を可愛く思うようになっていった。そして、献公は、前の后・齊姜との間に生れた3人の息子を捨て、驪姫の腹より生れた奚齊に、晋国の公位を譲ろうと思うようになった。

驪姫は、内心ではこれを嬉しく思いながらも、表面を取り繕って、しばしば公に対して諫言をした。

驪姫 奚齊はまだ幼いですから、善悪もわきまえてはおりませぬ。賢いのやら、愚かなのやら、それも未だに、しかと分かりませぬ。かような状態の中に、3人の兄をさしおいて公位を継承させるなど・・・さような御決定、国中の人が、黙って見てはおりませぬわよ。

これを聞いて、献公は、

献公 (内心)あっぱれなり、驪姫! 私心は皆無、民の謗りをわが恥とし、国家の安泰をひたすら願うとは!

献公は、驪姫をすっかり信頼し、万事を彼女に任せるようになった。いきおい、彼女の勢威は重きを増し、国中が彼女に従うようになってしまった。

ある時、申生は、亡くなった母の菩提(ぼだい)を弔(とむら)うために、牛・羊・豚3種の贄(にえ)を整え、亡くなった齊姜が埋葬されている曲沃(きょくよく)の墳墓(ふんぼ)を祭った。そして、その供え物の余りを、父の献公の方へも届けさせた。

献公のもとにそれが届けられた時、公は狩りに出ている最中であったので、とりあえず、その肉を包んで置いておこう、ということになった。

それに目をつけた驪姫は、なんとその肉の中に、鴆(ちん)という、おそろしい毒薬を仕込んだ。

狩り場から帰ってきた献公が、この肉を食べようとしたとき、驪姫は、

驪姫 かような外部からの贈り物は、先ずは他の者に食させてみて後に、君主の卓上に供するのが、順番というもの。

そこで、御前にひかえていた人間にそれを食させたところ、たちまち血を吐いて死んでしまった。

献公 ヤヤヤ、これはいったい・・・よし、そこなる鶏や犬に、その肉を食させてみよ!

鶏も犬も、共にバタバタと倒れて死んでしまった。

献公 恐るべし! 速やかにそれを、土の上に捨てよ!

捨てた所の土には穴が開き、周囲の草木が皆、枯れしぼんでしまった。

ここぞとばかりに、驪姫は、偽りの涙を流しながら訴える。

驪姫 わらわは、申生殿を、奚齊に劣らず大事なお方と、思い来たりてございまする。さればこそ、公の、「位を奚齊に」とのありがたきお言葉にも、「それはなりませぬ」と、お諌め申し上げてまいりました。なのに、このような毒を盛って、わらわと公を殺害し、速やかに晋国の公位を得んと、企てられたとは! あぁ、何と悲しき事!(涙、涙)

献公 ・・・。

驪姫 あぁ、もはやわが人生、行く先には暗闇しか見えませぬ。かくしては、万一、公がこの世を去られて後、申生殿は、わらわと奚齊を、1日、いえ、1時間たりとも、生かしておかれぬでありましょうぞ。公よ、願わくば、わらわを捨てて奚齊を殺し、申生殿のお心を、休んじせしめたまえ。(涙、涙)

献公は元来、智浅く、人の讒言を信じやすい性格の人、大いに怒り、

献公 えぇいっ 申生め! 刑務担当官、これへ!

刑務担当官 ハハァッ。

献公 速やかに、申生のもとへ行き、あやつの首をここに持ってこい!

刑務担当官 エェッ、何と!

現場に居合わせた群臣たちは、大いに慌て、集まってヒソヒソ。

臣下A これは一大事じゃ!

臣下B 申生殿は無実じゃ! 殿下が父に毒を盛るなど・・・さような事をされるはずが無い!

臣下C 何故、殿下のような素晴らしきお方が、かような事で命を失わなければならぬのじゃ! あぁ、わが心中に込み上ぐるこの悲しみを、いかんせん!

臣下D 拙者が殿下のもとに行き、急をお知らせ申し上げようぞ!

臣下はさっそく、申生のもとへと急いだ。

臣下D ・・・かくなる経緯でござりまする。殿下、急ぎ、他国へ逃げられませ!

一部始終を聞いた申生は、

申生 私は、少年の時に母を失って後、長い年月を経た今まさに、あの継母に出会った。どうやら我が人生、不幸の上にさらに妖しき運命が、陰を宿しておるように。思えてならぬわ・・・。

臣下D ・・・。

申生 「逃げよ」と申すか。いったいどこへ? 天と地との間(あわい)のいったいいずこに、「父と子の関係」の存在せぬ国家があるというのか。

申生 今、我が目前に迫りし死を逃れんがため、他国へ逃亡したとて、いったいどうなるというのじゃ・・・「彼こそは、父殺しの申生なり、鴆毒を父に盛りし、大逆不孝の人物なり」と、行き会う人は悉く、この私を、憎悪をもって見つめるであろう。かような情けない人生を生き長らえたとて、果たしていかなる面目ありや?

申生 天は、私の無実を知りたもう。虚構により仕組まれた罪状の下に死を賜り、我が父の怒りを休せしめる事こそ、最良の道であろう。

申生は、討手の到着する前に、自ら剣に貫かれて死んでいった。

その弟、重耳と夷吾はこれを聞き、驪姫の讒言が自分の身の上にも及んでくることを恐れ、二人とも、他国へ逃亡した。

かくして、奚齊に晋国の公位が譲られたのであったが、天命に背いた行為ゆえに、それから間もなく、献公と奚齊は父子共に、臣下の里剋(りこく)という者に討たれ、晋国はたちまちに滅びてしまった。(注4)

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(訳者注4)この後、重耳は、諸国放浪の苦労の末、晋国へ帰還して公位に就き、[晋の文公]となる。
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世間の声A そもそもやねぇ、こないだまでのあの戦乱が、あっという間に収まってしもぉて、先の帝が天皇位に復帰できはったんも、ひとえに、護良親王殿下の功績あってのもんやんかぁ。

世間の声B そうだよ、そうだよぉ。

世間の声A だとしたらやねぇ、たとえ殿下に小さな過失があったとしてもやでぇ、きっちりと戒告しはった上で、殿下をお許しになられるべきでは、なかったんかなぁ。

世間の声C うちも、そない思います。そやのにあんな風に、後先の事もなぁんも考えんとからに、殿下を、敵対してる足利家に渡してしまわはって、おまけに、流刑やなんてなぁ。

世間の声D 今回のこの一件、わしにはどうも、朝廷が再び傾いて、武家の力がまた盛んになってくる前兆と、思われてならんがね。

世間の声E そう言われてみたら、そうかもねぇ。

世間の声C ほんになぁ。

「前兆」との言葉は、当たっていたようだ。

護良親王が亡くなられてから後、たちまち、天下はすべて、「将軍」のものになってしまった。

古賢いわく、

 「夜明けに、雄鶏よりも雌鶏の方が先に鶏鳴を上げるようになったら、それは家運が尽きている相である」

その言葉は、大いに当たっているようだ。(注5)

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(訳者注5)原文では、「牝鶏晨するは家の盡る相なりと、古賢の云し言の末、げにもと思い知被(しられ)たり」。

これはおそらく、「妻が夫よりも主導権を持っているのは、良くない」というような意味であろう。太平記が書かれた時代には、そのように考える人が存在していたのかもしれないが、現代の日本において、そのように考える人が、全人口のどれくらいの割合を占めているのか、そのような事を知る手がかかりとなるようなデータの存在を訳者は知らないので、訳者としては、何とも言いようがない。
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