太平記 現代語訳 14-4 箱根・竹下の戦い

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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12月11日、足利軍サイドは軍を二手に分け、足利直義(あしかがただよし)は箱根路(はこねじ:箱根山中を通る道)ラインを防衛し、足利尊氏(あしかがたかうじ)は竹下(たけのした:静岡県・駿東郡・小山町)へ向かう事になった。

先日からの度重なる敗戦を経験してきた者らは、未だにその士気を回復できておらず、なかなか意気も上がらない。最近になって足利サイドに加わってきた者らは、大将よりの指示を待ちながらも、足利側に一蓮托生の覚悟を未だに固めきれていない。

そんな状態の所に、「新田軍はすでに伊豆国府(静岡県・三島市)を出立、今夜にも、野七里山七里(のくれやまくれ)を超えてくる模様。」との情報が伝えられた。

これを聞いた、斯波高経(しばたかつね)、その弟・斯波時家(しばときいえ)、三浦貞連(みうらさだつら)、土岐頼遠(ときよりとお)、その弟・土岐道謙(ときどうけん)、佐々木道誉(ささきどうよ)、赤松貞範(あかまつさだのり)は、

足利サイド・メンバーA 鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)に籠もって、お互いじぃっと、面つきあわせてたって、どうしようもねぇじゃねぇの。

足利サイド・メンバーB だよなぁ! もう他の連中なんかほっといてさ、とにかく、竹下へ行こうやぁ!

足利サイド・メンバーC でもな、後陣の軍勢がそこへ到着する前に、敵がやってきたら、どうする?

足利サイド・メンバーD 一戦やらかして、討死にするだけのこと!

足利サイド・メンバー一同 よぉし!

というわけで、彼らは、11日の宵のうちから、竹下へ向かった。

足利サイド・メンバーC あの場ではね、たしかに、ここへの出動には賛同したよ、おれは。でもなぁ・・・おれらの軍勢、たったこれだけぇ?

足利サイド・メンバーA なんだかサビシイなぁ。

足利サイド・メンバーB でもさぁ、おれらはみんな、義に生きる勇士ばかりだろ? 人数が多けりゃぁいい、少なければよくねぇってな、そんな単純なモンでも、ねぇだろうが。

足利サイド・メンバーD そうだよ、そうだよ! みながヤル気無くしちゃうような事、言うなってぇ!

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竹下へ着き、敵陣を遥かに見渡してみれば、西は伊豆国府あたりから東は野七里山七里まで、新田軍サイドのかがり火が充満しており、その数、幾千万という状態である。

足利サイド・メンバーE 晴天の星の影、蒼海(そうかい)に移る如くなりって感じかねぇ。

足利サイド・メンバーB こっちも負けずに、かがり火たこうや!

ということで、雪の下の草を刈り、それを方々に集めて、火をつけた。

足利サイド・メンバーE おぉ、ついた、ついた。夏山の茂みの下に夜を明かす、照射(ともし)の影のごとしってとこだねぇ。(注1)

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(訳者注1)夏の夜、鹿をおびき寄せるために猟師が山中の木陰に置いた火。
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彼らの武運が強かったのであろうか、その夜は、新田軍サイドから彼らに対して、攻撃を仕掛けてはこなかった。

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夜もすでに明けなんとする頃、足利尊氏は鎌倉を出発、仁木(にっき)、細川(ほそかわ)、高(こう)、上杉(うえすぎ)を主要メンバーとする軍勢18万騎は、竹下へ到着。

足利直義率いる軍勢6万余騎も、箱根峠へ到着した。

12日午前8時、新田軍サイドも伊豆国府にて軍を分け、竹下へは、からめ手方面軍7,000余騎が向かう。尊良親王(たかよししんのう)を大将に公卿ら16人、副将は、脇屋義助(わきやよしすけ)、細屋右馬助(ほそやうまのすけ)、堤宮内卿律師(つつみくないきょうりっし)、大友貞載(おおともさだとし)、塩冶高貞(えんやたかさだ)。

箱根路へは、大手方面軍が向かう。新田義貞と新田一族主要メンバー20余人、千葉(ちば)、宇都宮(うつのみや)、大友氏泰(おおともうじやす)、菊池武重(きくちたけしげ)、松浦党(まつらとう)はじめ、諸国の有力武士30余人が、7万余騎の軍勢を率いている。

同日正午、戦闘開始。大手、からめ手、新田側、足利側、互いにトキの声を上げ、山川(さんせん)を傾け天地を動かし、おめきさけびながら戦う。

新田軍・大手・箱根路方面軍の先鋒・菊池武重は、足利軍3,000余騎を峰の遥か上まで追い上げ、坂の途中に盾を突き並べて、しばしの休息を取っていた。これを見た、千葉(ちば)、宇都宮(うつのみや)、河越(かわごえ)、高山(たかやま)、愛曽(あいそ)、熱田摂津大宮司(あつたのせっつのだいぐうじ)の軍は、それぞれ陣をかためながら、エイ、エイとかけ声も高らかに、峰の上の足利軍に向かって一斉に攻め登り、おめき叫んで戦った。

中でもひときわ目を引いたのが、道場坊祐覚(どうじょうぼうゆうかく)とその坊の児(ちご)10人、同宿の僧兵ら30余人であった。紅色の鎧を着込み、児たちは紅梅の造花を一枝ずつ兜の正面に差している。

彼らは盾の列から前へ出て、最前線へ進んでいく。

それを見た武蔵・相模の荒武者たちは、「子供でもかまわん、射ろ、射ろ!」と、矢の連続射撃を浴びせる。

たちまち、正面を進んでいた児8人がその矢に射倒され、笹の上に倒れた。これを見た武蔵七党の者たちが、彼らの首を取ろうと、陣を抜け出て斜面を一目散にかけ下りてきた。

児を討たれてしまった道場坊同宿の者らが、これを黙って見ているはずがない、30余人は、太刀、長刀の切っ先を並べ、負傷者の上を飛び越え飛び越え、足利陣めがけてつき進んでいく。

道場坊祐覚 えぇい、おまえら、坂本流の袈裟(けさ)がけで切ったるからなぁ(注2)、ちゃんと成仏せぇよぉ!

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(訳者注2) 肩から斜め方向に切る切り方。
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追いつめ追いつめ、切ってまわる彼らに、足利軍サイドの武士は散々に切り立てられ、北の峯へさっと退いて、しばし息を休めた。そのすきに、祐覚の同宿の者たちは各々、負傷者を肩にかついで、麓の陣へ下って行った。

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新田義貞の下に、党を結成している精鋭の射手16人がいた(注3)。すなわち、

 杉原下総守(すぎはらしもふさのかみ)
 高田義遠(たかだよしとお)
 葦堀七郎(あしほりしちろう)
 藤田六郎左衛門(ふじたろくろうざえもん)
 川波新左衛門(かわなみしんざえもん)
 藤田三郎左衛門(ふじたさぶろうざえもん)
 藤田四郎左衛門(ふじたしろうざえもん)
 栗生左衛門(くりふさえもん)
 篠塚伊賀守(しのづかいがのかみ)
 難波備前守(なんばびぜんのかみ)
 河越三河守(かわごえみかわのかみ)
 長浜六郎左衛門(ながはまろくろうざえもん)
 高山遠江守(たかやまとおとおみのかみ)
 園田四郎左衛門(そのだしろうざえもん)
 青木五郎左衛門(あおきごろうざえもん)
 青木七郎左衛門(あおきしちろうざえもん)
 山上六郎左衛門(やまがみろくろうざえもん)

彼らは、世間の人々から、「16騎党」(注3)と呼ばれており、全員、同じ笠標を着けて、進む時は一斉に進み、退く時にも共に退く。

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(訳者注3) 上記に名前があがっている人の数をカウントしてみると、17人になるのだが、ここには「16人」、「16騎党」と記されている。太平記作者のミスであろう。
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彼らが射る矢に対しては、盾も鎧も役にたたない。彼らが向かっていく先の足利サイドの陣においては、兵力が急激に減少していく。

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新田家の執事(しつじ)・舟田義昌(ふなだよしまさ)は、新田軍サイドの方々へ走りまわって将兵の気をひきしめ、大将・新田義貞は、一段と高い所にひかえて、武士たちの奮戦をじっと見つめている。

名を重んじ、命を軽んずる、千葉、宇都宮、菊池、松浦の者たちの、勇を振るって前進していくその勢いに、足利軍サイドは、馬の足も立ちかねるような状態に追い込まれていき、退く者は数えきれないほどである。

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一方、新田軍・からめ手方面軍の、尊良親王と公卿たち、公卿諸家に仕える侍、院守護の者らの軍500余騎は、できもしないのに、武士たちよりも先に手柄を立てようと思ったのであろうか、錦の御旗を先頭に押し立て、竹下へ押し寄せていった。

足利軍を目の前にして、相手サイドからまだ一本の矢も射られていないのに、

親王軍メンバーF 一天の君(注4)に逆らぉて、弓を引き、矢を放つような不届きもん(者)には、天罰、下んねんどぉ!

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(訳者注4)天皇。
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親王軍メンバー一同 命惜しかったらなぁ、さっさと兜脱いで、降参して出てこんかぁい!

これを見た、斯波高経、斯波時家、土岐頼遠、土岐道謙、三浦貞連、佐々木道誉、赤松貞範ら、宵方からそこに陣取っていた例のメンバーたちは、

足利サイド・メンバーA 馬の使い方、旗の紋から見るに、あれは、お公家集団とその家来たちだなぁ。

足利サイド・メンバーB あんなやつらに遠矢を射てちゃぁ、矢の無駄使いってもんだわ。

足利サイド・メンバーC 刀抜いて、イッキに攻め懸かってくのが、いいんじゃねぇのぉ?

足利サイド・メンバー一同 よぉし、そのセンで行こう!

足利サイド300余騎は、馬を並べて突撃体制を整えた。

足利サイド・メンバーA おぉい、そこのぉ、都の方々、よく聞けよぉ! 武士の家に生れた人間ってぇもんはなぁ、名誉は惜しむけど、命は惜しまねんだぁ! おれの言ってる事がウソか本当か、試して見るかい? 今からちょっくら、相手になってやらぁ!

足利サイド・メンバーB エーイ! エーイ!

足利サイド・メンバー一同 オォォーーウ!

一斉にトキの声を上げた足利サイドメンバーたちは、おめき叫びながら、親王軍に襲い懸かって行った。

高所からのその攻撃を山麓で受ける形勢になってしまった親王軍は、ひとたまりもなく、ただの一戦もせずに、馬に鞭をくれて一斉に退却。これを見た、土岐頼遠、佐々木道誉は、最前線に進んで、やんやとはやしたてる。

佐々木道誉 まったくもう、口ほどにもないヤツラだな。

土岐頼遠 おまえら、ヒキョウだでぇ! 逃げないで、かかって来んかね!

足利側の猛追に、逃げ遅れた者500余人ほどが捕虜になったり討ち取られたりで、親王軍は残り少なくなってしまった。

この方面での最初の戦をしくじり、崩れてしまった親王軍のこの様を見て、仁木、細川、高、上杉の者らも勇みたって突進。

退く一方の態勢になってしまい、まともに戦えない状態になってしまった親王軍の様を見て、脇屋義助は、

脇屋義助 ブザマな戦しやがって、あの腰抜けどもがぁ! 先に行ったあいつらのせいで、全軍おかしくなっちまった、もうアタマにくらぁ! ここでフンバッテ戦わなきゃぁ、どうしようもねぇぞ!

義助は、7,000余騎を集団にまとめ、馬の頭が雁行線形になるように全員を配置した。

脇屋軍は、旗の先を龍が天に昇るようにひるがえし、足利軍に対して、横方向から攻めかかっていった。

しかし、勝ち誇った足利軍がこれにひるむはずがない、十字形にぶつかりあって、八の字形に破る。大中黒紋(おおなかぐろもん:注5)と二引両紋(ふたつびきりょうもん:注5)の二種類の旗が入れ替わり立ち代わり、東西に靡き南北に分かれ、両軍全員相手に後ろを見せずに、ただこの一戦に自らの生死を賭して戦いあう。

新田サイド、足利サイドともに、世間にその名を知られたツワモノぞろいの集団、戦場から逃げ出す者は一人もいない。互いに討ちつ討たれつ、馬の蹄を浸す血は混々(こんこん)として大河が流れるごとく、地上に死骸が累々と重なっていくその様は、あたかも屠殺場の肉塊のごとし、もう「無残」などというような言葉では、到底表現できるものではない。

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(訳者注5)[大中黒紋]は新田家の紋であり、[二引両紋]は足利家の紋である。
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この戦場に、一人の少年が参加していた。脇屋義治(わきやよしはる)当年13歳、脇屋義助の息子である。

新田・足利両軍が引き分かれた時に、どうしたわけか、義治は、郎等3騎とともに、足利軍サイドの陣内に取り残されてしまった。

年少ながらも頭の回転が速い少年であった義治は、すぐに、自らの笠標(かさじるし)を引ききって投げ捨て、髪をふり乱して顔に振り掛け、

脇屋義治 (内心)なんとかして、おれの事、敵に気づかれないようにしなきゃ!

義助は、そんな事になっているとも知らずに、

脇屋義助 ヤヤ、義治いねぇじゃねぇか! やられてしまったか、それとも、生け捕りになっちまったか・・・。

脇屋義助の部下たち たいへんだぁ!

脇屋義助 (内心)義治が生きてるのか、死んでるのか、それも分からんまま、命長らえても、しょうがねぇ! 勇士が戦場に命を捨てるのは、ただもう、自分の子孫の繁栄を願うからなんだ。

脇屋義助 (内心)まだ年少でも、一時も自分の側から離したくなかったから、ここまでいっしょに連れて来たんだ。義治がどうなったか分かんねぇまんまでは、どうしようもねぇ!

義助は、鎧の袖で涙を拭い、息子の姿を求めてただ一騎、足利サイドの大軍の中に突っ込んでいく。

義助の部下G 父親の我が子に向ける思い、今に始まった事ではないけど。

義助の部下H よくよくわかる、殿のあのお気持ち。

義助の部下I おれは、殿のお伴するぞ!

義助の部下全員 おれも! おれも!

義助の部下300余騎は、主を敵に討たせじと、馬を並べて一斉に、足利陣内に突入。

脇屋義助主従の2回の敵陣突入に、さしもの足利の大軍も戦い疲れて、一斉にバァッと退いた。これに勢いづいた義助は、なおも追撃を続けていく。

やがて、足利陣に取り残されていた義治の視野に、父の雄々しい姿が飛び込んできた。

新田義治 (内心)あっ、あそこに父上が!

義治ら主従4騎は、馬の首を転じて、義助らの集団に合流しようと、進んでいった。

足利軍サイドに所属の片引両の紋を付けた、どこの家の者かは分からぬ武士二人がそれを見て、

武士J おぉ、あれは!

武士K たったあれだけのメンバーで、返し合わせて脇屋と戦うつもりなんだ。

武士J 敵に後ろを見せずに、なおも戦いを挑むとは、なんと立派な。

武士K あんたらにお伴して、ともに討死にだ!

彼らは、義治たちに続いて、脇屋軍の方へ馬を駆った。

義治は、脇屋軍中へツッと懸け入りざまに、郎等にキッと目配せをした。郎等らはすぐに一団となり、後に続くその二人を切って落とし、その首を取って高々と掲げた。

これを見た義助は、死んでしまった人が蘇生したかのような喜びこみあげ、勇気百倍。

脇屋義助 義治も無事だったしな、しばらく休むとしようか。

脇屋軍は、元いた位置へ引き返して行った。

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新田軍・からめ手方面軍の前線において、疲労の色が濃くなってきた。

脇屋義助 よぉし、新手の軍勢を、前線に進めて、交代させろ。

その時、後陣に控えていた、大友貞載(おおともさだとし)と塩冶高貞(えんやたかさだ)の両軍1,000余騎が、いったい何を思ったのであろうか、一矢射た後に旗を巻いて、足利軍サイドに転じ、新田軍に対して、矢の雨を降らせはじめた。

尊良親王の軍は、緒戦でその多くが討たれてしまっており、もはや戦闘能力は無し。脇屋義助の軍も、二度もの足利陣中への突入により、人馬共に疲れ、兵力も消耗してしまっている。

これまで後陣に控えていたが、いよいよこれから一戦してくれるであろう、と期待された、大友と塩冶は、あっという間に足利サイドに寝返ってしまい、親王軍に向かって弓を引き、脇屋軍めがけて迫ってくる。

このような状態になってしまっては、義助の豪勇をもってしても、戦局を打開しがたくなってきた。

脇屋義助 えーい、しょうがねぇ、敵に背後に回り込まれねぇうちに、大手方面の兄キに合流しよう。

親王軍と脇屋軍は、佐野原(さのはら:静岡県・裾野市)へ向けて、退却を始めた。

仁木、細川、今川、荒川、高、上杉他、武蔵・相模の武士たち3万余騎が、これを追撃。

途中、尊良親王が頼りにしていた二条為冬(にじょうためふゆ)が討たれてしまい、それから後、親王を守るために、何度も反撃を試みる脇屋軍ではあったが、退却する中に徐々に消耗、300余騎が戦死。

後ろを振り返る事もなく、退却に退却を重ねる、新田軍・からめ手方面軍300余騎は、我先にと逃走。彼らは、佐野原にとどまることもできず、伊豆国府を防衛することも不可能、東海道を西へ西へと、敗走していく。

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