太平記 現代語訳 22-4 脇屋義助、伊予へ

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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かくして、四国への通路はついに開き、京都朝年号・暦応3年4月1日(注1)、脇屋義助(わきやよしすけ)は、中国四国方面軍大将の任命を受け、伊予国(いよこく:愛媛県)へ向かった。

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(訳者注1)
[新編 日本古典文学全集56 太平記3 長谷川端 校注・訳 小学館]の「注七」(104P)には、下記のようにある。

 「九四ページ注二に記したように、義助は暦応四年中に美濃から吉野へ移っているから、ここは史実では暦応五年の出来事と思われる。」
 
[日本古典文学大系35 太平記二 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店] の「補注一一」(484P)には、下記のようにある。

 「忽那一族軍忠次第によれば、興国三年、伊予国に於て義助に兵粮を供している。」

よって、義助が伊予に来た、ということは史実としてよいであろう。
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長年、義助につき従ってきた武士の数は多かったが、越前(えちぜん:福井県東部)と美濃(みの:岐阜県南部)でのあいつぐ敗退の中に、彼の行くえを知らないままに、山林の中に潜行したり、身に及ぶ危難を遁れんがために遠隔の地に去ってしまった者が多数あった。それゆえ、吉野にいる脇屋義助のもとに馳せ参じてきた武士の数は500騎にも足らず、といった状態であった。

脇屋義助 (内心)これから四国へ行こうってのに、おれが連れていけるのはたった500騎足らずか・・・でもまぁ、いいさ、四国や中国地方には、わが方に心を通じている連中ら、大勢いるんだもんな。おれがあっちに行きさえすりゃぁ、後は何とかなるだろうってもんさ。とにかく、一日も早く、四国へ行こう。

脇屋義助らは、未明に吉野を出発、やがて紀伊国(きいこく:和歌山県)へ入った。

脇屋義助 (内心)これから行く先の途中に、弘法大師(こうぼうだいし)が開かれた、あの高野山金剛峯寺(こうやさんこんごうぶじ)があるんだよなぁ・・・。

脇屋義助 (内心)以前から、あそこにお参りしたいなぁって、思ってた。あの聖地の土を一度は踏んで、来世に仏と遭って救われるための縁をつけておきたいなぁって、思ってた。

脇屋義助 (内心)寄って行こうかなぁ・・・こんな旅のついでにでも行っておかないと、これから先、いつお参りできるか分からん・・・よし、寄って行こう!

義助は、高野山に詣でてそこに3日間逗留し、方々の坊や谷を参拝して回った。

脇屋義助 (内心)あぁ、やっぱり来てよかった・・・ほんと、ここは、すばらしい所だなぁ。前々から人の話に聞くばかりで、いったいどんなすばらしい所なんかなぁって、あれやこれやと想像してたんだけど・・・やっぱし、百聞は一見にしかずだぁ、おれの想像をはるかに上回るような、尊い場所だったよ。

大塔の周囲には、あたかも蓮華の花弁のごとくに八つの峰がそびえ、その上には数多(あまた)の仏の座のごとく、白雲が浮かんでいる。

修行僧たちは、来るべき弥勒菩薩(みろくぼさつ)出現の時に自らが遭遇することを期して、庵の扉を閉ざし、心中の煩悩を断ち切る修行に徹している。

こちらには、諸衆を集めて仏法を説く僧あり、あちらには、一心不乱に念仏を唱える僧あり。

脇屋義助 あぁっ、これがあの有名な、「三鈷(さんこ)の松」か。弘法大師が中国から帰国の途上、船上から投げた三鈷(注2)が、高野山まで飛んできてここに落ち、そこに生えたのがこの松だって言うんだよなぁ。

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(訳者注2)真言密教で使う法具に「金剛杵(こんごうしょ)」というものがある。仏教辞典(大文館書店刊)には、以下のような解説されている。

金剛杵 五鈷杵(ごこしょ)ともいう。僧侶が御修法の時用うる道具の一首で、多く真言宗で使用する。鉄または銅をもって作り、その両端の独頭なるを独鈷(どっこ)、三股なるを三鈷、五股なるを五鈷という。杵はインドの武器、金剛杵は菩提心(ぼだいしん)の義であるから、これを所持せざる時は仏道修行を完うしがたしという。
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脇屋義助 (内心)ここが、弘法大師の肖像画がまつられているという、御影堂(みえいどう)かぁ。過去の何度かの火災にも、このお堂は無事だったっていうよなぁ・・・あ、軒の下に少し焦げ跡があるじゃない・・・もしかするとあれが、その火災の名残なのかねぇ。

脇屋義助 (内心)窓からかすかに煙が流れ出てる・・・あぁ、いいにおいだ・・・中で香を薫じてんだなぁ。

鈴 リーン・・・リーン・・・。

脇屋義助 (内心)あ、中から鈴の音も聞こえてくるぞ。朝霧の中にこもるあの音を聞いてると、なんだか、しみじみとした気持ちになってくるなぁ・・・。

脇屋義助 (内心)ここが昔、あの瀧口入道(たきぐちにゅうどう:注3)が住んでた庵の跡か・・・。

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(訳者注3)「平家物語・巻第10・横笛」に登場の斎藤瀧口時頼。
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脇屋義助 (内心)あれからもう相当の年月がたってしまってんだもんなぁ・・・もう板間もすっかり古びてしまって苔むしてるねぇ・・・屋根もボロボロになってしまって、破れ目から月光が差し込んでるよ。

脇屋義助 (内心)あぁ、ここが昔、西行法師(さいぎょうほうし:注4)が構えてた庵の跡かぁ。

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(訳者注4)平安末期から鎌倉時代にかけての歌人。彼の和歌は「山家集」にまとめられている。
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脇屋義助 おお、庭に散り敷く花びら、誰も掃いたりせずに、そのままにしてあるじゃぁないか・・・こりゃぁなかなか風流なもんだぜ、西行法師のご希望通りにってわけかい、ははは・・・。(注5)

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(訳者注5)花の雪の 庭に積もるに 跡(あと)付けじ 門(かど)なき宿(やど)と 言い散らさせて(西行 山家集 下 百首)

(現代語訳)踏ませへんぞ 庭に積もった 花の雪 門の無い家やと 言いふらしてでも

「花の雪」は「雪のように積もった花」の意。これを誰にも踏ませたくない、「ここは門がない家ですから、庭に足を踏み入れる事は不可能ですよ」と言いふらしてでも、散り敷いたこの美しい花びらをそっとしておきたい、という意。
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脇屋義助 (内心)こうやって、高野山中の方々の霊場や静寂な場所を見て回ってると、おれにもなんだか分かるような気がするなぁ、「出家するのであれば、高野山でしたい」っていう、あの平維盛(たいらのこれもり)の気持ち。(注6)

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(訳者注6)平家物語・巻第10の「横笛」~「維盛出家」を参照。
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脇屋義助 (内心)できる事なら、もっと長くこの尊い霊地にいたいよ。これまで憂き世に生きてきた間に、すっかり汚れちまった自分の心の洗濯、ここに腰を落ち着けて、じっくりとしてみたいもんだ。

脇屋義助 (内心)でもなぁ、おれはこれから戦場に赴く身なんだから・・・そんな事言ってらんねぇやなぁ。

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やがて、義助らは高野山を出発して紀州路に入り、千里浜(せんりはま:和歌山県・日高郡・みなべ町)を過ぎて、田辺宿(たなべじゅく:和歌山県・田辺市)に逗留し、渡海の船を準備した。

熊野新宮(くまののしんぐう:和歌山県・新宮市)の長・湛誉(たんよ)、湯浅定仏(ゆあさじょうぶつ)、山本判官(やまもとほうがん)、東四郎(とうしろう)、西四郎(さいしろう)以下の熊野党(くまのとう)の者らが、馬、鎧、弓矢、太刀、長刀、食料などを、我も我もと供出してきたので、脇屋軍の軍資は非常に豊かになった。

やがて順風となり、熊野党は軍船300余を仕立てて、彼らを淡路(あわじ)の武島(むしま)へ送り届けた。

ここには、もともと吉野朝側についていた安間(あま)、志知(しうち)、小笠原(おがさわら)一族の者らが城を構えており、彼らは、様々の酒肴や贈り物をもって、義助らをもてなした。

そして彼らは、300余の船でもって、義助らを備前の小豆島(しょうどしま)に送った。

ここは昨年より、吉野朝側へ寝返った佐々木信胤(ささきのぶたね)と梶原三郎(かじわらさぶろう)が支配して、島を挙げて親吉野朝勢力になっていた。彼らは、大きな軍船多数を仕立てて、義助らの四国への渡海を助けた。

4月23日、脇屋義助らは、伊予国・今治(いまばり:愛媛県・今治市)に到着、ついに四国の土を踏んだ。

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伊予には、吉野朝側勢力が多数いた。

まずその筆頭は、あの大館氏明(おおたちうじあきら)である。彼は、後醍醐先帝(ごだいごせんてい)が足利側の攻勢に屈して比叡山から京都へ還った時、新田義貞(にったよしさだ)のもとを去り、先帝と行動を共にしたのであった。

当時、大館氏明がいったい何を考えていたのか、今となっては分からない。とにかく彼はその後、足利側に降伏し、足利尊氏の支配下に入っていたのだが、「後醍醐先帝、京都を脱出、吉野へ!」とのニュースを聞くと、いちはやく吉野へ馳せ参じ、先帝のおぼえめでたく、伊予国の守護に任命され、その後、伊予に居住する身となっていた。

また、四条隆資(しじょうたかすけ)の子息・有資(ありすけ)も、吉野朝年号・延元2年より伊予国司として、そこに滞在していた。

さらに、土居(どい)、得能(とくのう)、土肥(とひ)、河田(かわだ)、武市(たけいち)、日吉(ひよし)一族らも、長年の吉野朝側勢力として、讃岐国(さぬきこく:香川県)の足利側勢力の西方への進出を食い止め、土佐国(とさこく:高知県)方面も畑(はた:高知県幡多郡)を境として伊予国内の地盤を固めていた。

「大将・脇屋義助、四国に到着!」という事で、彼らはますます勢いに乗った。まさに、龍が水を得、虎が山に入ったかのごとしである。

かくして、吉野朝側勢力の威勢は近隣を圧しはじめ、四国は言うに及ばず、備前、備後(びんご:広島県東部)、安芸(あき:広島県西部)、周防(すおう:山口県南部)、さらには九州の方までも、みなみな口をそろえて、

中国地方の武士たち こりゃぁまたまた、エライ事になってきよりましたでぇ!

伊予国には、足利サイド勢力の城はわずか10余箇所しかなかったのだが、

伊予の吉野朝側勢力メンバーA その城の連中ら、わしらがまだひとっつも攻めもせんうちに、みなビビリきってしもぉてのぉ、

伊予の吉野朝側勢力メンバーB カタッパシから城捨てて、逃げだしてしまいよったみたいやでぇ。

伊予の吉野朝側勢力メンバーC こうなったら、わしらの四国全域制圧、もう時間の問題じゃのぉ。

伊予の吉野朝側勢力メンバーD あったりまえじゃ! わしらの進出を食いとめれるもんなんか、いったいどこにおると言うんじゃぁ?

伊予の吉野朝勢力メンバーE もうとにかく、イケイケのウハウハじゃぁ!

伊予の吉野朝側勢力メンバー一同 ウワッハッハッハ・・・。

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