太平記 現代語訳 1-9 日野資朝と日野俊基、鎌倉へ連行される

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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土岐頼貞(ときよりさだ)と多治見国長(たじみくになが)が討たれて後、天皇陛下ご企画・[打倒・鎌倉幕府・プロジェクト]の事が、次第に明らかになってきた。

ついに鎌倉幕府は、長崎泰光(ながさきやすみつ)と南条宗直(なんじょうむねなお)の両名を京都に派遣、5月10日(注1)、日野資朝(ひのすけとも)、日野俊基(ひのとしもと)両人の身柄(みがら)を拘束(こうそく)した。

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(訳者注1)[日本古典文学大系34 太平記一 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]の補注によれば、この日付に関しては太平記作者の誤りがあるようである。
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二人とも、油断があった。

日野資朝 (内心)土岐が討たれた時に、生け捕りになったもん(者)、一人もいいひんからな、白状したもんは、誰もいいひん。倒幕プロジェクトの事、ゼッタイどっからも漏れとらんやろ。

日野俊基 (内心)やれやれぇ、僕らがやってた事、なんとか露見(ろけん)せんとすんだわなぁ。

このような空しい安堵の中に、何の備えもしていなかったのである。

なのに、突然のこの出来事はいったい・・・彼らの妻子は、東西に逃げ迷って身を隠す場所もなく、家財は首都の大路(おおじ)に散乱、馬のひずめに踏みにじられていく。

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資朝は、日野家一門の出身、都庁長官(注2)の職を経て、中納言(ちゅうなごん)の官位にまで至っていた。御醍醐天皇の彼へのご寵愛は格別のものがあり、その家はまさに繁栄の上げ潮に乗っていた。

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(訳者注2)原文では、「職大理を経て」。
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一方、俊基は儒家の出身、実際の功績以上のレベルにまでも、栄進の望みが達成されている。同僚は、肥馬の塵を望み、先輩も飲み残しの冷たい酒を飲み、ひたすら彼に、ゴマをする。

「不義にして富み、かつ貴きは、我においては浮雲のごとし」とは、よくぞ言ったもの・・・これは、かの魯論語(ろろんご)に記されている孔子(こうし)の名言であるからして、誤りがあるはずもなし。

資朝と俊基の運命もまさに、その通りのものとなってしまった・・・夢の中の楽しみははや尽き果て、いままさに、悲哀に直面することとなった。

「盛者必衰の理(じょうしゃひっすいのことわり:注3)」をたとえ知らずといえども、両者の窮状を見聞きする者は誰もみな、涙あふれて、とどまるところを知らない。

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(訳者注3)盛んなる者も必ず衰える、という意味。
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幕府派遣の使者による連行のもと、5月27日、資朝と俊基は鎌倉へ到着した。

「倒幕計画の張本人である両人のことゆえ、すぐに、死刑に処せられるであろう」、というのが大方(おおかた)の観測であった。

しかしながら、彼らはともに天皇の側近であり、才学にも秀(ひい)でた人物、世論の反発と天皇の憤りをはばかった幕府側は、彼らに対して拷問を加えることもなく、通常の禁固刑囚人(きんこけいしゅうじん)のように取り扱い、侍所(さむらいどころ:注4)に預け置きとした。

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(訳者注4)御家人を対象とする、鎌倉幕府の警察・裁判機構。
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7月7日、今宵(こよい)はあの二星、アルタイル(牽牛)とヴェガ(織女)がキグナス(白鳥座)の橋を渡り、1年間別離恋愛の悲哀からしばしの間、解放される夜。

通常であれば、御所においては昔ながらの伝統に従い、竹棹に願かけの糸を掛け、庭先に瓜などを並べ、七夕祭りの乞功奠(きつこうでん)を修するところ。

しかしながら、このような危機的な情勢ゆえに、詩歌(しいか)を奉る風流の人の姿もなく、管弦を演奏する楽人の影もない。

当夜の御所・宿直担当の月卿雲客(げっけいうんかく:注5)たちも、何かと騒がしい昨今の世相を憂い、次は誰の身の上に、災難がふりかかってくるのであろうかと、魂も消え、肝も冷える今日このごろ、みな、眉をひそめ、うつむいたままである。

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(訳者注5)月卿とは公卿(くぎょう)のことであり、雲客とは殿上人(てんじょうびと)のことである。
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夜も大分更けてきたころ、天皇が声を上げられた。

後醍醐天皇 おぉい、誰かいいひんかぁ!

吉田冬房(よしだふゆふさ) はい、冬房がおりま。

天皇は、前方に座り直していわく、

後醍醐天皇 あんなぁ、冬房・・・資朝と俊基が捕えられてからっちゅうもん、鎌倉の連中、いまだになんやかやと騒ぎたてとるっちゅぅやないか・・・京都は常に、危機的状況にあるやないか。

吉田冬房 はい・・・。

後醍醐天皇 この上また、どないなムチャな事、鎌倉から言うてきよるか、思うとなぁ、ほんま、心穏やかやないでぇ。

吉田冬房 はい・・・。

後醍醐天皇 どないどして、幕府の連中らの心を静めるえぇ方策、ないもんかいな?

吉田冬房 おそれながら、陛下・・・。

後醍醐天皇 ・・・。

吉田冬房 資朝と俊基が、倒幕計画のこと白状してもたっちゅうような、そないな情報は、私の耳にも入ってきとりませんよってにな・・・鎌倉の方からこれ以上さらに、追加の処置を加えてきよるっちゅうような事は・・・おそらく、もう無いとは思いますわ・・・。

吉田冬房 そやけど・・・最近の幕府の連中らのやりよること、ムチャクチャな事、多いですよってにな、ご油断されては、あきまへん。

後醍醐天皇 うん。

吉田冬房 ここは一つ、陛下自ら、誓紙(せいし:注6)を一筆したためられましてや、北条高時(ほうじょうたかとき)のもとへ送られる・・・とまぁ、こないなフウにして、あちらの怒りを静めるように、持っていかはったらどないですやろ?

後醍醐天皇 うん、なるほどなぁ。

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(訳者注6)原文では、「告文一紙」。冬房の提案したこの誓紙の内容はおそらく、「今回の倒幕計画には、自分(天皇)は何の関係もない」といったような内容のものなのであろう。
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後醍醐天皇 よし、ほなら冬房、すぐにそれ書け。

吉田冬房 ははっ。

直ちに冬房は、御前にて文章の下書きを作成し、陛下にご覧いただいた。

後醍醐天皇 どれどれ・・・。(文面をじっと読む)

紙の上にはらはらと落ちかかる陛下の涙(注7)・・・着物の袖でそれを押しぬぐわれる姿を見て、その場に侍(はべ)っていた臣下たちも皆、目に涙した。

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(訳者注7)形の上から言えば、北条高時は、御醍醐天皇の臣下に当たる。そのような相手に対して、その主君である天皇が、自らの潔白を主張する誓紙を提出しなければならないのである、後醍醐天皇の心中の屈辱感はいかばかりか・・・もっとも、この「天皇が涙を流した」というシ-ンは、太平記作者の創作(フィクション)なのか、史実なのか、一切は不明である。
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勅使(ちょくし)に任命された万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)が、この誓紙を鎌倉へ持参してきた。

北条高時は、安達高景(あだちたかかげ)を介して、それを受け取り、すぐにそれを開こうとしたが、

二階堂道蘊 ちょっと待ってください!

北条高時 うぅ? なんだぁ?

二階堂道蘊 天皇陛下が武家の家臣に対して、直々に誓文を下されるなどということはですね、外国でも我が国でも、前代未聞の事なんですよ。なのに、そのような軽いノリでもってね、中味を拝読(はいどく)申し上げるのは、いかがなものかと・・・。

一同 ・・・。

二階堂道蘊 そのような振る舞いを、神仏はいったいどのようにご覧あそばすか、ジツにおそれ多い事でありますよ。

一同 ・・・。

二階堂道蘊 ここはともかく、その文箱を開かずに、そのまま、勅使にお返しされるのが、よろしいのでは?

このように、道蘊は、再三再四(さいさんさいし)諫(いさ)めたのであったが、

北条高時 ナァァニ、そんなの気にすんなってことヨォ! ナァモ問題ねぇ、ノォゥプロォブレム(no problem)、ノォゥプロォブレム! それ、斉藤、とっとと開いて読みやがれぃ!

斉藤利行(さいとうとしゆき) はいはい! ほならいっちょ、読んでみますよって。(誓紙を手に取る)(注8)

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(訳者注8)この人は、1-8に登場している。
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斉藤利行 (誓紙を開いて)・・・「わが心に偽り無きことを、天もご照覧あれ」・・・ウァッ!

斉藤利行の血液 ドヴァッ!

一同 おいおい、いったいどうした! 鼻血なんか、出しちゃって・・・。

斉藤利行 なんや急に、めまいしてきましたわ・・・もう読めまへん・・・これにて退出させていただきますぅ・・・(よろよろ)(退出)

北条高時 ヤイヤイ、いってぇぜんてぇ、ナニがどうなってやがんだぁ?!

その日から急に、利行の喉の下に悪性のデキモノができてしまい、7日もたたないうちに、血を吐きながら、息を引き取った。(注9)

世間の声A いやぁー、こいつぁ驚きましたねぇ。

世間の声B ほんにまぁ、えらいこっちゃがな。

世間の声C 人心泥にまみれたる、末世(まっせい)のこの世とはいいながらも、君臣上下(くんしんじょうげ)の礼を違(たが)えた時には、神仏の罰はさすがにテキメンってことじゃぁないかしらねぇ。

世間の声D もうほんに、コワ(怖)おすわなぁ。

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(訳者注9)[太平記 鎮魂と救済の史書 松尾剛次 中公新書 1608 中央公論新社]の80~81ページには次のようにある。

 「斉藤利行が死んだのは、『常楽記』(鎌倉・室町時代の一種の過去帳で、醍醐寺釈迦院の僧侶が書き継いだ)という信頼できる史料によれば正中三(一三ニ六)年であり、七日のうちではない。ここからも『太平記』の記事をそのまま鵜呑みにできないことがわかるが、重要なのは、事実を曲げてまでも、『太平記』作者が斉藤利行の死と告文読みを結びつけ、「君臣上下の礼違う時は、さすがに仏神の罰がある」と結論づけている点だ。そうした、作為的な部分こそ、逆説的な意味で、作者の主張が端的に現れている。すなわち、そこには儒教的道義論が読みとれるとともに、儒教的道義の遵守を保証するものは、仏神の下す罰であると考えていることがわかる。」
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それ以前の時点で既に、幕府側においては評議一決し、意志決定がなされていた。

 「日野資朝と日野俊基が今回の陰謀の張本人といっても、もとはといえばそれは、天皇陛下のご意向から発した事。たとえ誓紙を下されようとも、そんな事は全く考慮に値せず。陛下を、遠国(おんごく)へ遷(うつ)したてまつるべし!」

幕府リーダーE (内心)しかしだなぁ・・・。

幕府リーダーF (内心)勅使の万里小路宣房の弁明の内容も、なるほどなぁと思えるし。

幕府リーダーG (内心)天皇からの誓紙を読み上げようとした斉藤利行が、あんなことになっちまったし・・・。

幕府要人たちは、みな舌を巻き、口を閉ざしてしまった。

さすがの北条高時も、天のおぼしめしにたてつくような行為だけは憚(はば)かられたのであろう、

 「国家の統治に関しては、朝廷側のご意向におまかせしているのですから、幕府の方からそれに対してあれやこれやと、干渉するような事があってはならないですよね。」

との内容の返答をそえ、誓紙をお返しした。

宣房はすぐさま帰京し、この由を奏上した。かくして、天皇も臣下たちもようやく、安堵の胸をなでおろした。

やがて、幕府側の裁決が以下のように下された。

 「日野俊基は、証拠不十分ゆえ、釈放(しゃくほう)。日野資朝は、死罪と処すべきところを、罪一等(つみいっとう)を減じ、佐渡国(さどこく:新潟県佐渡島)へ流罪(るざい)とする」。
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