太平記 現代語訳 11-4 後醍醐先帝、京都へ帰還

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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先帝一行は、兵庫に1日の逗留の後、6月2日に出発した。

そこへ、楠正成(くすのきまさしげ)が、7,000余騎を率いて参上してきた。

軍勢の様、まことに勇ましく見える。先帝は、御簾(みす:すだれ)を高く巻き上げさせ、正成を近くに召し寄せられた。(注1)

後醍醐先帝 正成、忠義を貫き通して、よぉ戦ぉてくれたなぁ! 今回の速やかなる天下平定、おまえの功績は抜群やでぇ、いやもう、ほんまにぃ!

楠正成 ナニをおっしゃいますやら。天下平定が成ったんも、ひとえに、陛下の聖なる政(まつりごと)と、神のごとき武威の御徳の賜物ですやん。それ無しには、この私めのわずかばかりの謀略、そうや、こんな謀略でもって、あんな強敵の囲みを、破れるはず、ありませんやん。

このように、自らの功を辞し、あくまで謙譲して止まぬ正成であった。

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(訳者注1):ここでは、二人は直接対面した、というように記述されている。この正成への応対は、破格の扱いと言えよう。以前の先帝と正成との対面の様子(3-1)と比較してみると、おもしろい。
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その日から、楠正成は前陣を承わり、近畿地方の武士たち7000余騎を従えて、陛下の先頭を守った。

道程18里の間、武器をきらめかせて護衛し、輔弼(ほひつ)の臣が列をなして、軍隊は序列を守り、乗りものは静かに進む。かくして6月5日の暮れほどに、先帝は京都の東寺(京都市・南区)に到着された。

武士は言うに及ばず、摂政、関白、太政大臣、左右の大将、大中納言、八座(参議)、七弁(弁官)、五位、六位、その他、諸官庁の者、医術と陰陽道の専門家に至るまで、我先にと参集したので、車馬は門前に群集し、地上に雲を敷き、衣冠の青紫が堂上に陰になり、あるいは輝き、ここに臣下たちが勢揃いした。

翌6月6日、東寺から二条の御所への、先帝御還幸パレードが執行された。

その日、まず、臨時の任命が下り、足利高氏(あしかがたかうじ)が、治部省(じぶしょう)長官に、その弟、足利直義(あしかがただよし)が、左馬寮(さまのりょう)長官に任命された。

千種忠顕(ちぐさただあき)が、帯剣役で陛下の車の側に付き添ったが、まだまだ非常事態の発生を警戒せねば、ということで、帯刀の武士500人が二列で歩む。

高氏と直義は、行列の後方、百官の後に続いた。二人は近衛府の官になったから、ということで、騎馬の兵5,000余騎が甲冑を帯してそれに従う。

その次には、宇都宮(うつのみや)の軍勢500余騎(注2)、佐々木判官(ささきほうがん)の軍勢700余騎(注3)、土居(どい)・得能(とくのう)の軍勢2,000余騎、この他、楠正成、名和長年(なわながとし)、赤松円心(あかまつえんしん)、結城、長沼、塩冶以下、諸国の有力武士たちが、500騎、300騎と、それぞれの家の旗を立てて軍勢をまとめ、陛下の車を中央に、静かに都の道路を進んでいく。

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(訳者注2)ここの「宇都宮」を、[宇都宮公綱]であると解釈すると、後の記述と矛盾してしまう。[11-9]によれば、公綱はこの時点では、奈良にいる事になっているから。

[新編 日本古典文学全集54 太平記1 長谷川端 校注・訳 小学館]の注では、この「宇都宮」は、[宇都宮通綱]である可能性が高い、としている。
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(訳者注3)[新編 日本古典文学全集54 太平記1 長谷川端 校注・訳 小学館]の注に、「ここは佐々木時信をさすか」と記されている。
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道中の装束、行列の儀式、以前とはうって変わり、諸司の護衛が厳重を極める中、見物人は道の両側に満ち溢れ、ただただ、後醍醐先帝の帝徳をたたえる歓呼の声ばかりが、行列をおし包む。

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