太平記 現代語訳 2-7 幕府側、大軍で上洛、後醍醐天皇、御所を脱出

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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嘉歴(かりゃく)2年(1327)の春の頃、奈良の興福寺の内部で争いがあった。大乗院(だいじょういん)所属の禅師房(ぜんじぼう)と六方の衆徒(注1)の間に紛争が勃発、それはついに合戦にまで発展してしまった。そして、興福寺の金堂(こんどう)、講堂(こうどう)、南円堂(なんえんどう)、西金堂(さいこんどう)がたちまち兵火に包まれ、焼失してしまった。

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(訳者注1)[大乗院]は、[興福寺]に所属する寺院であった。現在、その庭園のみが復元されている。[禅師房]は、[大乗院]に所属する寺院である。[六方]とは、興福寺に所属する寺院中の6つのグループであり、[戌亥方]、[丑寅方]、[辰巳方]、[未申方]、[竜花院方]、[菩提院方]と称された。
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また、元弘(げんこう)元年には、延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県大津市)・東塔(とうとう)エリアの北谷(きただに)から兵火が起こり、四王院(しおういん)、延命院(えんめいいん)、大講堂(だいこうどう)、法華堂(ほっけどう)、常行堂(じょうぎょうどう)が、同時に灰燼(かいじん)になってしまった。

このように次々と起こる大事件に、人々は怯えている。

街の声A 最近のうち続く凶事、これはもしかしたら、わが国に国家的規模の大きな災が起こる、何かの前触れやないやろか。

これに追い打ちを掛けるかのように、同年7月3日に大地震が発生、紀伊国(きいこく:和歌山県)千里浜(せんりはま:和歌山県・日高郡・南部町)の、干潟が隆起してにわかに陸地に変ずること20町余り。

さらには同月7日午後6時ころ、またもや地震が発生し、富士山の頂が崩落すること数百丈。

卜部宿祢(うらべのすくね)が、亀の甲を焼いて占いを行い、陰陽博士(おんみょうはくし)が占書を調べてみるに、

 「国王 位(くらい)を易(か)え 大臣 遭災(わざわいにあう)の卦」

と出た。そこで、陰陽博士は内密に、後醍醐天皇に奏上した。

陰陽博士 占いの結果、どうもタダゴトではありませんよ。とにかく陛下におかれましては、御慎みあそばされるのが何よりです。

後醍醐天皇 ・・・。

街の声B 最近、エゲツナイ事ばっかし起こりよるやないかい。

街の声C ほんまやなぁ。あちらこちらの寺院の火災といい、方々で起こる地震といい。

街の声D こら、タダゴトやおまへんでぇ!

街の声E そのうち、ドエライ事起こるんちゃいますう? おぉこわ(怖)。

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はたせるかな、元弘(げんこう)元年(1331)8月22日、

 「鎌倉幕府よりの使者2名、3,000余騎の大軍を率いて上洛!」

とのニュースが、京都にとびこんできた。

何だかよくは分からないけれども、都にまた何事か起こるのであろうかと、京都周辺から武士たちが、我も我もと市内に馳せ集まってきて、どこもかしこもなんとなく、異常に騒がしい毎日である。

その使者が京都に到着するやいなや、鎌倉幕府からの書簡をまだ誰も開いてもいないというのに、いったいどこからどうやってリークしたのであろうか、

 「今回の幕使の上洛の趣旨は、天皇を遠国に流し、護良親王(もりよししんのう)を死罪に処する事」

と、延暦寺に伝わってしまった。

その情報をキャッチした、延暦寺・天台座主・護良親王は、8月24日の夜、後醍醐天皇に密使を送った。

密使 陛下、謹んで、親王殿下よりのメッセージ、お伝えいたします。

後醍醐天皇 うん。

密使 殿下は以下のごとく、おおせです、

 「今回の鎌倉からの使者の上洛の趣旨、首尾よくこちらで内々に把握できました。陛下を遠国に遷したてまつり、私を死刑にするための上洛、とのことです。」

 「このように、極めて危機的な情勢になっておりますから、今夜にでも急ぎ、奈良の方へお逃げ下さいませ。防衛体制も何も整わない所に、朝廷側の勢力も馳せ参じて来ない前に、あちらサイドが御所に押し寄せて来たら、こちらサイドの防戦は、極めて不利になります。」

 「京都に入ってきた敵を遮(さえぎ)り止めんが為にも、また、延暦寺の衆徒(しゅうと)たちの帰趨(きすう)を見極めんが為にも、近臣中の一人に対して、天皇を名乗らせる許可を与えた上で、彼を延暦寺に送りこみ、「天皇陛下、比叡山にご避難」との公表を行うのが、よろしいかと存じます。」

 「そうなれば、必ずや敵軍は、比叡山(ひえいざん)延暦寺に向かうでしょうから、延暦寺の衆徒らと激突することになります。衆徒らは、「我らの大事なみ寺のために!」と、身命(しんみょう)惜しまず、必死になって防戦に努めることでしょう。」

 「そのようにして、数日間、戦い続けるのです。そして、幕府軍サイドが戦い疲れてきた頃合いを見計い、伊賀(いが:三重県北西部)、伊勢(いせ:三重県中央部)、大和(やまと:奈良県)、河内(かわち:大阪府東部)の朝廷サイド勢力を動員して、逆に京都を攻めるのです。そうすれば、あっという間に、関東からの軍勢を撃退することが可能でしょう。」

 「国家の安危、ただこの一挙にありです!」

後醍醐天皇 ・・・。(ただただ、茫然自失、何の決断も指示も下せない)

花山院師賢(かざんいんもろかた)、万里小路藤房(までのこうじふじふさ)、万里小路季房(までのこうじすえふさ)ら、当日宿直の番に当たっていた近臣数名を御前に呼び、天皇は問うた。

後醍醐天皇 こうこう、こないなわけや。いったいどないしたもんやろ?

万里小路藤房 これは、えらいことになりましたなぁ・・・うーん・・・。

一同 うーん・・・。

万里小路藤房 そうですねぇ・・・やっぱし、「逆翟翟臣が君主を犯そうとする時には、君主はしばらくその難を避けるべし、それにより、国家も保たれる」というのが、歴史的に見ても正しい方策ですやろ。

後醍醐天皇 ・・・。

万里小路藤房 古代中国・晋(しん)国の公子・重耳(ちょうじ)は翟(てき)国に逃げ、周(しゅう)国の古公(ここう)は豳(ひん)の地へ移住しましたやろ。その難を乗り越えてから後、彼らは共に王業をなし、その子孫は不朽の栄誉に光輝いたというわけですよ。

後醍醐天皇 ・・・。

万里小路藤房 とにかく、ここは急がな、あきまへん、陛下! このまま、ここで思案してたんでは、夜も更けてしまいますやんか、一刻も早ぉ、ここを脱出下さいませ!

というわけで、藤房は車を手配してそれに三種の神器を積み込んだ。そして、車の下簾(すだれ)の下から女ものの衣服の裾を車の外へはみださせて、宮中の女性が乗っているかのように擬装した後に、天皇をその車にたすけ乗せ、御所の陽明門(ようめいもん)から外に出ようとした。

門の警護担当の者らが、車の前にたちはだかる。

警護担当X いったい、どなたの外出ですかいな?

万里小路藤房 シィッ、声が高いぞ! おそれ多くも、この車の中には、中宮妃殿下がおわすのや!

警護担当X エッ!

万里小路季房 夜陰にまぎれて、おしのびでな、西園寺(さいおんじ)の実家に行かはるんやがな。はよ、そこ通し!

警護担当X そういうことならば、さぁどうぞ。

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予め、メンバー間で打ち合わせていたのであろう、源具行(みなもとのともゆき)、洞院公敏(とういんきんとし)、千種忠顕(ちぐさただあき)らも、三条河原で一行に合流してきた。

天皇側近メンバーA さぁ、ここで、陛下に車から降りていただいてやな、輿にお乗せして、ほいで、奈良を目指そ。

天皇側近メンバーB 輿? 輿はどこにある? えぇ、これかいなぁ。

天皇側近メンバーC なんともまぁ、お粗末な輿やなぁ。

天皇側近メンバーA しゃぁないやろがぁ、急な事やしぃ。

天皇側近メンバーC 輿をかつぐ人夫、おらんがな。

天皇側近メンバーA えぇい、しゃぁない、こないなったら、おまえら、かつげぇ!

というわけで、宮内省料理部長官の重康(しげやす)、同雅楽部(ががくぶ)所属楽人の豊原兼秋(とよはらのかねあき)、近衛府(このえふ)所属の秦久武(はだのひさたけ)らが、輿をかついで進むことになった。

公卿たちはみな、フォーマルウェアを脱ぎ捨て、折烏帽子(おりえぼし)と直垂(ひたたれ)のカジュアルウェアに着替えた。公家に仕える身分低き侍が、女づれで奈良の七大寺もうでに出かけるような体に見せかけ、彼らは輿の前後を進んだ。

木津(きづ:京都府・木津川市)の泉橋寺(せんきょうじ)を過ぎたあたりで、夜が明けた。そこで、天皇に朝食をおとりいただいた。

さらに進んで、奈良の東大寺・東南院(とうだいじ・とうなんいん)へ入った。

その寺を預かる僧正は朝廷への忠誠心を持っていたので、天皇が奈良へ来た事を秘したまま、東大寺の人々の意向を探ってみた。その結果はと言えば、

天皇側近メンバーC いかんなぁ・・・東大寺の西室(にしむろ)には、顕実僧正(けんじつそうじょう)いう、関東の一族のモンがおるんやて。寺の中で絶大な権力を持っとってな、みんなそいつに恐れをなして、陛下に味方しよう、いうもんなんか一人もおらんそうや。

天皇側近メンバーB そんな状態やったら、陛下が奈良にとどまられるのは、危険やなぁ。

ということで、翌26日、和束(わつか:京都府・相楽郡・和束町)の鷲峰山・金胎寺(じゅぶせんこんたいじ)へ移動。

天皇側近メンバーA ここもなんかなぁ・・・山の奥すぎるわ。こないに里から離れてたら、打つ手あらへん。

天皇側近メンバーB もっと他の要害に、陣を構える事にしよか。

同月27日、一行はお忍び行幸の態勢を整え、奈良の衆徒少数を引き連れて、笠置寺(かさぎでら)(京都府・相楽郡・笠置町)に移動した。
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