太平記 現代語訳 26-1 楠正行、吉野朝廷に参上す

太平記 現代語訳 インデックス 13 へ
-----
この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
-----

住吉(すみよし)・阿倍野(あべの)における足利幕府軍と楠軍との戦は、冬のさ中、11月26日の事であった(注1)。

-----
(訳者注1)当然、旧暦である。
-----

渡辺橋(わたなべばし)からせき落されて川水に流されていった幕府軍の武士500余人は、かいなき命を楠正行(くすのきまさつら)に助けられ、川から引き上げられた。ひとまずは一命を取りとめたとはいうものの、冬の寒さは肉を破り、暁の氷は膚に結び、到底、生きながらえれようとは思えなかった。

しかし、正行は情け深い人であった。小袖を着替えさせて彼らの身を暖めてやり、薬を与えて傷の治療をさせた。4、5日ほどこのようにして労ってやった後、馬に乗ってやってきた者には馬を与え、鎧を失った者には鎧を着せてやり、礼をつくして送りだした。

幕府軍メンバーA (内心)あぁ、この楠正行って人、なんてすばらしい人なんだろう。

幕府軍メンバーB (内心)敵であるおれたちに、ここまでしてくれるとは・・・。

幕府軍メンバーC (内心)ほんに、この人は情け深い人じゃのぉ。

府軍メンバーD (内心)よし、決めた、これから先、おれは楠殿に、心通じていくもんね!

その恩になんとしてでも報いていこうと決意した人々は後日、楠陣営に加わり、四条縄手(しじょうなわて:大阪府・四条畷市)の戦において討死にしていった。

-----

あい続く敗戦に、足利兄弟は、あたかも手の上に熱湯をかけられたかのように、狼狽してしまっている。

足利尊氏(あしかがたかうじ) なんだ、なんだ、いったいどうしたんだ、藤井寺(ふじいでら)、住吉(すみよし)と、連敗じゃん、幕府軍はもうメチャメチャだ!

足利直義(あしあがただよし) そうですねぇ・・・。首都圏の相当広範囲にわたって、敵側の侵略を許すことになってしまいました。

足利尊氏 首都圏だけじゃない、遠国からも、反乱軍蜂起の報告が来てる・・・あぁ、もぉっ。

足利直義 ウーン・・・。

足利尊氏 その・・・なんだな・・・こうなったらもう・・・足利氏の末流の者や方々から寄せ集めた者らを戦場に送り込んでたんじゃ、もうダメだろ。もっと本格的な軍を編成しなきゃ!

足利直義 では、いったい誰に?

足利尊氏 こういう時に頼りになる者といやぁ、そりゃぁ、あの兄弟をおいて他には・・・。

というわけで、足利将軍執事(しつじ)・武蔵守(むさしのかみ)・高師直(こうのもろなお)と越後守(えちごのかみ)・高師泰(こうのもろやす)兄弟を大将とし、四国、中国、東山、東海20余か国の軍勢を河内へ派遣することになった。

-----

軍の編成を決定の後、中1日をおかず、まず、高師泰が自らの手勢3,000余騎を率いて京都を出発、12月14日の早朝に、淀(よど:京都市・伏見区)に着いた。

高師泰・出馬の報を聞き、続々と、他の武将たちがそこに集合してきた。武田盛信(たけだもりのぶ)、逸見孫六(へんみまごろく)、長井宗衡(ながいむねひら)、厚東武村(こうとうたけむら)、宇都宮貞宗(うつのみやさだむね)、赤松範資(あかまつのりすけ)、小早川貞平(こばやかわさだひら)等、合計2万余騎が、淀、羽束使(はつかし:伏見区)、赤井(あかい:伏見区)、大渡(おおわたり:位置不明)付近の民家や堂社仏閣に充満。

12月25日、高師直が手勢7,000余騎を率いて、八幡(やわた:京都府・八幡市)に到着。この軍に加わっているメンバーは、細川清氏(ほそかわきようじ)、仁木頼章(にっきよりあきら)、今川範国(いまがわのりくに)、武田信武(たけだのぶたけ)、高師兼(こうのもろかね)、高師冬(こうのもろふゆ)、南部遠江守(なんぶととうみのかみ)、南部次郎左衛門尉(なんぶじろうさえもんのじょう)、千葉貞胤(ちばさだたね)、宇都宮貞泰(うつのみやさだやす)、佐々木道誉(ささきどうよ)、佐々木氏頼(ささきうじより)、佐々木宗満(ささきむねみつ)、長九郎左衛門尉(ちょうのくろうさえもんのじょう)、松田備前次郎(まつだびぜんのじろう)、須々木備中守(すずきびっちゅうのかみ)、宇津木平三(うつきへいぞう)、曽我左衛門(そがさえもん)、多田院御家人(ただのいんのごけにん)など、源氏23人、外様有力武士436人、総計6万余(注2)、八幡、山崎(やまざき:京都府・乙訓郡・大山崎町)、真木(まき:大阪府・枚方市)、葛葉(くずは:枚方市)、加島(かじま:大阪市・西淀川区)、神崎(かんざき:兵庫県・尼崎市)、桜井(大阪府・三島郡・島本町)、水無瀬(みなせ:島本町)に充満。

-----
(訳者注2)[観応の擾乱 亀田俊和 著 中公新書2443 中央公論新社] 36P には、以下のようにある。

「話を戻すと、師泰に続いて執事高師直が総大将として、同月二六日に出陣した(日付は諸説ある)。兵力は師直の本隊が七〇〇〇騎あまりで、こちらも諸国の軍勢が集結して六万騎あまりとなった。師泰と合わせて八万騎を超える。『太平記』の誇張もあるだろうが、幕府の総力を結集した大軍であったことは間違いない。ちなみに山城国醍醐寺僧清浄光院房玄は、自身の日記『房玄法印記』で師直を一万騎あまりとしている。」
-----
-----

「雲霞(うんか)のごとき足利幕府の大軍、淀および八幡に到着す」との報を聞き、楠正行(くすのきまさつら)と弟・楠正時(まさとき)は、一族を引き連れて12月27日、吉野朝廷(よしのちょうてい)の皇居に参上した。

正行は、四条隆資(しじょうたかすけ)を介して、後村上天皇(ごむらかみてんのう)に次のように言上した。

楠正行 わが父、楠正成(くすのきまさしげ)は、ひ弱い身をもって大敵・鎌倉幕府の威を砕き、後醍醐先帝(ごだいごせんてい)陛下のみ心を、休んじたてまつりました。

楠正行 しかしながら、その後ほどなく、天下は麻のごとく乱れてしまいました。そしていよいよ、逆臣・足利一族が西方より京都に攻め上ってきて、朝廷は一大危機に瀕したのであります。その時、わが父は、先帝陛下の命を奉じたてまつり、かねてより思い定めておりました覚悟のごとく、摂津国(せっつこく)湊川(みなとがわ:神戸市・兵庫区)において、みごと、討死につかまつりましてございます。

楠正行 その時、この正行、齢(よわい)13歳にして父と共に従軍いたしおりしを、父・正成は、あえて私を戦の場へは伴わず、河内(かわち)へ帰しましてございます。「わしの死んだ後、生き残った一族のめんどうを見、朝敵を亡ぼし、皇太子殿下の帝位継承に向けて、大いにお仕えせよ!」と、正行に申し残しおいて後、父は戦場に散っていきました。

楠正行 時は過ぎ、今や、正行、正時、すでに壮年に達してございます。つきましては、このたびなんとしてでも、我と我が手を砕いて朝敵と合戦つかまつりたく存じます。さもなくば、亡父の残した遺言に背く結果となりましょう、「楠正成の遺児は、父には似ても似つかん、何の武略もない男」との、人の謗りをも受ける事になってしまいましょう。

楠正行 思いまするに、人間の身など、はかないもの、自分の寿命は、自分の思い通りにはなりません。病に犯されて早死にしてしまう事もありえます。かりにそのような事になってしまえば、この正行、陛下にとっては不忠の身となり、父にとっては不孝の子となってしまいます。人間、どうせ死ぬのであれば、戦って死ぬ方を、正行は選びとうございます。

楠正行 今回の戦、自らの身命を尽くして、戦う覚悟であります。高師直、師泰を、攻めに攻めてみせましょうぞ! あの二人の頭(こうべ)をこの手にかけて取るか、はたまた、正行と正時の首を彼らに取られてしまうか、結果は二つに一つ、ただただ、戦場において雌雄を決するのみ!

楠正行 かくなるうえは、今生において、いま一度だけ陛下の龍顔(りゅうがん)を拝し奉らんがため、楠正行、本日、御所に参上つかまつりましてございます!(涙)

涙を鎧の袖に注ぎながらのその言葉、義心を顕わして余すところないその態度、伝奏が未だ奏せざる先に、後村上天皇は感動のあまり、直衣(のうし)の袖を涙にぬらされた。

後村上天皇 ・・・(涙)御簾(みす)を上げい。

天皇は、紫宸殿(ししんでん)の御簾を高く巻き上げさせ、顔に笑みをたたえながら、楠軍一同を見つめた。

後村上天皇 (涙)正行、近ぉ。

楠正行 ハハッ!(膝ずりしながら接近)

後村上天皇 こないだの二度の合戦、よぉやった! 大いに勝利を収めて、敵軍の士気を見事、うち砕いたな!

楠正行 ハハッ!

後村上天皇 おまえの大活躍のニュース聞いてな、私の憤りも大いに慰まったで。父・正成の代からの累代の武功、ほんまにもう、見事なもんや。

楠正行 身に余るお言葉でございます!

後村上天皇 今度の合戦はな、天下分け目の戦いや・・・足利側は、あらん限りの兵力をかき集めて、攻めよせてきとるというやないか。

楠正行 はい。

後村上天皇 戦場における軍の進退、戦術の変化、すべて、度に当たり機に応じて、ということになるからな、軍の指揮は、それを率いる勇士に、すなわち、おまえの判断に全て委ねるしかない。

楠正行 ・・・。

後村上天皇 おまえに対して、この私がいったい何を命令できよう、何を指揮できよう・・・ただな、これだけは、言うておきたい。

楠正行 はい。

後村上天皇 ここは進むべき時、と判断したら、機を逸することなく進むがえぇ。そやけどな、退(ひ)くべき時には、迷わず退け、退くんやぞ・・・後日を期してな・・・最終的に、勝利を得ることができたら、それでえぇんやから。

楠正行 ・・・。

後村上天皇 私にとって、おまえは手足のような存在・・・もしも、もしも、おまえが逝ってしもうたら、いったい私は、どないしたらえぇんや・・・。(涙)

楠正行 陛下・・・。(涙)

後村上天皇 えぇか、正行、命(いのち)を大事にな! 慎んで、慎んで、命(いのち)を全うするんやぞ、えぇな、正行!(涙)

楠正行 ・・・。

正行は、頭を地につけたまま、沈黙を守るのみであった。

楠正行 (内心)これが、オレの最後の御所参内や。

正行は、覚悟定めて御所を退出した。

その後、楠正行、楠正時、和田賢秀(わだけんしゅう)、その弟・和田新兵衛(わだしんべえ)、和田紀六左衛門(わだきのろくろうざえもん)の子息2人、野田四郎(のだしろう)の子息2人、楠将監西阿(くすのきしょうげんせいあ)の子息・関地良円(せきじりょうえん)以下、今度の戦に一歩も退かず、一所にて共に討死にしようと誓い合った人々143人は、後醍醐先帝の御陵に参拝した。

楠正行 陛下、最後のごあいさつに、やってまいりました! 今度の戦、負けになったら、おれら全員、必ず討死にして、あの世にいきます!

その後、彼らは、如意輪堂(にょいりんどう)の壁板に、各々の名字を過去帳のように書き連ね、その奥に、一首の歌を書き留めた。

 覚悟込め 我が名書いたぞ 過去帳に 放たれた矢は 二度と帰らん

 (原文)返らじと 兼(かね)て思へば 梓弓(あずさゆみ) な(亡)き数にい(入)る 名をぞとどむ(留)る

楠軍メンバー一同 (内心)自分の四十九日までの供養、今のうちに、ここで全部済ませてしもたろ。

彼らは、各々髪を切って仏殿に投げ入れた。

12月27日、彼らは吉野(よしの:奈良県・吉野郡・吉野町)を発ち、戦場へ向かった。

-----
(訳者注3)その「壁板」を、訳者は、2011年に現地に行って見てきた。

本文中の「如意輪堂」とは、如意輪寺(にょいりんじ)(奈良県・吉野郡・吉野町)の本堂のことである。現在の堂は江戸時代の再建なのだそうだが、幸いにも、上記中の「壁板」が、宝物殿に保存されており、一般公開されていた。

宝物殿の中には、この扉の他にも様々な文化財が陳列されており、とても興味深かった。(金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)木像、楠正行の短刀、等々)。

如意輪寺は、蔵王堂、吉水神社等の吉野の観光名所から少し離れた所にあるが、そこに至る道は、美しい野山の中を行くコースで、桜、カエデも多く生えていた。

後醍醐天皇の陵は、如意輪寺の付近にあった。
-----

-----
太平記 現代語訳 インデックス 13 へ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?