太平記 現代語訳 4-7 児島高徳、謎のメッセージを後醍醐先帝に送る

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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その頃、備前国(岡山県東部)に、児島高徳(こじまたかのり)という人がいた。

先帝が笠置(かさぎ)にたてこもられた時に、彼は先帝側について挙兵した。しかし、「事ならずして、笠置は陥落、楠正成(くすのきまさしげ)も自害」と聞き、力を失って黙然としていた。

「先帝が隠岐へ流される」との情報に、彼は信頼できる一族の者たちを集めて、アジテーションを行った。

児島高徳 「仁の道に志す人間」というもんは、自分の命を助ける為に仁の道を曲げる、なんてことはせん、むしろ、仁の為やったら自分の命捧げていくものである、と、言われてるわなぁ。

児島高徳 じゃけん、昔の中国、衛(えい)国の懿公(いこう)いう君主が北方民族に殺害された時にな、その臣下の弘演(こうえん)いう人物は、主君の屈辱を見るに忍びず、自分の腹をかっさばいて、懿公の肝をその中に収め、主君の恩に報いて命終わった、いうで。

児島高徳 「義を見て為さざるは勇無し」言うんやで。なぁ、みんな! 隠岐島行きの護送軍団の道中を襲って、先帝陛下を奪還し、天皇軍を旗揚げしようや! たとえ我らの屍を戦場に曝(さら)す事になろうとも、名を子孫に残そうや!

児島グループ一同 よぉし!

児島高徳 では、道中の難所で待ち構えて、護送軍団のすきを、うかがうとするか。

そこで、備前国(びぜんこく:岡山県東部)と播磨国(はりまこく:兵庫県西部)との境の舟坂山(ふなさかやま)に潜伏し、軍団の到着を、今か今かと待った。

しかし・・・。

児島高徳 おかしいのぉ・・・いつまで待っても、護送の軍団は来(こ)んがの。

斥候(せっこう)を送って調査させたところ、護送軍団は、山陽道(さんようどう)ではなく、播磨の今宿(いまじゅく:兵庫県・姫路市)から山陰道(さんいんどう)へと転じて、進んでいた。

児島高徳 あぁ、計画通りには行かんもんじゃのぉ・・・。

児島高徳 よし、ならば、美作国の杉坂(すぎさか)で待ちかまえるとしよ。あこならば山深い所じゃけん、好都合じゃ!

ということで、三石山(みついしやま:岡山県・備前市)から斜め方向に、道もない山中を雲を踏み分けて強行軍で越え、杉坂に到着。

ところが・・・。

児島高徳 ナニィ! 護送軍団はすでにここを通過してもぉて、院庄(いんのしょう:岡山県津山市)まで、行ってしもとるってか!

ついにみな、気力喪失してしまい、児島グループは散りじりになってしまった。

児島高徳 こうなったら、せめて、わしの陛下奪還の志だけでも、先帝陛下にお伝えしたい!

彼は変装して単身、護送軍団の行く先々に潜行し、機会をうかがった。

しかし、護送軍団側には一分のすきもない。

仕方なく彼は、先帝が宿泊しておられる宿の庭先にあった桜の大木の幹を削り、そこに、大きな文字で一句の漢詩を書いた。

 天よ なにとぞ 勾踐(こうせん)を お見捨てなく
 そのうち 范蠡(はんれい)が 現れないとも 限りませんぞ

  (原文)天 勾踐を 空しうすること 莫(なか)れ 時に 范蠡 無きにしも 非(あら)ず

翌朝、これを見つけた警護の武士たちは、

武士A いったい、なんだい、こりゃ?

武士B どこの誰だ? こんなの書いたの。

武士C この漢詩、いったいどういう意味だい? 分かんねぇなぁ。

武士たちは、その状況をありのままに先帝に申し上げた。

先帝は、児島高徳のその漢詩に込めた思いを即座に理解され、

先帝 ・・・。(ニッコリ)

武士たち一同 ・・・??(互いに顔を見合わせる)

結局その一件、彼らには何がなんだかさっぱり分からないままに、終わってしまった。

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児島高徳のこのメッセージに込められた意味を、ここで少し解説してみたいと思う。

古代中国・春秋時代、[呉(ご)]と[越(えつ)]、二つの国があった(注1)。

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(訳者注1)「呉越同舟」の語源。
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両国ともに、その君主は王道(おうどう)を指向せず、もっぱら覇道(はどう)を追求していた。

呉は越を討って取らんとし、越もまた呉を滅ぼして併合せんとしていた。互いに相い争うこと累年におよび、こちらが勝ったりあちらが勝ったり、互いに親の敵(かたき)となり、子の仇(あだ)となって、ついに両国は不倶戴天(ふぐたいてん)の関係になってしまった。

時は周王朝の末期、両国の君主は、[呉王・夫差(ふさ)]と、[越王・勾踐(こうせん)]。

ある時、勾踐は、大臣・范蠡を呼んでいわく、

勾踐 范蠡よ、わが国にとっては、かの呉国は、父祖代々の敵なるぞ。わしが、かの国を討たずして徒らに年を送っているのを見て、天下の人士はわしの事を、あざ笑ぉておるであろうのぉ。いや、それのみならず、わがご先祖様も、草場の蔭で泣いておられることであろうて。

勾踐 よって、今ここに、大々的なる兵力動員を行い、大軍を編成、わし自ら、軍を率いて呉国へ進軍し、呉王を滅ぼして父祖の恨みを晴らさんと、決意した。なんじは暫くこのまま、越国にとどまり、わしの留守を守れぃ!

范蠡 殿ォ! なりませぬ、それはなりませぬぞ!

勾踐 ナニィッ!

范蠡 私めが考えまするに、現在のわが国の国力をもってしては、呉国を打倒することは、極めて困難でありまする。その理由を、順を追ってこれよりご説明いたしまする。

勾踐 ・・・。

范蠡 理由その1:彼我の兵力比較。呉は、20万騎超、かたやわが国は、10万騎。小勢をもって大勢を滅ぼすは不可能なり。

勾踐 ・・・。(苦虫)

范蠡 理由その2:時節の良否。春と夏は「陽の時」にて、「賞」を行うべき時、秋と冬は「陰の時」にて、「罰」を行うべき時。今は春の初めでありますれば、功労ありし者に賞を与えるべき時にして、遠征に動員すべき時節にはあらず。

勾踐 ・・・。(イライラ)

范蠡 理由その3:賢者の存在。賢人が要職にある時、その国は強ぉござりまする。聞くところによりますれば、呉王・夫差の下には、[伍子胥(ごししょ)]なる者がおるとか。その智は深くして、人々からの信頼もあつく、深く思慮して主君に対して諫言をなすとか。伍子胥が呉国におる間は、かの国を滅ぼす事は困難でありましょうぞ。

勾踐 ・・・。(怒気ムラムラ)

范蠡 「麒麟(きりん)は角に肉有りて猛(たけ)き形を顕(あら)わさず」、「潜龍(せんりゅう)は三冬(さんとう)に蟄(ちつ)して一陽来復(いちようらいふく)の天を待つ」との言葉もござりまする。殿が、呉と越を合わせて支配し、ゆくゆくは中原の覇者たらんとのお思いあらば、ここはしばらくじっと我慢なされ、兵を伏せて武力を隠し、好機の到来をお待ちになられるのがよろしぅござりまする!

勾踐 えぇい、ふざけるなァ!

范蠡 ・・・。

勾踐 『礼記(らいき)』という書物にはの、「父の敵とは共に天を戴(いただ)かず」とあるぞ! わしももうすでに壮年、しかるに、未だに呉国を滅ぼすこともかなわず、にっくき夫差と共に、日月の光を戴いておるとは・・・まったくもって、恥の極みじゃ!

勾踐 かかるが故に、遠征を決意したというに、なんじは、「3つの理由」とかなんとか、たわけた事を申しおって、わしの心をくじかんとしおる。なんじのその「理由」とやら、ことごとく理にかなってはおらぬぞ!

范蠡 ・・・。

勾踐 よいか! まずは、「理由その1」。たしかにな、彼我の兵力比較で言えば、わが国は呉にはとてもかなわぬ。しかしな、戦の勝敗というものは必ずしも、その兵力の多寡によって決するものではないわ! それは、時の運と、将軍の作戦の優劣に依存するのじゃ。であるからこそ、これまでも呉越両国は何度も戦い、勝敗互いに相替わるところとなってきたのではないか。このような事、なんじも、すべて重々承知の事実ではないか、しかるになにゆえ、「越の少勢をもって、呉の大勢と戦う事は不可能」などと、ぬかしおるのか! これが、「なんじの武略の足らざる点・その1」じゃわい!

勾踐 次に「理由その2」、「戦うには時節が悪い」だと? いったいぜんたい、戦を始める時期は、すべて季節に応じて、などという事がありえようか? かりにも、さような事でもって、戦の開始時期を決しておったのでは、わが方の軍事計画が、どこの誰にでも、たやすく読めてしまうではないか! さような事では、勝利をおさめる事など、できようはずもないわ!

勾踐 「春と夏は陽の時ゆえ、戦を行うべからず」だと? フン! 殷(いん)の湯王(とうおう)が、夏の桀王(けつおう)を討った季節は、いったいいつであったかのぉ? まさに春であろうが! 周の武王(ぶおう)が、殷の紂王(ちゅうおう)を討ったのも春じゃわい。「天の時よりも地の利、地の利よりも人の和」というではないか。しかるになんじは、「今は征伐を行うべき時ではない」と強弁して、わしを止めようとする。これが、「なんじの智恵の浅き点・その2」じゃ!

勾踐 「理由その3」、「伍子胥が呉国におる間は、かの国を滅ぼす事は困難でありましょうぞ」だとぉ! さようなことを言っておったのではのぉ、わしはいつまでたっても父祖の敵を討って、草葉の陰のご先祖さまの恨みを晴らす事が出来ぬではないか! 「じっと、伍子胥とやらの死を待つ」などというのは、下の下じゃわい、わしと、そやつと、どっちが先になるか、分からんではないか! 人間の寿命は天が定めるものじゃからのぉ。老いた方が先に行くとは限らん。かようなものの道理というものをよく考えもせずに、わしをいさめおる、これが、「なんじの愚かなる点・その3」じゃ!

勾踐 だいたい、わしが長期にわたって、軍を動員・編成している事は、すでに先方にも知れわたっておろう。こちらの仕掛けが遅れ、かえってあちらから攻め寄せられ、などということになったならば、いくら悔いてみても、どうにもならぬわい。「先んずる時はすなわち人を制し、後れる時はすなわち人に制せられる」というではないか!

范蠡 殿!

勾踐 エェイ、言うな! 事は既に決したのじゃぁ!

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かくして、越王勾踐・治世11年目の2月上旬、勾踐は自ら10万余の軍を率いて呉国の領土へ攻め入った。

これを聞いた呉王・夫差は、

夫差 へぇ、来やがったかい・・・ハハハ、あんな少ない軍勢でもって、いったい何をするつもりなのかねぇ。まぁ、でも、相手が小勢だからって、敵をあなどっちゃぁいかんよねぇ。

夫差は、自ら20万の軍を従え、呉越国境の夫椒(ふそう)県という所に進軍し、会稽山(かいけいざん)を背後にし、大河を前に陣取った。そして、越側を欺くために、わざと3万騎だけを前線に展開し、残り17万騎を陣の後方の山陰深く潜ませて、越軍の来襲を待ちかまえた。

夫椒県まで進んだ越王・勾踐(こうせん)は呉軍と対峙した。

見れば相手はわずかに2、3万の軍勢、まばらに散開して馬を控えている。これを見て勾踐は、思いの外の小勢なりと、相手をあなどり、自軍10万に命令を下した。

勾踐 ものども、一気に目前の河水に駆け入り、馬筏を組んで渡河してしまえぃ!

越軍全員 ウォーッ!

頃は2月上旬、未だ寒さは厳しく、河水は氷のごとく冷々。兵士らはみな手がかじかんでしまい、弓も引けなくなってしまった。

対岸に上陸の後、馬が雪に足を取られて進退ままならない。しかし勾踐は、突撃指示の太鼓を鳴らし続けさせる。

越軍の太鼓 ボーン! ボーン! ボーン! ボーン!・・・。

越軍全員、我先にと、呉軍の陣へと突入して行く。

「越軍を難所に誘い込んだ後に、包囲殲滅」というのが呉軍サイドの作戦であった。その手はずどおりに、彼らはわざと一戦もせずに前線の兵を退却させ、会稽山(かいけいざん)に引きこもってしまった。

勢いに乗った越軍は、逃げる呉軍を追撃すること30余里、四軍の陣を一つに合わせて左右も顧みず、馬の息も切れんばかりに、思い思いに進み行く。

日が没する頃、呉軍側の思わくどおりに、越軍は難所に誘い込まれてしまった。

夫差 よぉし、行けぇ!

呉軍20万は、四方の山々から一斉に越軍に襲い掛かった。

勾踐を包囲網の中にとり込め、一兵たりとも漏ららさじとばかりに猛攻。

越軍サイドは、今朝の戦で遠駆けして人馬共に疲れはてている上に、兵力面においても劣っているのだから、一たまりも無い。呉の大軍に囲まれ、一所に追いつめられて防戦一方。前面の敵に当たろうと進めば、呉軍は険阻な地形をうまく活用し、弓を引き絞って待ち構えている。退却して後方の敵と闘おうとすれども呉軍は大兵力、越軍は疲労こんばいの極。進退ここに窮まりて、敗北は目前に迫る。

しかし、越王・勾踐は、堅固を破り鋭利を砕くこと、項羽(こうう:注2)の勢いをも越え、樊噲(はんかい:注3)の勇にも優るという人、呉の大軍中に駆け入っては十文字にかけ破り、巴(ともえ)のごとくに追い巡(めぐ)らす。一所に集中したかと思うと三方に散開し、四方を払って八面に当たる。

しかしながら、かくのごとき、臨機応変、陣形変化の百戦も空しく、越軍サイドは、戦死者7万余騎、勾踐はついに、戦いに敗れてしまった。

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(訳者注2)秦の滅亡後、漢の高祖と天下を争って戦い、滅亡した人。

(訳者注3)漢の高祖のもとにあった、武勇に優れた忠臣。「鴻門の会」では自らの一身を挺して、高祖を守った。
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力尽きた勾踐は、会稽山に駆け上がり、自軍の残存兵力を数えてみた。

勾踐 うーん・・・わが方の残存兵力はわずか3万、それも半ばは負傷しておるとか。まさに我が方、矢は尽き、矛も折れて、という有様か!

両軍の勝敗の行方をうかがって日和見(ひよりみ)していた周辺の諸侯たちも、その多くが呉サイドに加わって参戦してきた。かくして、呉軍の兵力は一気に膨張して30万、会稽山の周囲を囲む事、稲麻竹葦(とうまちくとう)のごとし。

勾踐は、陣の内に入り、臣下一同を集めていわく、

勾踐 わしの命運もすでに尽き、今まさにこのような包囲を受けておる。これは、戦の失敗によるものではない、天がわしを亡ぼすのじゃ。

越軍リーダー一同 ・・・。

勾踐 わしは明日、なんじらと共に敵の囲みを破り、呉王・夫差の陣に駆け入りて、屍(しかばね)を敵の軍門の前にさらそうぞ! しかして死して後、来世に再び生を受けて、その時にこそ、この恨みを晴らすのじゃ!

勾踐 かくなるうえは、わが国宝のすべてを焼却すべし。さらに・・・。

勾踐は、従軍していた今年8歳になる最愛の太子・王セキヨを呼び寄せた。

勾踐 太子よ、おまえは、いまだ幼い・・・父に死に遅れて敵の虜囚(りょしゅう)となり、どのような酷(むご)い目に、おまえが遭うかもしれぬと思うと、わしは気が狂いそうじゃ。

勾踐 また、かりに父が敵の虜となり、おまえより先に死したならば、おまえの苦しみは、いかばかりか・・・。

勾踐 今、おまえをここで殺してしまえば、わしも心安く覚悟を定められようぞ。明日の戦いにて、わしが討死して後、墓の下にての再会も叶うであろうて・・・三途の河の彼方までも、父子の恩愛を全うして、共に歩み行こうぞ。

左の袖にて涙を拭い、右の手に剣を引っさげて、最愛の太子をわが手にかけんとする勾踐。

その時、越軍・左将軍の大夫(たいふ)・種(しょう)が、勾踐の前に進み出ていわく、

大夫・種 殿、しばらく! しばらくお待ち下されませ!

勾踐 ・・・。

大夫・種 生を保って天寿を全うする事こそは、一大難事、死を軽んじて節に従う事の方がむしろ、安易な道。

勾踐 ・・・。

大夫・種 わが殿、なにとぞ、越の国宝を焼き捨てたり、太子様を死に至らしめるような事は、どうか、お止め下さりませ。この不肖・種、呉王を欺いて、殿をこの死地からお救いして見せましょうぞ。殿は、国へ帰られた後、再び大軍を起こされ、今日のこの恥辱をそそがれますように。

勾踐 そちに何か、良策があると申すか?

大夫・種 はい。

勾踐 ・・・。

大夫・種 今、この山を包囲して陣を敷きおるは、呉の上将軍にして太宰(たいさい)職にある嚭(ひ)という人物、実は、私の旧友にてござりまする。長い間、彼に接してきたゆえに、私めは嚭の性根、隅から隅まで知り抜いてござりまする。

勾踐 ・・・。

大夫・種 彼は、まことに血気盛んな勇者ではありまするが、その性は貪欲にして、とかく欲望につき動かされて行動し、後の禍というものを一切顧みず。

大夫・種 また、かの呉王・夫差のことを、世間では、「智は浅く、短慮、女性にだらしなく、道理に暗し」と、評しておりまするぞ。

大夫・種 これすなわち、君臣ともに典型的な、「だましやすい人間」ということでござりまする。

大夫・種 そもそもが、今日、越側に戦い利あらずして呉に包囲されるに至った事、もとはといえば、殿が范蠡殿のいさめを、お聞き入れにならなかったからでは、ござりますまいか?

大夫・種 願わくば殿、私のささやかな策をご採用あそばされ、敗軍数万の命をお救い下さいますように!

勾踐 ・・・。

大夫・種 殿! 殿! なにとぞ!

勾踐 ・・・「敗軍の将は再び謀(はか)らず」と言うな・・・今後一切の事は、種よ、お前にまかせた!

かくして勾踐は、宝物の焼却と、太子を死に至らしめることを止めた。

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大夫・種はただちに、主君の命の下、兜を脱ぎ、旗を巻いて会稽山からはせ下り、呉軍陣営の前まで進んで叫んだ。

大夫・種 越王、勢い尽きて、呉の軍門に降るなぁりぃ!

これをきいた呉軍30万は

呉軍全員 万歳! 万歳!

種は、呉の軍門から入って膝ではって歩き、頭を地につけて、呉の上将軍・太宰・嚭の前に平伏した。(注4)

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(訳者注4)恭順の意を現わす作法。
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大夫・種 君王の陪臣にして越王・勾踐の使者、小臣・種、つつしんで、呉の上将軍に、申しあげたき議、ここにありぃ!

太宰・嚭は、床几(しょうぎ)に座し、幕を上げさせて大夫・種に対面した。

種は、ただじっと頭を下げ、涙ながらに語った。

大夫・種 わが主、勾踐は、命運窮まり、勢いつきて、貴国の軍に包囲されるところとなった。よって今、我をして、「勾踐、今後長く呉王の臣下となり、わずかばかりの領土の主となる事を、なにとぞお許し願いたく」と、呉王陛下に、請わしめるものでありまする。願わくば、先日の罪を許され、今日の死を助けたまえ。

大夫・種 もしも将軍が、わが主・勾踐の命をお救い下さるというのであれば、越国を呉王に献じてその領地となし、国家の重宝はことごとく、将軍にさしあげ・・・さらに、わが国一の美人・西施(せいし)を、呉王の宴席に侍らせることと、致しましょうぞ。

太宰・嚭 ・・・。

大夫・種 我がこの願いをお聞き届けいただけず、あくまで勾踐を許さず、とならば、越の宝は全て焼き捨て、全軍心を一つにして呉王の堅陣に突入し、軍門の前に屍をさらすのみ!

太宰・嚭 ・・・。

大夫・種 以前より、我と貴殿とは、膠(にかわ)や漆(うるし)よりも固い交友を結んできましたな・・・貴殿がそれにお応えいただけるのは、今まさにこの時ですぞ! 将軍よ、一刻も早く、この事を、呉王に伝達して下されぃ。そして、わが心中のこの懸念、「わが主の命、助かるや否や」を、わが命のある間に、我に知らしめて下されぃ!

時には怒気を込め、時には嘆きを込め、言葉を尽くして説く大夫・種。太宰・嚭の顔も、徐々にほころんできた。

太宰・嚭 わかった、わかったよ! あっしが何とかしてみせましょうぜ。呉王に説いて、越王の命が助かるように、ひとはだぬぎやしょう。

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太宰・嚭は、呉王の陣へ赴き、夫差の側近くに寄って事の子細を述べた。

夫差 (大怒)なにぃ、越王の命を助けろだってぇ? なんてぇ事を!

太宰・嚭 ・・・。

夫差 そもそもだぁ、呉と越との対立、闘争、昨日、今日の事じゃぁ、ねぇでやんしょう? ここにきてようやく、勾踐の運も尽きはてて、こっちの虜になったんじゃぁないか。これまさに、天からあたしに与えられた好機ってもんだわね。

太宰・嚭 ・・・。

夫差 オヌシなぁ、こういう事ぁちゃぁんと分かってて、勾踐の命を助けろってのかい? ったく、あきれたもんだねぇ。とても、忠烈の臣下の言葉とは思えんぞい!

太宰・嚭 イヤイヤァ、殿ぉ、あっしは不肖の身ではありんすがねえ、いやしくも将軍の号を許され、越軍との戦場にて、謀をめぐらして大敵を破り、わが命を軽んじて、我らの側に、快勝をもたらしたんでやんすぜぃ! これひとえに、あっしの「赤心の功」ってやつでさぁねぇ。これまでに、殿のために、天下太平を図る上において、あっしが一日たりとも、思いを尽くして心傾けてねぇ時があったとでも、おっしゃるんでやんすかぁい?!

夫差 いやいや、そんなこたぁ思ってないよ、あたしゃぁ・・・まぁまぁ・・・。

太宰・嚭 事の是非っつうもんを、つらつらぁと考えてみやすとですねぇ、勾踐、戦に負けて勢い尽きたとはいえ、なおも、3万余の兵力を擁してやがんですぜぃ。完全武装の勇士ぞろいの3万ですぜぃ。

夫差 ・・・。

太宰・嚭 かたや、わが軍ときたひにゃぁ、どうですかい。そりゃぁね、人数だけは、めっぽう多いわさ。しかし、ヤロウドモ、昨日の戦で手柄を立てたばっかしでやんすからねぇ、「さぁ、今日からは、危ねぇとこは避けて通って、自分の身を全うして、戦後の恩賞にガッポリありつこうぜぃ」てな方向に、シャカリキになってまさぁねぇ。

夫差 ・・・。

太宰・嚭 あっちはってぇと、兵力は少ねぇけんど、志一つに固まってやがる。しかも、「もはや逃れる道はねぇ」ってんで、みな、覚悟固めてまさぁね。「窮鼠(きゅうそ)かえって猫を噛み、闘雀(とうじゃく)人を恐れず」ってぇ言いますからね、両軍再び戦えば、こんどはこっちが危ねぇわ。

夫差 ・・・。

太宰・嚭 だからァ、ここはァ、勾踐の命を助けてですねェ、わずかばかりの領地を与えて、臣下にしといた方が、ゼッタイよろしいに決まってまさぁねぇ。そうなったら殿は、「呉越両国の主」どころのさわぎじゃぁすみませんぜぃ、斉(せい)、楚(そ)、秦(しん)、趙(ちょう)の国々からもみな、殿に朝貢してくるようになるこたぁ、間違いなし! これこそがいわゆる、「根っこを深く張って、ほぞを固くする道」ってもんでさぁねぇ。

このように理をつくしの嚭の説得に、元来、欲にふける心がたくましい夫差は、

夫差 よし、わかったよ。おまえの言う通りに、しようじゃぁないか。さっそく会稽山の包囲を解いて、勾踐の命、助けてやるとすっか。

太宰・嚭は、急ぎ帰って大夫・種にこの顛末を伝えた。大夫・種は、大いに喜んで会稽山にはせ帰り、勾踐にこれを報告した。越軍の士卒全員の顔には一様に安堵の相が浮かび、みなみな大喜びである。

越軍一同 我らが万死を出でて一命を保てたのも、ひとえに、大夫・種殿の智謀のおかげ!

勾踐は降伏サインの旗を掲げ、会稽山の包囲は解かれ、呉の兵は呉国に、越の兵は越国へと帰っていった。

勾踐は直ちに、太子・王セキヨを大夫・種と共に帰国させ、自身は白馬に引かせた装飾の全くない馬車に乗り、越国君主の印を首にかけ、自ら「呉の下臣」と称して、呉の軍門に降った。

しかしなおも、夫差は勾踐に心を許さずに、

夫差 「君子は刑を受ける人に近寄らず」って、言うじゃぁないか。恨みを持ってる者に、何されるか分かったもんじゃぁないからねぇ。

夫差は、面会もせずに勾踐を獄吏に引き渡し、1日1駅のペースで、呉の姑蘇(こそ)城へ護送させた。勾踐のその哀れな姿を見て、沿道の者は残らず涙を流した。

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姑蘇城に着くとすぐに、勾踐は、手かせ足かせをはめられて、土牢に放りこまれてしまった。

夜が明けようとも、日が暮れようとも、月日の光も見えない、常にうす暗い中に過ごす毎日。歳月の移り変わりも全く分からないままに、時が過ぎていく・・・床の上に流す涙ゆえに、露のみ深し。

越国の大臣・范蠡はこれを聞いて、

范蠡 (内心)あぁ、おいたわしや、殿・・・この恨み、骨髄に徹して忍びがたいぞよ。よし、なんとしてでも、殿の命をお救い申し上げ、帰国を実現せしめよう。

彼は、謀をめぐらして会稽山の恥をそそごうと、肺肝を砕いて策を練った。

彼は、身分の低い人間に変装した。魚を入れたすのこを自ら背負い、魚商人のふりをして、呉に入った。

姑蘇城の近所に宿を取り、勾踐の居場所をきいてまわったところ、ある人が詳しく教えてくれた。

勇気百倍の范蠡は、その獄近くに行ってみた。しかし、警備には一寸の隙も無い。そこで、一筆したためて、それを魚の腹中に収め、魚を牢獄の中に投げ入れた。

勾踐は驚いて、その魚の腹を開いてみた。中から、次のように書かれた手紙が出てきた。

 西伯(せいはく:注5)は 羑里(ゆうり)の地にとらわれの身となり
 重耳(ちょうじ:注6)は 翟(てき)国へ逃げざるをえませんでした
 しかし 二人ともやがて その逆境から立ち上がり
 王位について 中国の覇者となりました
 絶望されてはなりませぬぞ
 敵に 殿の命を奪うような機会を与えるような事 決してなさってはなりませぬぞ

 原文:西伯囚羑里 重耳走翟 皆以為王覇 莫死許敵

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(訳者注5)西伯(周の文王)は殷の紂王によって囚われの身となったが、後に釈放された。

(訳者注6)重耳(晋の文公)は継母の讒言の災いを避けて翟国に逃亡し、後に帰国することができた。
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勾踐 (内心)これは、筆跡といい文体といい、范蠡からのものに違いない。あやつ、いまも、世にあって、わしの為に肺肝を尽くし、謀事をめぐらしてくれておるのじゃな。

勾踐には、范蠡の志のほどが哀れにも、あるいは、頼もしくも思えてきた。

勾踐 (内心)今日までは、たった一日でも、いや、しばしの間も、この牢獄の中で生きているのがつらかった。もう死にたいと思っておった。しかし、この文を見た今、わしの心中には、生への執着がムクムクとわいてきたわい!

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ちょうどその頃、呉王・夫差は、体内にできた結石が原因で病に臥し、長期にわたって心身衰弱という状態になってしまった。

シャーマンがいくら祈祷を行ってみても効験はなく、医師がいくら処置しても病は一向に癒えない。ついに、「もういよいよか」という所まで、来てしまった。

ところがここに、他国から来た一人の名医あり、いわく、

医師 呉王さまのご病状、まことに重篤(じゅうとく)ではありまするが、医学的に見てもう絶望、という所までは、来てはおりませぬ。呉王さまの体から出でたる結石破片をば、口に含みて、その五味、すなわち、[辛]、[酸]、[塩]、[苦]、[甘]の様相を、私に報告してくださる人がおられれば、その病、たやすく療治してみせましょうぞ。

夫差 じゃ、だれか・・・(ヒィヒィ)その結石を・・・(ヒィヒィ)舐めてみてだな・・・(ハァハァ)その味を・・・(ヒイヒイ)医師に報告しろ(ハァハァ)・・・。

左右の近臣たちは互いに周囲を見回すばかり、誰一人として、それを口に含んで五味を調べてみようとするものが無い。

これを伝え聞いた勾踐は、泪(なみだ)を抑えていわく、

勾踐 わしはかつて、会稽山の包囲下にあった時に、罰せられるべき命を助けられた。かくなるごとく、ご赦免が下る日を待っておれるのも、ひとえに呉王殿の慈恵の厚恩のおかげ。今この時にこそ、このご恩をお返しせねば、いずれの日にかお返しできようか。

彼は、ひそかに、その結石を取りよせて舐め、その味を医師に告げた。その内容をもとに、医師は治療を行った。

夫差の病は、たちまち平癒した。

夫差は大いに喜び、

夫差 (内心)勾踐は、誠意をもって、あたしの命を救ってくれたんだわなぁ・・・。じゃ、今度はこっちが、誠意のお返し、しなきゃぁ。

かくして、勾踐は牢から出された。さらに、夫差は、「越国を勾踐に返却の後、彼を越へ帰還させよ」との命令を出した。

呉王の臣・伍子胥(ごししょ)は、夫差をいさめていわく、

伍子胥 「天の与えたるを取らざるは、かえってその咎を得る」って言いますぜ。越の地を返すぅ? 勾踐を帰国させるぅ? 冗談じゃぁねぇ! 千里の野に、虎を放つようなもんじゃぁ、ござんせんか。そのうちきっと禍となって、こっちにはね返ってくるにきまってまさぁね。やめときなさいってばぁ、殿ぉ!

しかし夫差はこれを聞き入れず、ついに、勾踐を越に帰らせてしまった。

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勾踐が車の轅(ながえ)をめぐらして越に入った時、車の前に、無数の蛙が飛び跳ねた。

勾踐 (内心)これはきっと、勇士を得て本懐をとげることができる、との瑞相じゃわい。

彼は、車から下りて蛙たちを礼拝した。

勾踐は越国の都に入り、かつての住まいに帰還した。

3年もの歳月の経過の中に、宮殿は荒れ放題になっていた。梟が、松や桂の枝に鳴き、狐が、蘭や菊の草むらに隠れ、清掃する人も無いままに、庭には落ち葉が静かに堆積。まことに寒々とした光景である。

勾踐、死を免れ帰国、との報を聞き、范蠡と太子は宮中へ馳せ参じた。そして、勾踐の妃・西施(せいし)もまた。

この西施という女人、その容色は世に並ぶ者なく、絶世の美人。勾踐の寵愛はなはだしく、ほんの一時も彼女を自分の側から放そうとしなかった。

勾踐が呉に捕えられた時から、難を逃れるために世間から身を隠してひっそりと暮していた。今、彼の帰国の報を聞き、後宮へ急ぎ帰ってきたのである。

3年もの間、勾踐の帰国を待ちわびつつ、耐ええぬ愁いに嘆き沈んでいたのであろう、髪もとかず、肌の艶さえも消え失せたその姿は、限りなく気品に満ち、梨花一枝春雨にほころび、といった風情。いやいやとにかく、たとえようもないその美しさ・・・。

公卿、大夫、文武百司、ここかしこより、王宮にはせ集まり来たりて、車は都の道路を疾走し、宮中の庭には装飾品の音がさざめき、堂上堂下、再び花が開いたかのごとく。

このような中に、呉国から使者がやってきた。

勾踐は驚き、范蠡をつかわして相手の用向きを問うた。

使者は、とんでもない事を言い放った。

呉よりの使者 ウチらの王様の夫差様は、めっぽう女好きでさぁ、ウノメタカノメで、世界中から美人を集めてござるわ。ところがよぉ、いまだに、西施のような美しい女人には、出会わずってわけさぁね。でだな、たしか越王は、会稽山の例の包囲を解かれた時に、バッチシ約束しちゃってるよなぁ、西施をこちらに渡すって。

范蠡 ・・・。

呉よりの使者 さ、トットと、その西施とやらを、こちらに渡してもらおうかい。呉の後宮へお迎えして妃の位につけ、殿に、トッテモ大事にしてもらっちゃうんだからさぁ。

呉の使者よりのメッセージ内容を范蠡から聞き、呆然と立ち尽くす勾踐。

勾踐 なに! 西施をよこせじゃと・・・。

勾踐 わしは、夫差(ふさ)に降伏を余儀なくされた恥をも堪え忍び、彼の体内から出でし結石を舐め、命ながらえた。それはなにも、国を保ってわが身の栄えを得ようなどと、してのことではないわ、ただただ、西施と共に、末永く過ごさんとしてのことじゃ。

勾踐 彼女といま生き別れになってしまい、死後にしか再会を期する事ができぬというのであれば、国家の君主の地位を保てたとて、それがいったい何になろうか。

勾踐 えぇぃ! たとえ越呉の和約破れ、再度わしが呉の虜になったとしても、西施を呉に送るなど、もっての他!

范蠡 (涙)殿・・・「主君が困惑の中にある時、悲しまざる臣は無し」。しかしながら、殿がいま、西施様に心ひかれ、彼女をどうしても呉に送らぬ、となりますれば、呉は再び、我が国に対して戦端を開き、呉王は兵を興すこととなりましょう。さような事態に至れば、今度は、越が呉に併合されるどころの事ではすみませぬぞ。西施様は永久にあちらに奪い取られ、殿のお家は断絶!

勾踐 えぇい、しかし。

范蠡 (涙)殿、私めがつらつら考えまするに、夫差は大の女好き、色に迷う事、はなはだしきものがありまする。

范蠡 西施様があちらの後宮にお入りになられるやいなや、夫差が西施様の色香に溺れてしまい、政治に行き詰まることは必定。

范蠡 かくして、呉の国力が弱り果て、民がみな夫差に背を向けるようになったその時を狙って、兵を起し、呉を攻める。さすればたちどころに、勝利はわが方のものとなりましょうぞ。

范蠡 これこそが、殿の子孫に幸いをもたらし、西施様と末永く、夫婦の契りを全うできる策でありまする。

涙を流しながら、道理を尽くしていさめる范蠡の説得に勾踐もついに折れ、西施を呉へ送ることに同意した。

つかの間も夫と離れていたくない仲をムリヤリ引き裂かれ、いまだ幼き太子をも越に置いたまま。なれぬ長旅へと、まさに宮殿を出んとする西施や、哀れなるかな。

愛する家族との離別を悲しんで、涙はしばしも止らず、たもとの乾く暇も無し。

勾踐もまた、これを限りの別れとなるのであろうかと思うと、耐えられない思いに伏し沈む。

西施が行ってしまった彼方の空をはるばると眺め、夕暮れの山をゆるやかに流れ行く雲を見つめる勾踐の頬を、涙は雨のようにしたたり落ちていく。

一人空しく床に臥し、せめて、夢の中でだけでも彼女と逢えはしまいか、と思うと、落ち着いて眠れもしない。まぶたの裏にはただただ、彼女の面影が、はかなくただようばかり・・・いかんともしがたい嘆きの中に、苦悩に沈む勾踐。

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西施という女人は、まさに当代天下第一の美人。

メイキャップを整えて一度笑顔を浮かべれば、その百の媚びは男の眼を迷わせ、宮中の池上の花もみな色あせて見えてくる。物陰に隠れたその妖艶な姿をかいま見るだけで、千の姿は人心をとろけさせ、雲間の月光も光を失わんばかり。

ひとたび呉の後宮に入り、夫差の傍らに侍ったその瞬間から、夫差は完全に彼女に心奪われてしまった。

夜を徹して歓楽にふけり、政治は完全に放棄。昼は昼で彼女と共に宴会ばかり。国の危うきをも全く顧みなくなってしまった。

彼女と共にある宴の場所を、もっと趣向のあるようにしようとの思いから、雲の上にそびえ立つ宮殿を建造し、その上から、四方300里に拡がる山河を枕の下に見下ろす。

あるいは、まだ花も開かぬ早春の季節には、自分の車の通る路に麝香(じゃこう)を発する物体を埋め、芳香ただよう中を行く。あるいは、月が出ぬ夏の夜、離宮に蛍を集めて灯となし・・・。

このように、夫差は、西施に溺れる日々をひたすら送っていくばかり。呉の国中、上は荒(すさ)み、下は廃(すたれ)るといえども、ずるい臣下は夫差におもねて、これをいさめようともしない。呉の国王は、恒常的・酔生夢死状態、何もかも忘却してしまったかのような日々を送っていく。

見るに見かねた伍子胥(ごししょ)は、夫差に面会していわく、

伍子胥 殿ぉ・・・殷(いん)の紂王(ちゅうおう)は妲己(だっき)に迷って、世を乱し、周(しゅう)の幽王(ゆうおう)は褒姒(ほうじ)を愛するあまり、国を傾けちまいやがったんですよぉ。そういう歴史の前例、よもや、お忘れじゃぁござんせんでしょうねぇ?

夫差 ・・・。

伍子胥 殿の西施グルイは、紂王や幽王の域を、はるかに越えちまってますぜぃ。このまま行ったんじゃぁ、わが国が傾くのも、そぉ遠い事じゃぁねぇんでは? 殿ぉ、お願いですから、こんなばかな事は、今すぐ止めにしておくんなさいましぃ。

夫差 (不機嫌)・・・。

伍子胥 (内心)こりゃぁダメだぁ。ナニ言ったって、聞きいれてくんねぇや。

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ある日、例によって、夫差は西施の為に宴を催し、群臣を招集して宮庭の花を見物しながら、気持ちよく酔っぱらっていた。そこへ伍子胥が、威儀を正してやってきた。

玉を敷き、金をちりばめた階段を、彼は着物のすそを高く掲げ、まるで水たまりの上を歩くかのような格好で上がってきた。

夫差 おいおい、子胥や、いったいぜんたい、どういうわけで、そんな妙な歩き方するのかい?

伍子胥 いやねぇ・・・思うにぃ、ここ、宴が今開かれているこの姑蘇の台も、そのうちきっと、越王勾踐に滅ぼされちまうんでしょうねぇ。このあたり一帯、草深ぁい露の宿る地になっちまうのも、そう遠い事じゃぁねぇでやんしょう。

伍子胥 あっしの命がそれまでもってたならばねぇ、昔、住んでたここの跡をたずねてくる時にゃあ、袖からしたたり落ちる悲痛の涙、さぞかし、ここいら一面に、深ぁく溜まることでやんしょう・・・てなグアイにね、行く末の秋を思いめぐらしやしてですねぇ、じゃ、今のうちから、「深ぁい涙の溜まり」の上を歩く練習でも、しとこかなってね。だから、こういう歩き方、してるんでやんすよ。

夫差 ・・・。

このように、忠臣・伍子胥は夫差を再三再四いさめるのであるが、彼は一向にその言葉を聞き入れようとしない。

伍子胥 (内心)もうこうなったら、自分の命をうっちゃってでも、国家の危機を打開せんとなぁ!

彼はついに、砥ぎたての青蛇剣をひっさげて宮中に参内した。

剣を抜いて握りしめ、歯噛みしながら、夫差の前に突っ立って、叫ぶ。

伍子胥 殿! あっしが今、この砥ぎすまされた剣を持って、ここへやって来たのは、いったい何のためか、お分かりでやんすかい?

夫差 !!!

伍子胥 邪を退治し、国の敵を払う為でやんすよ。

伍子胥 わが国が傾いていくその原因をつらつら考えてみるに、全ては、あの女、西施に、行きつきまさぁね!

夫差 !!!

伍子胥 アヤツこそは、極めつきの国家の敵というしか、ねぇでやんしょう。殿、お願いですから、あの女の首を、この剣ではねちまって、わが呉国をお救いくださいまし!

忠言も耳に逆らう時には、君主もまた非を犯す、という。夫差は、烈火のごとく怒り、

夫差 こいつぅ! 言わしときゃイイ気になりやがってぇ! 伍子胥、死刑ーィっ!

伍子胥は動じない。

伍子胥 そうですかい、死刑? いいでしょう! どうぞ、死刑にしておくんなさいまし。君主に逆らって諫言して、節を守って死んでくんだからね、まさに、我、臣下のカガミなりってとこでさぁね。

伍子胥 越の兵の手にかって死ぬよりゃ、主君の手にかかって命果てた方が、よっぽどましって、もんでさぁね。恨みの中にも、悦びありってとこだわさ。

伍子胥 ただしねぇ、この際、言っときますよぉ! あんたが、諫言を聞き入れずに、あっしに死刑を賜るってこたぁ、これは既に、天があんたを見捨ててしまってるって事の、何よりの証拠だわさ。今から3年以内に、きっとあんたは、勾踐に滅ぼされ、哀れにも刑罰に伏す身になりやしょうぜ。

伍子胥 夫差さま、お願いですから、あっしの両眼をえぐり取ってね、呉の都城の東門の上に、架けて下さいやし。そうやってから、この首をはねて下さいよ。あっしのその一対の眼、崩れて形が無くなってしまう前に、あんたが勾踐の捕虜になって死刑台に向かって歩いていくの、トップリと拝ませていただきやして、門の上から大笑いしてあげやすぜ。

夫差 えぇい、黙れ、黙れぇ! こいつをさっさと、殺せぇ!

かくして伍子胥は死刑となり、その両眼は彼の希望通りに、呉の東門の旗鉾の上に架けられた。

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この事件の後は、夫差がどのような悪徳を積もうとも、あえていさめようとする者は一人もいなくなってしまった。群臣は口をつぐみ、万人は目配せしては、夫差を批判するのであった。

これを聞いた范蠡は、

范蠡 よぉし、ついに時、至る!

彼は喜び勇み、自ら20万の大軍を率いて、呉へ押し寄せた。

夫差はその時、呉に背いた晋(しん)国を攻めるための進軍の途上にあり、呉の防衛に割ける兵は一人も残っていなかった。

范蠡は、まず西施を取り返して越へ送り、その後、姑蘇台を焼き払った。

斉と楚の両国も越王に志を通じていたので、30万の兵を出して、范蠡に力をあわせた。

これを聞いた夫差は急遽、晋との戦を中断して呉へとって返し、越軍に戦いを挑もうとした。しかし、前には呉・越・斉・楚の雲霞(うんか)のごとき大軍が待ちかまえており、後からは晋の強兵がここぞとばかりに追撃してくる。

大軍に前後を囲まれて逃れるすべもなく、夫差は、捨て身の戦を3日3夜にわたって展開。范蠡は兵を次々と交替させ、息もつがせず攻め続けた。呉軍は3万余が討たれてしまい、わずか100騎ばかりになってしまった。

夫差は、自ら敵に相対すること32回、夜半に包囲網を突破し、67騎を従えて姑蘇山に登り、越王・勾踐のもとへ、使者を送った。

呉の使者 かつて、会稽山にて窮地に陥いられた越王様を、呉の夫差は、お救け申しあげやした。これより後、呉王・夫差は越の臣下となって、越王のおみ足を、掌の上に頂戴いたしやしょう。もしも、昔の会稽でのこちらの貸しをお忘れでねぇならば、夫差を、今の死地からお救い下さいやしておくんなさいまし。

このように、言葉を尽くし礼を尽くして許しを請う使者の言葉を聞きながら、勾踐は、かつての我が無念の思いを回顧した。

勾踐 あの時のわしは、今の夫差にそっくりであったのぉ・・・彼の身に迫る悲哀、わしにはとても、他人事とは思えん・・・殺してしまうには、あまりに忍びない・・・夫差の命、助けてやろうかのぉ・・・。

これを聞いた范蠡は、勾踐の前に参上し、彼を直視して言い放つ。

范蠡 殿! ついこのあいだの事なのに、はや、お忘れか!(注7)

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(訳者注7)原文では、「柯(カラ=斧の柄)を伐(き)るに其(そ)の則(のり)遠からず」
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范蠡 会稽で、殿が呉軍の包囲を受けし時、天は、越を呉に与えた。しかるに、夫差はそれを受け取らなかった。よって、今日のこの禍に遭ぉてしもぉたのでありまする。

范蠡 今度は、天はかつてとは反対に、越に呉を与えました。ならば、これを受け取ってしまわねば、わが越は再び、呉と同様の災厄に、直面することとなりましょうぞ。

范蠡 君臣ともに肺肝砕きて、呉に対して策をめぐらすこと21年、その成果を一朝の中に棄てん事、これを悲しまずにはおれましょうや。「君主が非を行う時には、君主の命に従わず」、これすなわち、臣下の忠節というもの。

呉王よりの使者が呉の陣営に帰還する前に、范蠡は、自ら攻撃の太鼓を打ち鳴らして兵を進め、ついに、夫差を生け捕りにして、軍門の前に引きずり出した。

後ろ手にしばられて、呉の都城の東門を出て行く夫差を見下ろす一対の眼、それこそは、決死の諌言空しく首をはねられ、門の上にかけられた伍子胥の両眼であった。

あれから3年間、朽ちる事も無く、そのまなじりはキッと見開き、今また夫差と再会して、彼をあざ笑っているかのようである。

夫差は、これに面を合わせるのが、さすがに恥ずかしく思えたのであろう、袖を顔に押し当て、首を低く垂れて、そこを通り過ぎていった。これを見送る数万の兵の顔には、涙が・・・。

その後すぐに、夫差は、獄吏に身柄を引き渡され、会稽山の山麓で、ついに首をはねられてしまった。

古より俗に言う、「会稽(かいけい)の恥(はじ)をきよむる」とは、まさにこの故事の事を言うのである。

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この後、越王・勾踐は呉を併合したのみならず、晋、楚、斉、秦を圧倒し、会盟の主として、中国の覇権を握ったのであった。

勾踐 范蠡、そちは、実によくわしに尽くしてくれた。その功績、偉大なるものである。よって、そちを、万戸侯(注8)に封じようと思う。

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(訳者注8)人民1万戸を統べる領主。
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范蠡 殿、ありがたきお言葉ではありまするが、私めはそれを、辞退申し上げたく存じまする。「大名(たいめい)の下には久しく居るべからず、功成り名遂げて身退くは天の道なり」と申しますからな。

その後、范蠡は姓名を替え、人々から「陶朱公(とうしゅこう)」と呼ばれるようになり、五湖(ごこ)という所に隠居して、世間から身を隠した。

 釣糸を垂れ 芦が花さく岸に宿すれば
 その花は 蓑の半ばを覆ってしまった まるで雪が降ったかのように
 歌いながら 紅葉の樹陰を漕ぎ行く
 孤舟(こしゅう)に 秋を載せながら
 広大な天空の中に 月を見る

このようにして、俗世間を離れて悠々自適の生活を送り、白頭の翁となっていった。

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児島高徳は、以上に述べたような中国の故事を思い起こし、一句の詩に万感の思いを込めて、自らの志を先帝に密かに伝えたのであった。

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さて、後醍醐先帝の方に、話を戻そう。

先帝は、出雲の三尾湊に、10余日間、逗留された。

やがて順風となり、船乗りたちは一斉にとも綱を解いて、出帆の準備を整えた。

軍船300余隻、前後左右に並べ漕ぎ、万里のかなたに連なる雲に沿って、つき進んでいく。

青い海原は静かに暮れゆき、西北の波間に日は没す。はるかかなたに見える雲と山、東南の天に出づる月・・・漁船が帰りゆく方向を見やれば、岸にかすかに煌(きら)めく、ともし火の列。

日没とともに、夕靄たちこめる芦茂る岸辺に船を停留し、夜明けとともに、松生える入り江の風に帆を揚げ、海路に日数を重ねること、都を出てから26日目、ついに、船は隠岐島(おきとう)に到着。

隠岐の守護・佐々木清高(ささききよたか)は、府の嶋(こふのしま)というところに黒木の御所(くろきのごしょ:注9)を建て、そこを先帝の御座所と定めた。

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(訳者注9)削らないままの丸太で立てた建物。
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先帝の側近く仕える人といえば、千種忠顕(ちぐさただあき)、一条行房(いちじょうゆきふさ)、そして、后・廉子(れんし)のみ。かつての京都の御所でのきらびやかな住いとはうってかわり、憂き節多い竹の垂木(たるき)、涙の渇くひまも無き松の垣。

後醍醐先帝 (内心)あーぁ、こないなとこ(所)で、これから生きていくんかいなぁ。一晩も、がまんできひん。

担当の者が夜明けを告げる声、警護の武士が定刻に氏名奏上する声だけが、先帝の枕辺近くに響き、寝所へ入っても、少しもまどろむ事ができない。

京都御所・清涼殿(せいりょうでん)の寝所の「萩の戸」を開いて始まっていた朝の政務も、もはや、ここでは行うすべもない。それでもなお、暁の定刻のお勤め、神々への礼拝を怠られない先帝陛下であった。

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世間の声A ほんまにまぁ、今年は、なんちゅうタイヘンな年やったことか。

世間の声B いったいぜんたい、どないな年のメグリアワセでもって、こないな事になりやしたんかいなぁ。

世間の声C 百官、罪無くして、流刑先の月に、憂いの涙を落とし、

世間の声D 日本の最高位にあられるお方が、位から離れはってからに、都を遠く離れた異郷の地に、心悩まさはる事になるやなんて。

世間の声E 天地が開けてよりこの方、こないにトンデモない事、聞いた事もおへん。

世間の声F 天に昇る太陽も月も、自分はいったい誰の為に輝いてるんやろかと、恥じ入る思いどすやろなぁ。

世間の声G 心無き草木も、悲しみのあまり、花を開かす事すら、忘れてまうんちゃうやろか・・・。

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