太平記 現代語訳 6-2 楠正成、再起す

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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元弘(げんこう)2年(注1)3月5日、北条時益(ほうじょうときます)と北条仲時(ほうじょうなかとき)が六波羅庁(ろくはらちょう)の南庁と北庁の長官に任命されて、鎌倉からやってきた。ここ3、4年は、常葉範貞(とこはのりさだ)が一人で南北双方を兼務していたのだが、常葉が強く辞意を表明したので、というような事情であったようだ。

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(訳者注1)[新編 日本古典文学全集54 太平記1 長谷川端 校注・訳 小学館]の注によれば、この二人が六波羅庁の長官に就任したのは、実際には、元徳2年(1320)であり、元弘2年(1332)ではない。
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楠正成(くすのきまさしげ)は昨年、赤坂城で自害し焼死したように見せかけ、その後、潜伏し続けていた。そのカモフラージュにすっかりだまされた鎌倉幕府は、彼の本拠地一帯の土地を、湯浅定佛(ゆあさじょうぶつ)を地頭に任命して守らせていた。

河内国ではもう騒動など起きないであろうと、タカをくくっていた幕府をあざ笑うかのように、同年4月3日、楠正成は、500余の軍勢を率いて、にわかに湯浅の居城へ押し寄せ、息もつがせず攻めまくった。

城中の兵糧準備量が乏しかったからであろうか、湯浅定佛は、自分の領地、紀伊国・阿瀬河(あぜがわ:和歌山県・有田郡・有田川町)から、人夫5、600人ほどを使って兵糧を運搬させ、夜の間に城へ運び入れさせようとした。

この情報をどこからともなくキャッチした正成は、さっそく部下を兵糧運搬ルート中の要害ポイントへ送り込み、その兵糧を全部ぶんどってしまった。

楠正成 よぉし、オマエラな、まずはその俵から米、完全に出してしまえ。米出したらなぁ、かわりにそこに武器入れるんじゃ。

楠部隊一同 ほいほいー!

楠正成 どうやぁ、入れ終わったかぁ。よぉしよし、ほいでやな、その俵を馬に背負わせてやな、人夫らにひかせて湯浅の城へ向かわせい!

楠部隊リーダーA おかしら、わてらは、どないしたらえぇんや?

楠正成 兵糧運搬の護衛隊になりすまして、ついて行けぇ!

楠部隊一同 よっしゃぁ!

彼らは湯浅軍メンバーになりすまして、城中へ入ろうとする。城を取り巻く楠軍メンバーたちは、彼らを追い散らそうとするフリをして、追いつ返しつの戦いを展開。

脚本and演出・楠正成のこのヤラセの戦闘ドラマに、湯浅側はまんまとひっかかってしまった。

湯浅定佛 兵糧を運搬してきた我が軍のもんらが、敵に襲われとるやん、はよ、あいつらを応援したれぇ!

かくして、湯浅側は城中からうって出て兵糧運搬隊を護った結果、「招かれざる人々」を城の中へ引き入れてしまった。

何の苦もなく城の中に入った楠軍メンバーは、俵の中から武器を取りだし、厳重に武装した後、トキの声を上げた。それと同時に、城の外の楠軍も、木戸を破り塀を越えて攻め入った。

城の内外から楠軍に囲まれてしまった湯浅定佛は、もはやなすすべなく、すぐに首を延べて楠側に降伏した。

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降伏した湯浅軍団をあわせて、楠軍は700余騎の勢力に膨張。その後、和泉(いずみ:大阪府南部)と河内(かわち:大阪府東部)の両国を制圧、大勢力に発展。

5月17日には、住吉(すみよし:大阪市・住吉区)、天王寺(てんのうじ:大阪市・天王寺区)付近にまで進出、渡部橋(わたなべばし:場所不詳)の南方に陣取った。

和泉・河内からはひっきりなしに早馬が京都へ飛ぶ。

「楠軍、渡部橋付近を拠点とし、京都へ攻め上らんとす!」

との報に京都中騒然、武士は東西に馳せ散り、貴賤上下、周章狼狽、この上なし。

さっそく、南北両六波羅庁に、首都圏近国の軍勢が雲霞(うんか)のごとく馳せ集まってきた。しかし、「楠軍、今にも京都へ攻め込んでくるか!」と待ちかまえてみたものの、一向にその気配もない。

六波羅庁では、ミーティングが行われた。

北条仲時 楠軍が今日、明日にでも、京都へ攻め上ってくるってな情報、飛び交ってたけど。

北条時益 どうもあれは、デマだったようだなぁ。

六波羅庁メンバーB あいつら、京都攻めできるほどの、大兵力でも、ねぇんでは?

六波羅庁メンバーC あっちが攻めて来ないってんなら、こっちから押しかけてくってのはどうです? バァット攻めて、イッキに、うっ散らかしちゃいましょうやぁ。

六波羅庁メンバーD それ、えぇですぅ。

北条時益 大将には誰を?

六波羅庁メンバーE そうでんなぁ・・・ここはひとつ、隅田(すだ)と高橋(たかはし)に、まかせてみてはぁ?

六波羅庁メンバー一同 まっ、そんなとこかなぁ。

ということで、隅田と高橋の両人を六波羅庁軍の大将に任命、京都市内48か所の警護所詰めの連中や在京の武士、さらに首都圏内諸国の兵たちをあわせた混成部隊を率いて、天王寺へ向かわせた。

5月20日、六波羅庁サイド5000余は、京都を出発。尼崎(あまがさき:兵庫県・尼崎市)、神崎(かんざき:尼崎市)、柱本(はしらもと:大阪府・高槻市)のあたりに陣取り、篝火(かがりび)を焚いて夜明けを待った。

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六波羅庁サイドのこの動きをキャッチした楠正成は、自軍の2000余騎を3つに分けた。

本隊を住吉・天王寺のあたりに伏せて配置の後、わずか300騎のみを渡部橋の南方に展開し、大きな篝火を2、3か所焚いて、六波羅庁軍に対峙させた。

楠正成 「なんじぇーぃ、楠軍いうても兵力、たった2、300しかおらんやんけ!」てなわけでな、六波羅庁軍はきっと油断して、渡部橋を渡って、川のこっち側に進出してきよるやろう。そこを狙ぉて、全軍繰り出し、イッキに総攻撃しかけたんねん。まぁ見とれぇ、あいつら残らず、川ん中へ、追い落としてしもたるわい!

翌5月21日、六波羅庁軍5000余は、全部隊を集中した後、渡部橋まで進んだ。

対岸にひかえる楠陣を見わたしてみれば、その数、わずかに2、300足らず。それも、やせ馬に綱かけたような武者どもばかり。

隅田 なんや、なんやぁ、「和泉・河内の大軍」と聞いてたのに、この程度かいなぁ。

高橋 よぉよぉ見たら、まともに戦えそうなやつなんか、一人もいぃひんやんかぁ。

隅田 あいつら、みんなまとめて生け捕りにして、六条河原に引きずり出して処刑してなぁ、六波羅庁から恩賞ガッポリ頂こうや、なぁ、高橋殿。

高橋 よぉし、隅田殿、行くぞ!

隅田 心得た!

二人は先頭切って橋を一気に渡った。これを見た全軍、我先にと、馬を進める。橋の上を渡る者あり、川の中を進む者あり、続々と対岸にかけ上がっていく。

これに対して楠軍は、遠矢を少しばかり射かけた後、一戦もせずに天王寺の方へ退却。これを見た六波羅庁軍、勝ちに乗じ人馬の息もつがせずに、天王寺北辺のあたりまで入り乱れながら進撃。

戦況の成り行きをじっと見つめていた正成、

楠正成 よぉし、そろそろ敵さん、人も馬も大分疲れてきよった頃やろて。ここらでイッキに、イテもたろかい。

楠正成 みな、よぉ聞けよぉ! これから、わが軍勢を3手に分けて、3方向から敵を攻撃やぞぉ!

楠軍団一同 おーぅ!

楠正成 まずは、第1軍団!

第1軍団一同 ホイホイ!

楠正成 オマエらはな、四天王寺、そうや、四天王寺の東側からな、敵を左手に見ながら襲いかかっていけ! 分かったか!

第1軍団一同 了解ーっ!

楠正成 次、第2軍団!

第2軍団一同 はいなぁー!

楠正成 オマエらはな、四天王寺の西や、西門の石の鳥居から出て、魚鱗陣形(ぎょりんじんけい:注2)で敵にかかっていけ! 魚鱗やぞ、分かったなぁ!

第2軍団一同 あいあいさー!

楠正成 第3軍団ーん!

第3軍団一同 イヨッ、待ってましたぁ!

楠正成 オマエらは、住吉大社の松林の陰からな、鶴翼、そうや、鶴翼陣形(かくよくじんけい:注3)に展開してな、敵を迎え撃て! 鶴翼やぞ、分かったかぁ!

第3軍団一同 よっしゃぁ!

(訳者注2)魚の鱗のように互いの間隔を密にして、集中して組む陣形。

(訳者注3)羽を大きく広げた鶴のような形態で、左右に広く展開する陣形。

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整然たる布陣で前進して行く楠軍。かたや、六波羅庁軍はといえば、兵力だけは圧倒的に多いものの、陣形も何もあったものではない。何の秩序も無く入り乱れており、兵力において劣る楠軍に逆に包囲されてしまっているような感さえある。

隅田 なんかマズそうなフンイキやなぁ、高橋殿!

高橋 うーん、もしかして楠、あの背後にさらに大軍を伏せとるん?

隅田 とにかくこのままでは、アカンわ。このあたりは足場が悪ぅて、馬の足も立たんやんか。もっと広い所へ敵を誘い出して・・・ほいでもって、敵軍の人数をよぉよぉ確かめてから・・・それに応じて、わが軍を適当に振り分けてから・・・それから勝負するということで・・・なぁ。

高橋 それがえぇみたいやねぇ。おーい、みんなぁ、退けぇ!

六波羅庁軍メンバーF なにぃ! 「退け」やて!

六波羅庁軍メンバーG さ、早いこと退却や。

六波羅庁軍メンバーH 敵に退路を断たれんうちにな。

彼らは一斉に渡部橋めざして退却を開始。これにつけこんだ楠軍、三方からトキの声を上げて殺到して行く。

ひたすら退く六波羅庁サイドのメンバーの視野に、やがて渡部橋が見えてきた。

隅田 おいおい、ちょっと待てやぁ・・・このままズルズル退却していったんでは・・・これ、メッチャ、マズイんちゃう? 川を背にして戦うことになってしまわへんかぁ?

高橋 ムムム・・・おぉい、みんな、ストップぅ、ここでストップやぁ! 踏みとどまれぇ、ここで踏みとどまって、敵を迎え撃てぇ!

隅田 敵は小勢やぞぉ! とにかく、とにかく、ここで踏みとどまれぇ!

高橋 えぇい、もぉ! 踏みとどまれと、言ぅてるやろがぁ!

六波羅庁軍メンバーF そないなこと言わはったかてな、前の方行っとった連中らが、次から次へとこっちへ退いて来よんねんもん、どんならんわ。

六波羅庁軍メンバーG わたいら、ただ、人の波に押し流されてるだけだっせぇ。

六波羅庁軍メンバーH コラァッ、そないに押すなっちゅうに! 前がつかえとんのじゃぁ、先へよぉいかんのじゃぁ! アイタァ!

六波羅庁軍メンバーI アグアグ・・・橋や、とにかく橋や、あこの橋にたどりついて、さっさと向こう岸に渡ってしまうんじゃ! アグアグ・・・。

六波羅庁軍メンバーJ こらぁっ! おマエらナニ考えとんねん! そないにイッペンに橋に押し寄せてきたらあかんやないか、わし、橋から落ちてしまうやないか、こらっこらっあーあああ!

このように、橋から人馬もろともに墜落して水に溺れてしまう者、多数。川を渡る途中に深みに入ってしまって命を落とす者もあり、川岸から馬を駆って倒し、その場で討たれてしまう者もあり。馬や鎧を捨ててひたすら逃走する者はあれども、返し合わせて楠軍と闘おうとする者など、一人もいない。

このようにして、5000余の大軍で京都を出ていった六波羅庁軍は、残り少ない人数になってしまい、ほうほうのていで京都へ逃げ帰ってきた。

その翌日、いったい何者のしわざであろうか、六条河原に落書きの札が。

 渡部の 水いか許(ばかり) 早ければ 高橋落ちて 隅田流るらん

 (原文のまま)

これを見た京都の若衆ら、例のごとくにこの落書にメロディーをつけて歌ったり、人に語り伝えして大笑い。隅田と高橋は、面目丸つぶれ、しばらくは仮病を使って六波羅庁へ出仕しなかった。

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(訳者注4)[新編 日本古典文学全集54 太平記1 長谷川端 校注・訳 小学館]の注では、ここ以降の話(宇都宮公綱が登場の)は、「作者による虚構。」としている。『楠木合戦注文』という史料をもとに考察を行うと、その結論に至るのだそうだ。
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この事態を受けて、六波羅の両長官はさっそく、ミーティング。

北条時益 まったくもう! マイッタよなぁ。

北条仲時 ほんと、まずい事になっちまったよねぇ。

北条時益 このまま、楠をのさばらせとくわけにもいかんだろう。またすぐにでも、討伐軍向かわせなきゃな。

北条仲時 問題はね、今度はいったい誰を大将にするかだよ。

北条時益 誰か適当な人物、心当たりあるの?

北条仲時 彼だよ、彼にしか今度の討伐軍の大将はつとまんないだろうね。

北条時益 彼って、いったいだれよ?

北条仲時 宇都宮公綱(うつのみやきんつな)。

北条時益 あぁ、彼かぁ!

北条仲時 そう!

北条時益 そういやぁ、ついこの間、京都の方があまりに手薄だからってんでぇ、関東からわざわざ来てもらってたんだっけ。いいねぇ! 彼なら大丈夫でしょう。

北条仲時 おおい、誰か! 宇都宮公綱殿をここへ!

やがて、宇都宮公綱が六波羅庁へやってきた。

北条時益 宇都宮殿、本日ご来庁いただいたのは、他でもない、先日の例の楠討伐の関係の話でねぇ・・・。

宇都宮公綱 ・・・。

北条時益 いやぁ、こないだのあの合戦・・・。そりゃぁね、合戦の勝敗は運次第、絶対勝てると思う勝負でも、ひっくりかえっちゃうってなぁ事は、古から無きにしもあらずでしょうよ。でもねぇ、こないだのあの天王寺での敗戦となれば、話は別でしてねぇ、もうそりゃぁ、敗因ははっきりしてますよ。軍を率いていたリーダーの作戦のまずさ、そして、それに率いられていた士卒たちのあまりのフガイナさ、この2点に尽きますでしょうよ・・・まったくもぉっ、あの連中らのおかげでねぇ、六波羅庁を嘲る天下の人々の口を、塞ぎようも無しってな状態に、なってしまいましたよぉ。

北条仲時 我々が六波羅庁に赴任した後に、あなたにお願いして、はるばる関東から京都まで来ていただいたのは、いったい何のためだったか? 反乱軍の蜂起があった時に、それを鎮圧していただく為ですよねぇ。

北条時益 現在のこの状態を見れば、いったん敗軍の兵となってしまった者らを再度かり集めて、天王寺へ何度向かわせてみたってね、はかばかしい戦の一つもできゃしない、我々にはそう思えて、しかたがないんですぅ。そこで、宇都宮殿に楠討伐をお願いしようか、という事になったんですよ。

北条仲時 今まさに、国家危急の時、なにとぞ、楠討伐をお引き受けいただけないでしょうか。

宇都宮公綱 分かった! 楠討伐の仕事、喜んでお引き受けいたしましょう。

北条仲時 おぉ、やっていただけますか!

宇都宮公綱 あれほどの大軍が敗北して、戦の利を失ってしまった後に、私の手の者だけの小勢で討伐に向かうのだから、勝敗の行くえは、まことにもって見定めがたいものがあります。

北条仲時 ・・・。

北条時益 ・・・。

宇都宮公綱 でもね、行きますよ。この宇都宮公綱、関東を出発したその時から、このような大事にあたっては、自らの命を惜しむべからずとね、覚悟を固めてやってきたんだから。

北条仲時 うーん!

北条時益 ・・・(深くうなづく)。

宇都宮公綱 今回の戦、勝敗の見通しがつけがたい。まずは、自分一人だけでかの地へ行って、楠と一度合戦してみるとしましょう。そうした後に、苦戦に陥ってしまった時には、あらためて六波羅庁に援軍をお願いすることになりましょう。

このように言い置いて、宇都宮公綱は六波羅庁を退出していった。

北条仲時 おいおい、見たかい、あの態度! なんだかとっても、頼もしくなってきちゃうじゃなぁい?

北条時益 いやぁ、まったくすごいもんだ。もう完全に、腹すわっちゃってるってカンジ。

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宇都宮公綱 (内心)鎌倉幕府の命により、大敵に相対することとなった以上、我が命、惜しむべからず!

公綱はわざと宿所にも戻らず、7月19日正午、単身で六波羅庁を出発、京都を出て天王寺へと向かった。

東寺(とうじ:京都市南区、東寺(教王護国寺)周辺)のあたりまでは主従わずかに14、5騎ばかりであったが、その後、京都中に滞在する家臣全員が馳せ集まってきて、四塚(よつつか:京都市南区)、作道(つくりみち:京都市南区)と進んでいくころには、宇都宮軍団は総勢500余騎に膨張。

道中に行き会う者があれば、それがたとえ有力者に所属する者であろうと一切おかまいなし、その乗馬を奪い、お供の人夫を、馬を駆けて追い散らす。あまりの恐ろしさに、道行く者は、宇都宮軍団を避けて遠回りし、周辺の民家は戸を固く閉ざした。

その夜、宇都宮軍団は、柱本に陣を張って夜明けを待った。全員残らず決死の覚悟、「生きて京都へ帰ろう」などと思っている者は、ただの一人もいない。

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「宇都宮軍、進撃」との情報をキャッチした河内国住人・和田孫三郎(わだまごさぶろう)は、楠正成のもとへやって来てそれを報告。

和田孫三郎 なぁ、なぁ、こないだの合戦で負けた腹いせにな、六波羅庁は今度は、宇都宮公綱、送り込んで来よったみたいやで。今夜、もうすでに柱本のへんまで来とるらしいわ。せやけどなぁ、兵力は言うほどのもんでもないようやでぇ。せいぜい600ないしは700、いうとこやなぁ。

楠正成 ・・・。

和田孫三郎 こないだの戦、こっち側は兵力少かったけど、隅田と高橋の5000余人相手に、みごとに追い散らしてしもたやんけ。今度は、話が逆やぞ。こっちは勝利の波に乗ってて大勢、敵は利を失ぉて小勢やんか。

楠正成 ・・・。

和田孫三郎 なんぼ、宇都宮がすごい武勇の人間やいうたかてや、ナニほどの事ができようかいな。なぁなぁ、今夜にでも戦、仕掛けてやな、宇都宮軍、蹴散らしてしまおぉなぁ。

楠正成 ・・・(しばし熟考の後に)あんなぁ・・・合戦の勝敗、そう、勝敗いうもんはなぁ、兵の数の大小によって決まるんやない。勝敗いうもんはな、士卒の心が一つになってるかどうかによって決まるもんなんや。そやから、昔から言われてるようにやな、「大敵を見ては欺(あざむ)き、小勢を見ては畏(おそ)れよ」とは、まさにこの事やがな。

楠正成 よぉよぉ考えてみるにや、こないだの戦で、あちゃらさんの大軍が負けて逃げていきよった後に、宇都宮がたった一人で、そないに少ない軍勢を率いてやってきよるからにはや、宇都宮軍の連中は全員、「もう一人も生きて帰らへんぞ!」てな覚悟、かためとるに違いない。

楠正成 おまえ、知ってるかぁ、宇都宮、そう、宇都宮公綱いうたらな、関東一の武士やねんどぉ。あいつの家臣団の紀・清(き・せい)両党いうたらな、「戦場に臨んでは命を捨てること、塵芥よりもなお軽し」いうような連中やんけ。そないなヤツらがや、700余騎も集まって心一つになって、襲いかかってきよるねんどぉ。「一歩も退かんわい!」いうて、こっちがなんぼ、きばってみたところでやな、我が軍の大半は戦死っちゅうことに、なってしまうやんけ!

楠正成 倒幕の道、まだまだ先は長いんや。今度の一戦だけで決まる、いうもんでもないやろ。これからよぉけ(多く)、戦していかんならんのや。そやのにやでぇ、ただでさえ少ない味方の兵を、最初の合戦で討たれてもたら、これから先いったいどないなる? わしらの力、いっぺんに無(の)おなってしまうやんけ。そないなったらな、次からの戦に味方してくれよるヤツなんか、一人もおらんようになるぞ。

和田孫三郎 うーん・・・そぉかぁ。

楠正成 「良い将軍は戦わずして勝つ」っちゅう言葉があるんや。

楠正成 明日はわざとこの陣を退いてしもてな、「やったぁ!」と敵に思わせるんや。それから4、5日してからな、四方の峰々に篝火(かがりび)ボンボン焚いて、あいつらに煙吹っかけたるんや。

楠正成 さぁそないなったら、関東、そうや、関東の連中の事や、例によって、ダラァンとしてきてもてやな、「アラアラ、ここにそうそう長居してたんじゃ、まずいんじゃないかしらぁ。せっかく敵を退けて一面目立ったんですもの、ここらで退却しちゃいましょうよぉ、ねぇえー」てなこと、皆で言いださはんのんと、ちゃいますやろかいなぁ、ガハハハ・・・。

和田孫三郎 ワハハハ・・・。

楠正成 「進むも退くも、ケースバイケース」とはまさに、こういうのを言うんや!

和田孫三郎 なるほどなぁ。

楠正成 夜明けも近いわ、敵はそろそろ動き出しよるぞ! さぁ、みんな、撤退開始や!

このようなわけで、楠は天王寺から退却し、和田、湯浅もそれに続いた。

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夜明けとともに、宇都宮軍700余は天王寺へ押し寄せ、高津(こうづ:大阪市・天王寺区)のあたりの家々に火をかけてトキの声を上げた。しかし、そこには楠軍メンバーは一人もいない。

宇都宮公綱 これはきっと、敵の作戦だろうよ。このあたりは、馬の足場が悪くて道も狭いなぁ。敵に不意を突かれて、中央突破されんように気をつけろよ。背後から攻撃されちゃまずいからな!

紀清両党一同 おぅ!

宇都宮軍は、馬をそろえて四天王寺の東西の口から一斉に駆け入り、二度三度とあたりを廻ってみたが、楠軍は一人もおらず、焼き捨てた篝火だけが残ったまま、夜はほのぼのと明けていく。

宇都宮公綱 (内心)あぁ、なんだか一戦もしないうちに勝ってしまったような、とってもいい気分!

公綱は、本堂の前で馬から降りて聖徳太子を伏し拝み、一心に感謝して勝利の喜びをかみしめた。

宇都宮公綱 今回のこの勝利、ひとえに我らの武力の致すところにあらず、ただただ、神仏の御擁護のおかげです。

宇都宮公綱 おぉい、誰か! 六波羅庁へ早馬を送れ!「我ら宇都宮軍一同、天王寺に到着、即、敵を追い落とした」との、メッセージをな!

宇都宮公綱からのこの報に、六波羅両長官はじめ、北条一門、譜代(ふだい)、外様(とざま)はわきたった。彼らはこぞって、「宇都宮の今回の功績抜群!」と、褒め称えた。

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ところが・・・。

宇都宮公綱 (内心)うーん・・・まいったなぁ。

宇都宮公綱 (内心)先日は、天王寺に陣取っていた楠軍をあっけなく追い散らせたので、一応の面目は立った。しかし、次の手が続かない・・・うーん・・・。

宇都宮公綱 (内心)こんな少ない兵力でもって、すぐに、楠の陣へ攻め入れるわけがなし・・・かといってだなぁ、まともな戦を一度もせずに、京都へ帰るわけにもいかんし・・・うーん、まいった・・・まさに、進退窮まってしまったぞ。

それから4、5日後、和田と楠は、和泉(いずみ:大阪府南西部)・河内(かわち:大阪府東部)両国の野伏(のぶせり:注5)4、5000人ほどを駆り集め、信頼おける部下2、300人に彼らを指揮させて、宇都宮軍を遠巻きにして配置し、天王寺周辺一帯に、篝火を燃やさせた。

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(訳者注5)ひとたび戦が起こるやいなや、武装して戦場周辺に参集して、利得を狙う人々。
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紀・清両党メンバーK ヤヤ、楠軍の来襲だ!

紀・清両党メンバーL なにぃ! 敵はどこだぁ!

篝火を見て、宇都宮陣は大騒ぎである。更けゆく夜のしじまの中に、じっと陣の周囲を見渡せば、

紀・清両党メンバーM 秋篠(あきしの:奈良市)、外山(とやま:大阪・奈良県境)、生駒(いこま:同左)の峰々に輝く火は、晴れた夜空の星の数よりも多く、

紀・清両党メンバーN 大阪湾沿岸の志城津浦(しづつうら:大阪市・住吉区)から住吉(すみよし)、難波(なんば:大阪市・浪速区)の里に燃える火は、漁船にともす漁火(いさりび)が波を焼くか、と思うほど。

紀・清両党メンバーO 大和(やまと:奈良県)、河内、紀伊(きい:和歌山県)方面の、ありとあらゆる所の山と浜に、篝火が燃えている。

紀・清両党メンバーP 我々はいったい、何万の兵力に包囲されてるんだろう・・・もう想像もできない。

このような状態が3夜連続し、篝火の包囲の輪も徐々に縮まってくる。四方八方上下に充満して、闇夜の中に昼を見る感あり。

宇都宮公綱は、楠軍が寄せてきたら一戦にて勝負を決しようと思い、馬から鞍を下ろさず、鎧の革帯も解かずにじっと待ち続けた。しかし、戦闘は一向に始まらず、楠側の展開する、「ひたすらジワリジワリと包囲する神経戦」のプレッシャーに、勇気もたゆみ、闘志も弛(ゆる)んできた。

宇都宮公綱 (内心)あぁ、もう京都へ退却してしまいたいなぁ。

そのような中、彼の部下、紀・清両党からも同様の声が上がりはじめた。

紀・清両党メンバーK 殿、我らみたいなわずかの兵力でもって、あんな大軍に立ち向かっていっても、結局のところ、どうなるもんでもないんじゃぁ?

紀・清両党メンバーL 先日のあの戦で、敵を首尾よく追い散らしましたもんねぇ、面目はもう立派に立っているじゃぁないですかぁ。

紀・清両党メンバーM ここはひとまず、京都へ退却・・・じゃなかった、凱旋ってなセンで、いかがなもんでしょう?

紀・清両党メンバー一同 そうしましょうよ、殿!

宇都宮公綱 うーん・・・やむをえんな!

7月27日夜、宇都宮軍は天王寺から撤退。翌早朝、楠軍がそれに入れ替わって、再び天王寺を占拠してしまった。

世間の声X 宇都宮公綱と楠正成、かりに真っ正面からぶつかって勝負を決してたら、いったいどないなってたやろうかなぁ?

世間の声Y そら、あんたなぁ、あの二人が対決するんやもん、それこそ、両虎二龍の戦いが展開されてたやろぉて。

世間の声Z おそらく、二人相打ちやったやろな、二人とも死んでしもてたやろぉなぁ。

世間の声X で、互いにその危険を察知して、いったんは楠が退いて、謀を千里の外にめぐらし、

世間の声Y 次には、宇都宮が退いて、その高名を一戦の後に失わずに終わった。

世間の声Z まことにもって、智謀すぐれ、思慮深い、両雄の軍略やった。

世間の声一同 いやぁ、ほんまになぁ。

その後、楠正成は、天王寺を本拠として勢威をふるいながらも、周辺の民に災いをもたらす事もなく、士卒に礼を厚くした。これを伝え聞いて、近隣は言うに及ばず、はるかに遠い地の武士までも、我も我もと楠軍に参加してくる。その勢いは次第に強大になって行き、京都からたやすく、討伐軍を差し向ける事もできないような情勢になってきた。

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