太平記 現代語訳 12-2 後醍醐天皇、大内裏の再建を目指す

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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翌、建武元年(1334)1月12日、公卿会議より、次のような提言が、御醍醐天皇に対してなされた。

 「帝王の業というものは、極めてタイソウなものであり、執行されねばならぬ行政の数は膨大、よって、多くの役所とふんだんな役職ポストを用意しておく必要があります。」

 「しかるに、これまでの御所の規模はといえば、わずか4町四方の広さしかありませんでした。儀礼をきちんと整えながら政治を行うには、これでは、あまりにも狭すぎる、ということで、四方へ1町ずつ拡張して、現在の規模となりました。」
 
 「しかし、これとても、昔の御所より狭いのです。この際、大内裏(だいだいり)を新築すべきでありましょう。」

ということで、「まずは、その工事の経費をまかなうための経済的基盤が必要だ」ということになり、安芸国(あきこく:広島県西部)と周防国(すおうこく:山口県南部)が、それに充てられることになった。さらに、日本国中の地頭と御家人に対して、「所領からの収入の20分の1を、朝廷に上納すべし」との命令が下された。

そもそもこの大内裏とは、古代中国・秦(しん)の始皇帝(しこうてい)の都、咸陽宮(かんようきゅう)の中の一殿を模して作られたものである。

南北36町、東西20町の広さであり、その周囲には歩道の石を敷き、四方に12個の門が設置されていた。その門の名前はといえば、

東側には、陽明(ようめい)、待賢(たいけん)、郁芳(ゆうほう)。

南側には、美福(びふく)、朱雀(すざく)、皇嘉(こうか)。

西側には、談天(だんてん)、藻壁(そうへき)、殷富(いんふ)。

北側には、安嘉(あんか)、偉鑒(いかん)、達智(たっち)。

その他に、上東(じょうとう)と上西(じょうさい)の2門。

これらのすべての門を、守備兵が警護の体制を整えて常に堅め、非常事態に備えていた。

36個の後宮(こうきゅう)には、淑女多数が美しく装い、72の前殿(ぜんでん)には、文武百官が天皇の命令を待つ。

紫宸殿(ししんでん)の東西には、清涼殿(せいりょうでん)と温明殿(うんめいでん)、北方には常寧殿(じょうねいでん)と貞観殿(じょうかんでん)。貞観殿は、后町(きさきまち)との別称を持つ常寧殿の北側にあり、そこで、朝廷の衣服が製造されていた。

校書殿(きょうしょでん)という名前の建物が清涼殿の南にあり、ここで、天皇が弓術を観覧された。

昭陽舎(しょうようしゃ)とは梨壷(なしつぼ:注1)、淑景舎(しげいしゃ)とは桐壷(きりつぼ)、飛香舎(ひきょうしゃ)とは藤壷(ふじつぼ)、凝花舎(ぎょうかしゃ)とは梅坪(うめつぼ)、襲芳舎(しゅうほうしゃ)とは雷鳴坪(かみなりのつぼ:注2)の事である。

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(訳者注1)「壷」は、建物に囲まれた庭のことである。

(訳者注2):雷鳴なり響く時、天皇はここに移動した。
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萩戸(はぎと:注3)、陣座(じんのざ:注4)、瀧口戸(たきぐちのと:注5)、鳥曹司(とりのそうし:注6)、縫殿(ぬいどの:注7)。

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(訳者注3):清涼殿の一室。障子に萩の絵が描かれていた。

(訳者注4):公卿たちがこの室に集まって、神事、任官などの公の儀式を行った。

(訳者注5):清涼殿の一角にあり、警護担当の者らがここにつめた。

(訳者注6):ここには鷹がつながれていた。

(訳者注7):裁縫関連を担当する所。
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兵衛府(ひょうえふ)の左陣には宣陽門(せんようもん)、右陣には陰明門(いんめいもん)。

大極殿(だいごくでん)、小安殿(こあどの)、蒼龍楼(そうりゅうろう)、白虎楼(びゃっころう)、豊楽院(ぶらくいん)、清署堂(せいしょどう)。五節の宴会と大嘗会(だいじょうえ)はここで行われる。

中和院(ちゅうかいん)は中の院、内教坊(ないきょうぼう)は雅楽をおこなう場所。御修法様(みしほ)は真言院(しんごんいん)、神今食(じんごんじき)は神嘉殿(しんかでん)。騎馬射撃、競馬を、天皇は、武徳殿(ぶとくでん)にてご覧になる。

朝堂院(ちょうどういん)とは、八省の建物のことである。

右近(うこん)の陣の橘(たちばな)は、古をしのばす香りを留め、御階(みはし)に繁る竹の茂みは、幾世の霜を重ねてきた事であろうか。

かの在原業平(ありわらのなりひら)が、「弓と矢入れを身に添えて、雷鳴が騒ぐ夜通し、戸締まりのきかない場所に居た」というのは、太政官(だじょうかん)役所の八神を祭る宮殿を指している。

光源氏(ひかるげんじ)が、「これ以上のものはなし」と詠じつつ、朧月夜(おぼろづきよ)に思いを馳せながら歩いたのは、弘徽殿(こきでん)の細殿。

古の世に、大江朝綱が北陸地方へ赴く時に、旅の別れを悲しんで、「後の再開は期し難く、鴻臚(こうろ)の暁の涙に冠の紐を潤す」と、出立に際して記した建物は、羅城門(らじょうもん)の南の鴻臚館(こうろかん)の名残である。

鬼の間、直廬(ちょくろ)、鈴の縄(すずのつな)。

清涼殿には、「荒海の障子」が立てられ、紫宸殿には、「賢聖の障子」が立てたれていた。その「賢聖」とは・・・

東の一の間には、馬周、房玄齢、杜如晦、魏徴、
二の間には、諸葛亮、遽伯玉、張子房、第伍倫、
三の間には、管仲、鄧禹、子産、蕭何、
四の間には、伊尹、傅説、太公望、仲山甫
西の一の間には、李勣、虞世南、杜預、張華、
二の間には、羊祜、揚雄、陳寔、班固、
三の間には、桓栄、鄭玄、蘇武、倪寛、
四の間には、董仲舒、文翁、賈誼、淑孫通。

これらの肖像画は、巨勢金岡(こせのかなおか)の筆、賛詞は小野道風(おののとうふう)の書であるという。

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鳳(おおとり)の形をした甍(いらか)は天を翔け、虹のように曲がった梁(はり)は雲の中に高くそびえる・・・しかしながら、かくも立派に造営された大内裏も、天災を免れる事はついに不可能であった。何度もの火災により、今は昔の礎石が残っているだけである。

内裏の被災について、ここで少し考察を加えてみたい。

かの堯(ぎょう)帝、舜(しゅん)帝は、中国400州の主として、その徳は天地に通じるほどの高さであったにもかかわらず、その住居はといえば、「屋根をカヤで葺いたまま末端を切り揃えず、木にかんなをかけずにそのまま垂木に使った」と語り伝えられている。それにひきかえ、粟を散らしたような小国・日本、その主として、かくのごとき壮麗な大内裏を造るには、その徳はあまりにも不相応である。

後世の帝王が徳もないのに、自らの居を安からしめんと欲して宮殿など建設したならば、国の財力は尽きてしまうであろうと、かの弘法大師・空海(くうかい)は考えた。そこで、内裏の各門に掲げる額に字を書く際に、大極殿の「大」の字の中を引き切って「火」という字にし、朱雀門の「朱」の字を「米」という字で書いた。

小野道風がこれを見て、「なんや、あれはぁ! 大極殿を火極殿、朱雀門を米雀門と、書いたるやないかい!」と非難した。

大聖者が国の未来をよくよく考察した上で書いた事なのに、凡俗の身にありながらそれを非難した罰であろう、それから後、道風は、筆をとると常に手が震え、文字を正しく書く事ができなくなってしまった。しかし、そこはよくしたもので、彼は草書の達人、震える手でもって書いた字であっても、それがそのまま形になっていた、というわけである。

そしてついに、大極殿より出火、諸司八省ことごとく焼失してしまった。

程なく内裏は再建されたものの、今度は、北野天神(きたのてんじん)の御眷族(ごけんぞく)の火雷気毒神(からいきどくじん)が、清涼殿の西南の柱に落ち懸かり、再び焼け落ちてしまった。

そもそも、かの北野の天満天神というのは、風流の道の本主、文学の道の大祖。天におわしましては日月に光りを顕わして国土を照らし、地に下っては賢臣となってすべての生命を利せしめる。その始めを詳細に述べるならば、以下のごとし。

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ある日のこと、菅原是善(すがわらのこれよし)が、自邸の庭をふと見ると、そこに、5、6歳ほどの容顔美麗の少年が立っている。少年は、庭に咲き誇る花をじっと愛でながら眺めている。

菅原是善 (内心)あれぇ・・・あの子、いったいなんやぁ? 見なれん子供やなぁ。

菅原是善 なぁなぁ、あんたはいったい、どこから来はったんや? どこのお家のぼん(坊や)かいなぁ?

少年 我には、父も無く母も無し。願わくば、あなたに、親になっていただけないものかと。

是善は、これを聞いて嬉しく思い、少年を抱きしめた。

それより後は、夫婦そろって少年をいつくしみ、恩愛こめて養育した。その少年こそが、後の菅原道真(すがわらのみちざね)なのである。

いまだ習わずして、道を悟り、才学は、世に肩を並べる者なし。

11歳になった時、是善は道真の頭をかきなでながら

菅原是善 漢詩をいっちょう、作ってみぃひんか。

道真は、少しも考え込む風も無く、すぐに吟じはじめた。

 月の耀(かがやき)は 晴れたる雪の如く
 梅の花は 星の照(あかり)に似たり
 ああ 金の鏡(月)は 天をめぐり
 庭には かぐわしい花々が

(原文)月耀如晴雪 梅花似照星 可憐金鏡轉 庭上玉芳馨

このように、寒い夜の風景を、五言絶句のスタイルで、即興で見事に歌い上げたのである。

それより後は、漢詩においては、最盛期の唐の詩人たちの作にも負けず、七歩歩む内に詩を詠んだというあの境地(注8)をも凌駕。文章を作ることにおいては、漢・魏(ぎ)時代の芳潤な味わいを取り入れ、万巻の書物を諳んじていた。

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(訳者注8)ここは、[三国志演義]の中の、あるシーンによったものであろう。

魏の曹操(そうそう)には、曹丕(そうひ) 、曹植(そうしょく)の二人の息子がいた。曹操の死後、曹丕は、曹植に対して、「七歩歩むうちに詩を一首作れ」と、難題を吹っかけたが、曹植は見事、その要求をクリアした。
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貞観(じょうがん)12年3月23日、菅原道真は官吏登用試験に合格し、学界へのデビューを果たした。

その年の春、都良香(とりょうきょう)という人の家にみんなが集まって弓を射ている所に、道真がやってきた。

都良香 (内心)これはまた、えぇとこへ来よったもんや。道真は、窓辺に蛍を集めて勉強するのに明け暮れてるていうからな、弓なんか見ても、どっちが上でどっちが下かも、分からんやろうて。いっちょう、あいつに弓で的を射さして、皆でからこぉたろかいなぁ。

彼は、練習用の矢に弓を添え、道真の前に置いていわく、

都良香 春の始まりにあわせて、どうですか、いっちょう!

道真は、少しも辞退せずに、勝負相手の人と共に並び立った。そして、雪のような肌もあらわに着物を開き、少し上を向いて弓に矢をつがえた後、おもむろに上体を下ろして静止、的に狙いをしっかと定める。そして、

弓 ブンッ

矢 ヒューーッ ブスッ!

飛びゆく矢の勢い、弦の音、射た後の弓を伏せる動作、弓術のすべての要素において、たくましく勢いがある。射る矢はことごとく、的の中心から半径一寸以内に突き立つ・・・5本、10本・・・。

これを見た都良香は、感に堪えかね、自ら射撃場に下りて道真の手をとり、その後数時間にわたって彼をもてなした後、様々の贈り物をした。

同年3月26日、当時、皇太子であった醍醐天皇が、菅原道真を召して、

皇太子 中国の李嶠(りきょう)という詩人は、一夜のうちに100首の詩を作ったというやないか。おまえ、それにひけ取らんやろぉ? 今から2時間のうちに、10首の詩を作って、天皇陛下に見ていただき。

菅原道真 では、今ここで、詩の課題テーマを10個下さい。

皇太子 よしよし・・・。

それから1時間経過。

菅原道真 はい、これで、課題はクリアされました。

皇太子 さぁすがぁ!

 春を楽しむために 舟や車を動かして
 行楽に出かける必要はない
 徐々に 数少なくなっていく 鶯(うぐいす)の鳴き声
 そこはかとなく 落ちていく 花の姿
 春の光が 我が心中の思いを 知ってくれるならば
 今宵 誌人の家を 旅の宿としてくれることであろう

(原文)
 送春不用動舟車
 唯別残鶯與落花
 若使韶光知我意
 今宵旅宿在詩家

この春の夕暮れを詠んだ詩、この10首中の1首であろう。

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このように、道真には、才賢の誉、仁義の道、なに一つとして欠けるところ無く、「帝の徳が、古代中国の三皇五帝にも匹敵するまでに高められ、周公亘(しゅうこうたん)や孔子のレベルに等しき政治が行われているのは、道真あってのこと」と、天皇は、彼をこの上なく高く評価していた。

寛平(かんぴょう)9年6月、道真は、中納言から大納言へ昇進、近衛軍大将を兼務。

同年10月、醍醐天皇が即位されてから後は、政治のすべてはこの近衛大将・菅原道真によって決せられるようになり、摂政も大臣も誰一人として、彼に対抗できないような状態になった。

昌泰(しょうたい)2年2月、道真は、右大臣・近衛大将に昇進。

この時の左大臣は、藤原時平(ふじわらのときひら)であった。

時平は、大職冠・藤原鎌足(たいしょくかん・ふじわらのかまたり)から数えて9代目の子孫、昭宣公・藤原基経(しょうせんこう・ふじわらのもとつね)の長男、醍醐帝の后・穏子(おんし)の兄であり、村上天皇(むらかみてんのう)の伯父である。

摂家(注9)や高貴の家さまざまあれど、自分ほどの人間は、どこの家にもいないだろうと自負していたのに、官位、給与査定共に、菅原道真に越えられてしまい、憤懣やるかたなし、といった風である。

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(訳者注9)摂政関白を出すことができる藤原氏に所属する血筋。
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そこで、時平は、源光(みなもとのひかる)、藤原定国(ふじわらのさだくに)、藤原菅根(すがね)らと内々に謀り、陰陽道(おんみょうどう)担当長官に命じて、都の八方に人形を埋めて神々を祭り、菅原道真・呪詛(じゅそ)の行をさせた。しかしながら、天道には私情は無く、あくまでも公平、道真の身には災難が一向に降りかからない。

ならば、彼を讒訴(ざんそ)して罪に陥れてやろう、ということで、時平は、醍醐天皇にいわく、

藤原時平 菅原は、国家の政治を、私物化しとります。万民の愁いを理解しようともせず、道理に反する事をいかにも道理であるかのように捻じ曲げて、政治を行っておりますよ。

このような讒言を繰り返し繰り返し、行ったので、天皇も次第に、道真の事を、「世を乱し、民を害する逆臣なり、君主の非を諌(いさ)めて邪を禁じる忠臣にあらず」というように、思い込んでいかれた。残念な事である。

「偽言巧みにして、笙(しょう)笛リードを震わすに似たり」、「鼻を覆い隠せと勧められても、決して鼻を隠してはならないぞ、夫婦が参商状態になってしまうからな」、「衣の上に止まる蜂を取ってくれと言われても、決してそれを取るな。母子でさえも、山犬と狼の関係になってしまうからな」などなど、よくぞ、言ったものである。むつましかるべき、夫婦・父子の間をさえも遠く割くのが、讒者の偽言、ましてや、君臣の間においてをや。

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そしてついに、昌泰(しょうたい)4年1月20日、菅原道真、太宰権帥(だざいごんのそち)に左遷、筑紫国(つくしこく:福岡県)に流罪、と定まった。

道真は、その左遷の悲しみに耐え切れず、一首の歌に千般の怨みを述べて、宇多上皇(うだじょうこう)のもとへ送った。

 流れ行く 我はみくず(水屑)と なりぬとも 君しがらみ(柵)と 成りてとど(止)めよ
(原文のまま)

上皇はこの歌をご覧になり、涙に衣を濡らされ、何とかして左遷の罪を申し宥(なだめ)めようと、御所に赴かれた。しかし、天皇は面会謝絶。上皇は、憤りを胸に含んだまま空しくお帰りになった。

その後、流刑と正式に定まり、道真は太宰府(だざいふ)へ流罪。子供23人中4人は男子であるので、みな別れ別れに四方の国へ流罪となった。長女一人だけを都に止め、残る女児18人、泣く泣く都を離れ、心筑紫(こころつくし)に赴く、その様こそ悲しけれ。

長年住み慣れた自邸・紅梅殿をいよいよ出発、という時がついに来た。明け方の月の光、幽なる中に、折り忘れられた枝から馥郁(ふくいく)とただよう梅の香り・・・今やこの梅の木も、故郷の春の形見となるのかと思うと、道真は涙が止まらない。そこで詠んだ歌一首、

 東風(こち)吹かば 匂(にお)いおこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春な忘れそ(注10)

(原文のまま。)

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(訳者注10)「東風が吹き始めたら、それにのせて京都から九州まで、香りを送って来いよ、邸宅の主(すなわち道真)が不在だからといっても、春の到来を忘れてくれるなよ」と、梅の花に呼びかけているのである。
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今夜中に淀の渡し(京都市・伏見区)まで到着、と護送の役人たちに急がされ、車に乗った。

心を持たない草木までもが、道真との別離を悲しんだのであろうか、東風が吹いた時、その風に乗り、この梅は菅原邸を飛び去って、配所(太宰府)の庭に移動し、そこに根づいてしまった。北野天神の夢のお告げに現われ、自分の枝を折った不見識な者に対する怨みを語った、あの「太宰府の飛梅(とびうめ)」とは、まさにこの梅の木の事なのである。

去る仁和(にんな)年間に、讃岐国(さぬきこく:香川県)の国司として任地に赴いた時には、錦の艫綱(ともづな)を解いて船出し、あららぎ製のオール、桂製の楫(かじ)が、南海道の水面に浮かぶ月影を、舷側(げんそく)から鼓したのであった。

しかし、昌泰年間の今は、かつてとはうって変わった船旅の様。天皇から賜った衣の片袖をしいて、波の上、船室の底、太宰府の方角の空に浮かぶ雲を眺めては心を傷め、都に留めおいてきた夫人や長女の事を、今は昨日限りの別れと悲しむ。見知らぬ国々へ配流の身となった18人の子供らも、思いもかけない旅に出ることとなり、身を苦しめ心を悩ましていることであろう、と一方ならず思われて、涙の乾くひまもない。その旅泊の思いを表した詩にも

 勅使は馬を駆り みなを連れ去ってしまった
 一瞬の間にやってきた 父子離散の運命
 この心情 もはや 口で言い表す事ができようか
 眼中に 血が流れるような思い
 今は 天の神を仰ぎ 地の神に伏すのみ

(原文)
 自従勅使駈将去
 父子一時五処離
 口不能言眼中血
 俯仰天神与地祇

夫人から付けられた召使いの者らも、いよいよここで分かれて京都へ帰る、という時になって、歌を一首、彼らに託した。

 君が住む 家の立ち木を 道すがら 見えなくなるまで かえり見たんや

(原文)君が住む 宿の梢を 行々も 隠るるまでに かへり見しはや

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心つくし(=筑紫)に行き(=生き)の松、待つとはなしに明け暮れて、配流先の太宰府(だざいふ)に、道真は到着。小さい粗末な家に彼を送り込んた後、護送担当たちは都へ帰っていってしまった。

太宰府の楼の瓦の色、観音寺の鐘の音、聞くに随い見るにつけても悲しみを催し、わびしい孤独の秋である。起き伏す露の床とは(とことわ:永久)に、古郷を忍ぶ御涙(おんなみだ)、言の葉(ことのは)毎(ごと)に繁(しげ)ければ、さらでも重き濡れ衣(ぬれぎぬ:無実の罪)の、袖乾く間も無かりけり。

無実の讒言によって流刑となった怨みは骨髄に徹し、到底忍び難い。

道真は、7日間身を清め、神に対して自らの無実を訴える文書一巻をしたためた。そして高山に登り、その文書を竿の先に付けて差し上げながら、7日間つま先立ちのまま立ち続けた。

それを見た梵天(ぼんてん)、帝釈天(たいしゃくてん)が、無実の彼を憐れまれたのであろう、黒雲一群(ひとむら)が天より下がってきたと見るやいなや、その文書は、黒雲にまかれながら天上へと舞い上がっていった。

それから後、延喜3年2月25日、遂に道真は、流刑の怨みの中に亡くなった。安楽寺が墓所とされ、彼はそこに埋葬された。

惜しいかな 北闕(ほくけつ:注11)の 春の花は
流れて帰らぬ 水に随う
奈何(いかん)がせん 西府の夜の月は
晴れずして 虚命の雲に入る(注12)

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(訳者注11)皇居のこと。

(訳者注12)「春の花」と「夜の月」は、道真の事を比喩で表現している。
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世の人A おぉい、菅原公、亡くならはったらしいでぇ!

世の人B えぇ! ほんまかいなぁ!

世の人C 惜しい人を亡くしたもんやなぁ。

世の人D ほんになぁ・・・すなおで飾りけのない、ほんま、えぇ人やったのにぃ。

世の人E それにしてもやで、実に人情の薄い世の中になってしもぉたと、思わへん?

世の人F ほんになぁ・・・もう、末世やがな。

このように、貴賎みな涙を流し、遠きも近きも全て声を呑んで、今の世の風潮を悲しんだ。

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同年の晩夏、延暦寺(えんりゃくじ)第13代座主(ざす)・法性坊尊意(ほっしょうぼうそんい)は、四明山(しめいさん)の山頂、持仏堂に籠もり、十乗の床の前で観照の行に入り、心澄まして座っていた。

すると、その戸をトントンと、叩く音がする。いったい誰かと思って戸を開いてみたら、なんと、そこには、菅原道真が立っているではないか!

尊意 (内心)むむっ・・・これは・・・たしか、道真公は今年の春、筑紫で亡くなられたと、聞いてたが・・・

尊意 これはこれは、どうぞ、お入り下さい。

尊意の誘いに応じて、道真は中に入ってきた。

尊意 あなたは、今年の2月25日に、筑紫でお亡くなりになった・・・そのように承りましたんでね、あなたの後生菩提の追善供養を営んでおりましたんや、悲嘆の涙にくれながら・・・そやのに、ご生前の姿のそのまんま、今ここにいてはるやなんて・・・いったいこれは、夢か幻か・・・

菅原道真の霊 (顔にはらはらとこぼれ落ちる涙を拭った後)我は、朝廷の臣となって天下を安からしめんがため、しばらくの間、人間の世界に下った。ところが、天皇は、藤原時平の讒言をそのまま信じ、ついに我を、無実の罪に沈めてしまわれた。まことに無念! 我が怒りの炎、世界を滅亡させる劫火よりも激しい!

尊意 ・・・。

菅原道真の霊 肉体は滅びようとも、我が霊魂は今、天に在る。大小の神々、梵天、帝釈天、四天王の許しを得た今、この怨みを報ぜんがため、九重(ここのえ)の皇居付近に赴き、我に対してつらく当たった悪い大臣どもや讒者どもを、一人づつ蹴殺していく!

菅原道真の霊 我がいよいよ、それを実行しようという局面において、きっと、朝廷から延暦寺に対して、「道真の怨霊(おんりょう)退散のための、ダラニ修法をせよ」との命令が来るであろう。しかし、天皇からのその命令に、汝は絶対に従ってはならぬ。決して御所に参内してはならぬ。

尊意 私とあなたとは、師と弟子として浅からぬ間柄。そやけど、君臣の関係となると、それよりもさらに大切な関係です。陛下からのご命令とあらば、いったんは辞退申し上げるとしてもですよ、繰り返し言ってこられたら、御所に参内せざるをえません。

これを聞いて、道真霊はにわかに険しい顔付きとなり、目の前に供された柘榴(ざくろ)を取って噛み砕き、持仏堂の戸にさっと吹きかけた。

柘榴の種はたちまち猛火と化し、戸に燃え着きそうになった。

尊意は少しもあわてず、燃える火に向かって、灑水(しゃすい)の印(注13)を結んだ。すると、猛火はたちまち消えた。戸を見ると半ば焦げていた。この戸は現在も、延暦寺に保存されているという。

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(訳者注13)密教(みっきょう)の修行者は修行時に自らの手指を様々な形にセッティングするが、それを「印(いん)」と呼ぶ。「灑水」は水をそそぐ作法である。

尊意は延暦寺の僧侶だから真言宗ではなく天台宗(てんだいしゅう)に所属するのであるが、天台宗にも密教修行がある(台密)。
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その後、道真霊は座を立って、天上に昇っていったようであった。

やがて、雷が内裏の上に轟き始めた。

雷鳴が鳴っては稲妻落ち、轟音が轟いては激光が立ち上り、高天が地に落ち、大地も裂けるかのようである。天皇も百官も、身を縮め魂も消え入らんばかり。

それから7日7夜、暴風雨が烈しく吹きすさび、世界は闇のごとくになってしまった。そして、洪水が家々を押し流しはじめた。京都や白河一帯の貴賎男女のおめき叫ぶ声は、叫喚地獄(きょうかんじごく)、大叫喚地獄(だいきょうかんじごく)に苦しむ亡霊の声のごとく響きわたる。

そしてついに、雷電が大内裏の清涼殿に、

雷 ピカッ・・・ドドドドドバーーーン!

大納言・藤原清貫(ふじわらのきよつら)の上着に火が燃え移り、いくら転げまわっても、その火を消すことができない。

心剛なる右大弁(うだいべん)・平希世(たいらのまれよ)は、天に向かって叫ぶ。

平希世 天皇陛下の御前やぞ、たとえいかなる天雷なりとも、懼(おそ)れ、慎まんかい!

希世は、弓に矢をつがえ、雷鳴めがけてそれを放とうとした。その瞬間、

平希世 うわぁぁっ、あうっ、うぐっ!

平希世の身体 バタッ!

希世は急に全身がすくみ、うつぶせに倒れ伏してしまった。

近衛府の忠包(ただかね)の髪に、火が燃え移ってしまい、彼は焼死。紀蔭連(きのかげつら)は、煙に巻かれて呼吸困難の中に死亡。

藤原時平 (内心)あぁ、なんということや! これは、私に下された神罰か?!

時平は、天皇の側に立って太刀を抜き、空の上の道真霊に向かって叫ぶ。

藤原時平 朝廷に仕えていた時も、あなたは私に対して、礼を乱すような事は、なかったやないか。たとえ、今、神になられてるとしても、君臣上下の義は、守って頂きたい。金輪(こんりん)におわします天皇陛下の位はいや高く、これを擁護される神様も、こないな事を、黙って見ておられるはずがない。とにかく静まって、穏やかに、その徳を施しなされい!

このような、理を尽くしての時平の主張に、道真霊も静まったのであろうか、時平は蹴殺されず、陛下も無事。雷神は天高く昇っていった。

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しかし、風雨はなおも続いた。このままでは、世界中の国土が皆流出してしまうのではないだろうか、かくなる上は、仏法の威力をもって神の怒りを宥めよう、ということになり、朝廷は尊意を招致した。

尊意は、二度までは辞退申し上げたのであったが、天皇からの三度目のお召しに、ついに仕方なく、比叡山から京都の市街へ降りていった。

途中、鴨川がおびただしく増水し、船無しではとても先に進めそうにない。これを見た尊意はいわく、

尊意 このまままっすぐ、車を水の中に進めなさい。

ドライバー(牛車の牛を御している人) えぇっ、あんなものすごい水の中に・・・そんなムチャなぁ!

尊意 えぇから、私の言う通りにしてみなされ。

ドライバー はぁ・・・。

ドライバーはその命に従って、水の漲(みなぎ)る河の中に車をさっと進めた。するとなんと、水は左右に分かれ、車は河底の陸の上を進むではないか!(注14)

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(訳者注14)ここを読んでいて、旧約聖書の[出エジプト記]の1シーンを連想した。モーゼとユダヤの民が紅海を渡っていくシーンである。とはいっても、鴨川と紅海とではスケールが違いすぎるのだが。
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尊意が御所へ到着するとすぐに、雨は止み、風は静まり、神の怒りはたちまちに、宥められたように見えた。彼のこの法力に、天皇はいたく感じいった。

やがて、彼は比叡山に帰っていった。この一件ゆえに、国中の人々は、延暦寺の偉大な力を賞賛した。

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その後、藤原時平は病気になり、心身の苦痛絶えることなし、というような状態になってしまった。

浄蔵(じょうぞう)という僧侶が、時平からの依頼を受けて加持祈祷を行っていると、時平の左右の耳から、小さい青蛇が頭をのぞかせていわく、

蛇 おいおい浄蔵よ、私はなぁ、無実の讒言に沈んだ自らの怨みを晴らさんがため、この時平めを取り殺そうと思っているのだよ。だから、いくら祈祷しても、医者を呼んでも、無駄だぞ。かく言う私を、いったい誰だと思うかな? 我こそは、かつて、菅原道真に変身していた天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)であるぞよ。

この不思議の示現(じげん)に驚き、浄蔵は、しばし加持を中止して室外へ出た。するとたちまち、時平は死去してしまった。

彼の娘の女御や孫の皇太子も、やがて亡くなってしまった。

次男の保忠(やすただ)も、同じく重病に伏す身となってしまった。病魔退散(びょうまたいさん)の加持祈祷(かじきとう)を行っている行者が、薬師経(やくしきょう)の読経の際に、「クビラ大将」(注15)と声高く読んだのが、「我が首切らん」というように聞こえ、保忠はたちまち息絶えてしまった。

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(訳者注15)十二神将(じゅうにしんしょう)の中の一神。十二神将は、薬師如来および薬師如来を信仰する者を守護する、とされている。
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三男の敦忠(あつただ)も、若くして亡くなってしまった。

時平だけならまだしも、子孫までも一時に亡くなってしまうとは・・・いやはや、まことに神罰というものは、恐ろしいものである。

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醍醐天皇の従兄弟に当たる人で、源公忠(みなもとのきんただ)という人がいたが、病の気配もなかったのに頓死してしまった。

それから3日後に彼は蘇生し、太い息を吐き出していわく、

源公忠 えらいこっちゃ! 陛下のお耳に、入れとかんならん事があるんでな、はよ、わしを扶けて、御所に連れていってくれ!

子息の信明(のぶあき)と信孝(のぶたか)に、左右の手をひかれながら、公忠は御所に参内した。

醍醐天皇 公忠、おまえは確か、数日前に・・・。

源公忠 (ワナワナと震えながら)はい、あの世に行って、また帰ってきました。まぁ、聞いて下さいませ、私は死後、「冥府庁(めいふちょう)」という恐ろしい所に行きましたんや。

醍醐天皇 ・・・。

源公忠 そこには、衣冠を正した身長1丈余りの巨人がおりましてな、金色の報告書を手にとって、次のような事を言うておりました、

 「粟を散らしたようなちっぽけな国の主・延喜帝王、時平大臣の讒言を信じ、罪無き臣下を流罪に処せり。その過失、極めて重大。速やかに冥府庁ノートにこの事実を記し、帝を、阿鼻地獄(あびじごく)へ落とすべし」。

源公忠 すると、そこに並んどる冥府の官たち・・・そうですな、30人以上おりましたやろか・・・大いに怒っていわく、

 「それはけしからん! 即刻、その罰を、帝に与えるべし!」

公忠 みな一斉に賛同ですわ。ところがその座中の第二番目の官がいわく、

 「しかし、もしも帝が、年号を改元した上で、自らの過失を謝罪する、ということにでもなったとしたら、どう処置すべきかね、諸君?」

公忠 それを聞いて、みな、考え込んでしまいました・・・その直後に、私はこの世に戻ってきたんですわ。

醍醐天皇は大いに驚かれ、すぐに、[延喜]から[延長]に年号を改元された上で、菅原道真を流罪とした公文書を焼き捨てさせ、彼の官位を元の大臣に復帰せしめた上で、位を一階上げて正二位を与えられた。

その後、天慶(てんぎょう)9年に、近江国(おうみこく:滋賀県)の白鬚神社(しらひげじんじゃ:滋賀県・高島市)の神官・神良種(みぶのよしざね)に神託が下り、さらに、京都上京の北野(きたの)において、千本の松の木が一夜にして生える、という珍事あり。そこで、北野に社壇を建てて、天満大自在天神を崇め祭ることとなった。

しかしなおも、天神の御眷属(けんぞく)・十六万八千体の神々の怒りは鎮まらなかったのであろう、天徳2年から天元5年に至る25年の間に、内裏の諸司八省は三度も焼失した。

このまま放置していたのではいかん、早く内裏の再建を、ということで、大工がその優れた技を用いて新品の柱をたてた。ところが、どういうわけか、その柱に虫食いの跡が有るではないか。その形をよく見てみると、どうやら一首の歌のように見える。

 造るとも 又も焼けなん 菅原や 棟(むね)の板間(いたま)の 合わん限りは(注16)

(原文のまま)

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(訳者注16)「棟(むね)の板間(いたま)」と、「胸の痛み」をかけている。菅原道真の胸の痛みが癒えぬ限り、何度建て直しても焼けてしまうであろうよ、という意。
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この歌をご覧になった一条天皇は驚かれ、

一条天皇 天神様はいまだに、朝廷からの謝罪を御納受して下さってないんやなぁ。これはいかん、何とかせな! よし、道真公に、正一位太政大臣(しょういちいだじょうだいじん)の官位を贈れ!

ということで、勅使が太宰府・安楽寺に赴いて、官位任命書を読み上げているちょうどその時、天から声が響いて一首の詩を詠んだ。

 過去に 内裏において 悲哀を味わい
 今や 太宰府において 屍(しかばね)となり 恥を雪(すす)ぐ
 生存中の我が怨み 死後にようやく得たこの歓び
 我はこれから どうすべきであろう
 そうだ 我が望み満たされた 今からは
 我は 帝王と国家の護り神となろう

(原文)昨為北闕蒙悲士 今作西都雪恥尸 生恨死歓其我奈 今須望足護皇基

それから後、天神の瞋(いかり)も静まり、日本国中は平穏無事になっていった。

ああ、大いなるかな、その本体は、大慈大悲(だいじだいひ)の観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)にして、弘大なる衆生救済(しゅじょうきゅうさい)の誓願(せいがん)の海は深く、衆生をあまねく運んで救いの彼岸(ひがん)へと渡す。その化身(けしん)はといえば、天満大自在天神(てんまだいじざいてんじん)、一切の人々に日々利益(りやく)を与え、一度(ひとたび)縁(えにし)を結んだ人間の願いを、その心のままに成就せしめ給(たも)う。これをもって、上は天皇から下は万民に至るまで、渇仰(かっこう)の首(こうべ)を傾けざるは無し。まことに、奇特無双(きどくむそう)の霊社である。

治暦(ちりゃく)4年8月14日、内裏再建工事に着手。後三条上皇の御代、延久(えんきゅう)4年4月15日に、天皇は再建なった新内裏へ移られた。文人は詩を献じ、楽人は曲を演奏してそれを祝った。

まことにめでたい内裏再建であったにもかかわらず、それからいくほどもなく、安元(あんげん)年間、今度は日吉山王神(ひえさんのうしん)の祟りにより、大内裏の建物は一つ残らず焼失。

その後は、国力も衰え、現在に至るまで、代々の天皇は、内裏の再建を無し得なかった。

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朝廷の臣A 内裏再建について、あんた、どない思いますぅ?

朝廷の臣B うーん・・・今はなぁ、国中の争乱もやっと収まったばかりという状態でっしゃろ。国情はまだまだ安定せぇへんし、国家経済は落ち込んどります、民の生活も、苦しいもんがあるようですよぉ。

朝廷の臣C 古代の中国においては、「もはや戦争は終わった」ということを示すために、君主が馬を花山の南に放ち、牛を桃林の野に放った、とか言う話ですがなぁ、わが国はとてもとても、まだそんな結構な状態には、なってしまへん。

朝廷の臣B それにな、あれ、なんですか、あれ! 大内裏建造の費用捻出の為、とかで、紙ででけた銭なんて、発行してもぉて・・・。

朝廷の臣A あぁ、紙幣でっかいなぁ、あれは、あきまへんわ。だいたいがやねえ、過去から現在に至るまで、わが国において、紙幣などというもんは、使うた事おまへんのや。

朝廷の臣C おまけに、諸国の地頭や御家人の所領に、租税と夫役を課さはりますしなぁ・・・。

朝廷の臣B こないな事ばっかしやってたんでは、神様のおぼしめしにも違(たが)い、驕慢(きょうまん)の発生原因作ることになってしまうん、ちゃいますやろか?

このように、眉をひそめる智臣も多かったのではあったが・・・。

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