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この時期をどう思えばいいのか、わからない。

主語デカくそ文です。あらかじめことわっておきます。
8月、お盆、終戦、花火、青春。そういうものが熱波のように押し寄せてくる。
毎年、こころのなかで考えているテーマのひとつです。

そうは言っても。
正解は、無いんだろうなあ。
マナーはあるけど人間関係わるくなっちゃおしめえよ。じゃないですか。
それをことこと煮詰めていったら、あるいは誰かの何かしらの欲望が集積し暴走したら、ああなっちゃうのかなあ。

ちなみに。
私は小学生のころに、戦争体験児のアニメを見たり、小・中学生の修学旅行で沖縄の記念館や防空壕を見たりしました。けっこう鮮烈でした。今も同じ展示をされているのかわかりませんが、自分と似たような制服が展示されているのが衝撃的でした。
大人になってから、広島で原爆ドーム(あれは近くで見ないとわからないけど、とても美しい建物だったということが伝わります)や、公園と展示を見ました。総入れ替えされちゃったけれど。変わる前に観られて、さまざまな記憶を生々しく留めておくには大事と思いました。

手塚治虫記念館に月一で通って、アニメーションを描いて遊ぶコーナー(昔はあったのです)ではしゃぎながら、一方で買ってもらった火の鳥や図書館で借りた漫画を読み漁りながら、うすく気配だけを感じ取って過ごした幼年期。

祖父、祖母は戦時中のことは日常では一切口にせず、天寿を全うしました。
ですから、私は直接の肉声として知りません。

戦前の方が、賢い人たちがいっぱいいた。という本当なのかわからない話とともに、勤勉な姿の人たちがピックアップされているのをよく見かけます。
どの時代にも、賢い人も、ぽんこつな人も、さまざま居るし、もっとめちゃくちゃな人が居たという話を聴きつつ、ぼんやり、人間って何なのだろう。って、思うのです。

人と接するということは、人を侵すこともあることを理解しつつ、つまり自己批判とともに接することが要なのかなと思っています。
それができないと、中身のある進歩にはならないんじゃないかなあって。

終わったとされるものを蒸し返すつもりはなく、ただのいち市民、一般人、個人としての私に、今年も、黙とうというものが、形式的な祈りではないという戒めを持たせています。

等身大の私、当事者ではない私、ひとことで済ませない私。
今年もわからないなりに、考えています。

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