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わかりあえないってわかっている。だから人と話しあいたい。と思った話。

正直にいうと、私はめちゃくちゃ誤解をされる。
「はじめて見かけたときは、頭がよさそうに見えたんだけどな」である。
私だって、本当に頭がよいならこんなふうな文章を書かないし、胸にそっとしまっておけるというものである。今はすこし、怒りとかなしみで筆を執っています。ほんとうによくない。

よくはないんだけど、書かずにはいられなかった。なんだか存在が無かったことにされた気がして怒っている。
昔から私は存在感が無くて、そのくせちょっとしたスキルで少し目立ってへんに期待させてしまう。知らない。私はだれかのために生きているわけじゃない。私は私のために生きてる。のちほどこのフレーズを復唱しますが多少意味が変わっているといいなと思います。

さておき。
ご指摘の数々はごもっともなものなので、どんどん挙げていきましょう。

1,ジョークが無い
何が地雷かわからないので、基本的にわかりあえたと思うまでは冗談は言いません。差別だってしたくないし。嘘か本当かがわからないのお遊びのラインも人によってちがうのでしません。人をおもちゃにしたく・されたくない。でも雑になでくり回されたい人の心情も察するので、そこはそこ。

2,笑顔も無い
人生で苦痛しかない「笑顔」について。私も素直に、正直に、無邪気に、笑顔があった時期がありましたし、いい大人になってそのふるまいをしないのはなぜかと延々考えているのですが「して当然」「しろ」という無言のメッセージを感じた瞬間から(より正確にはフラッシュバックして)めちゃくちゃしんどいのが主にひとつ。
具体的に何があったかというと、心無い人たちと心無いひとことたちに(おそらくはお読みになられた方々の想像を越えて)未だにゴリゴリと削られているのです。時折うなされます。人を損得でしか見られない人は案外多いものです。適切に安全基地を見つけて落ち着きたいですね。
社会に出ても、学校は続きますし、家庭も続くのです。ですから、ゆっくりと考えさせてください。
愛嬌というものは媚びとはちがう、わがままでかわいらしいことだと思っているのですが、それを人に出すのも苦手です。私は申し訳なく思う。勿体なく思う。貴重な、時間も、余力も、そんな。と。クソ忙しい中、私にリソースを割いてくれている人に対して二重に失礼な態度であると思いつつ、直ぐには受け取れない。これが育ち・本人次第と言われてしまうのなら、控えめに言って地獄なのですが、自分ではずいぶん疲弊してもいるし散漫な思考だと思います。現在の原因を究明中です。しばらくお時間をください。
もちろん、愛嬌を持っている人もいますし誇っている人もいます。それはギフトでも努力でもなんでもいいんですが持ちえたものということで持ててることという事実であり、少なくとも喪失したままではない他者の人生です。そこには憧れや興味深さはあるものの、感動も共感も楽しさも今の私は共有されない。されないんだけど、それはそれとして楽しんでいます。おそらく特異なのでしょう。不可解でしょうが、わかってるふうなふりをする。と決めつけないでください。お願いします。
思考を進めればいずれ人は分かたれてしまう。繊細にちがいを確認しあう。
私は物心ついたときから、ずっと、ひとりひとりにそうやって、出会いと別れを告げたり告げられたりしました。
ちがうという違和のせいで。
同じという同調のせいで。

性格のよさ、わるさ、は主観的、あるいは社会的なものと思っているので、
私はどう見えているかよくわかりませんが、温かい人でありたいと思っています。

なぜ、ひとりきりなのに、ひとと話したくなってしまうのか。
については、好奇心と、おしゃべりなだけだと思うのですが、
一般的なおしゃべりに照らすとずいぶん様子がちがうと思います。

さまざまな境界を生きるというのは、自覚してからも、ひじょうにつらいことです。たのしいこととしてとらえるのはアクがつよすぎる。
これは、生きづらさでもあるし、生きにくさでもあります。
でもこういう形の主張は山ほどあるし別段読んでほしいことでもないので次に話を進めます。

持病を持ちたくて生まれ育ったわけではない。
ああ、やっぱりな。と思われた方。偏見なので解いてください。
拒絶する・されるものとして生まれ育ったわけではないし、この手合いを話に出すと優生思想がちらつくので不快なのですが、そして役に立つものではないのでなおさら自分にとっての武器ではありません。
ただただそういうものを受け入れて生きる。というスキルに関しては磨かれたように思いますが、一方で都度強弱が変わる体調に、人間関係を築くのは毎度ながらいまだに頭を抱えています。

私の場合、診察を受けたけれど定期健診以外には医療も福祉もとくに支援はされてこなかったです。
まず、自分で働けますし、一通りの日常動作ができる(とされる範囲内にある)ので、対象ではありませんでした。
対症療法になるので、症状が悪化したときは来てねという感じ。
かといって、わるくなりたくないので(ぜったい自分がしんどいのが想像に難くない)なんとなーく、楽しく生きようとがんばっています。

おそらく、私を見ると、私ではない似たような切り取れないだれかを思い出すのだろうと想像しています。あるいは、まったく理解できない宇宙人か。
私が好かれる道化を演じないと決めたときから、かたくなさをさらに強めてしまったことは理解しています。個を認識するのはおそらく数ある点描の中からひとつを探し思い描き続けるくらいの面倒くささを持っているんだろうなって。

一般的なひとは、若くして繰り返し、記憶が欠落して困惑して嘆き苦しむことも(お酒で体験するもののイメージとは全然ちがうのですが)また予兆に不快さを持ちながら、ふいに集中しづらさが出たり、状況把握に時間がかかるのがなぜなのかわからないままということはあんまりないんじゃないでしょうか。

常識範囲に収まることが出来ないことが、自分でもつねに苦しいです。
「なおらないんでしょ」と投げかけられた言葉も覚えています。
ゆえに、「即時役に立つ」「規則」「約束」という概念とは相性がわるく、
そのため常に思考することを余儀なくされます。
とはいえ明晰な頭脳ではないのと、相談しづらさからループしたりします。
奇妙な身体です。

どうして、変われる。って思っているタイミングで干渉されるのでしょうか。いつもままなりません。

私はだれかのために生きているわけじゃない。私は私のために生きてる。



お読みいただきありがとうございます。
わかりやすくなくて、ごめんなさい。


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