絆が必要な悲しさ
「親が一人になってしまった、その気持ちを分かり合える俺たちの絆」
夜中の湖のほとりに、ラップを歌う若者たちがいた。
外出の自粛が叫ばれている。しかし、医療や流通、小売など働かなければならない人たちも大勢いる。事業への補償が不十分(ない)ために、お店を開けなければならない人もいる。頭の固い管理職のせいで、とりあえず職場に来ることを要請させられることもある。
そんな中で、マスクを買うために朝から並んでいる高齢者や街中でたむろしている若者に批判的なコメントが散見されている。新型コロナウイルスの対策としてはその批判はその通りなのだろうが、何かスッキリしないものを感じていた。
その答えは若者が紡いでいたリリックの中にあった。
スマートフォンが生活の中心になって、世界は繋がっているように感じられて、実際にはものすごく狭い自分の興味・関心を引く内容の洪水に襲われるようになっている。LINEやInstagram、ZOOMなどオンラインでのコミュニケーションは盛んになっている。それらは人と会えない現状の中では、ある種有用なツールになっている。どこでも繋がれるはずなのに、常に繋がりを求めていて安心を感じているはずなのに、わざわざ非難されるような行動に出てしまっている。
“STAY HOME”ができるのは、いろんな意味で恵まれている状況の人たちなのだ。テレワークが可能。金銭的な余力がある。家がくつろげる環境にある。つまり“STAY HOME”には、短期的な生活のゆとりが必要である。
また、DVの恐れがないこと。肉体的な暴力はなくとも、精神的に追い詰めらる環境でないこと。オンラインを使いながらも、一人でいることや家族とだけの関わりの中で、安心できる環境にあることが“STAY HOME”には必要である。
湖のほとりでたむろしていた若者たちはどうなのだろう。
密接な距離で歌を歌っている。不要不急のように見える。匿名で批判の嵐になりそうな状況である。しかし、紡いでいた言葉には、仲間と直接繋がっていなければ不安になってしまう心理が垣間見られている。“絆”のようなふわっとした耳障りのいい言葉を使っているのも、不安定な心理を支えるために“絆”が必要だと感じ、仲間と共有(仲間に強要なのかもしれない)することで、自分自身を支えている。
緊急時になるとことさら“絆”や“ONE TEAM”などが叫ばれる。さすがに今は「進め一億火の玉だ」とは言わないが、実際には同じような強い同調圧力がかかっている。そこに乗っかることのできない人はいて当然である。
普段から、みんなと一緒を求める同調圧力が日本社会には強く感じる。湖の若者のように、世間の空気に抗う人たちに対し「非国民」とレッテルをはるのではなく、社会はいろんな人がいて当然と考えるようにならなければ、“絆”を求めての徘徊は続くだろう。
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