見出し画像

東日本大震災体験(2011.3.11)その1

*2011年3月11日(金)午後3時46分

エレベーターを降りた瞬間、突然の大きな揺れを感じました。そしてその揺れは次第に大きく、そしてなかなか収まりません。その時、私は仙台市内の広瀬通の東北銀行のエレベーターホールにいました。とにかく激しく、そして「まだ続くのか?早く収まってくれ!」そんな気持ちで動けずにいました。そして、それが何なのかはわかりませんが、ホールの天井の端の方で、「バチバチ」と火花が散るのを見たのを今でも鮮明に覚えています。そして、こんな時、どこにいるのが安全なのか?頑丈なビルのエレベーターホールにこのままいた方がいいのか?いや、やはり外に出よう。そう思い、表に出ました。すべての車は止まり、近隣のビルから大勢の人が道路に出てきます。広瀬通の真ん中なら安全だと思い、前方のフォーラスビルを見ると、エレベーターの外側にあったガラスが落ちてくるのが見えました。

その日、私は、東北銀行8階にある取引先を訪問し、オフィスに戻るためにエレベーターに乗り、1階に降りた瞬間でした。もし、少しでも時間がずれていたら、きっとエレベーターの中に閉じ込められていたことでしょう。そして、私のオフィスには女子社員が一人いるだけでした。とにかくオフィスに戻ろう。一番町の商店街の人混みをかきわけ、勾当台公園のオフィスに向かいました。途中にある書店のウインドウが割れていました。オフィスは、第一生命ビルの8階です。向かいにある三越デパートからは、制服姿の従業員や買い物客が大勢公園に集まり、粉雪が降る寒い中で、ただ事態が収拾するのを待ち続けます。この人混みの中で彼女を見つけられるだろうか?と思った瞬間、女子社員とバッタリ会えたのです。聞くと、とにかく記憶にないが、階段をひたすら降りてきたと・・・。とにかくお互いに無事であることを、本社に電話で伝えました。東京に住む妻にも、何とか伝えることが出来ました。停電のため、信号は止まり、そして余震はまだまだ続きます。地下鉄の地上出口のシャッターもすでに閉鎖されています。就業時間の午後5時が近づいてきたので、もうこれでは仕事どころでは無いと思い、女子社員に帰宅するように伝えました。ところが、8階から命からがら、取るものも取れずに降りてきたため、コート、ブーツ、カバンは8階のオフィスの中です。当然、エレベーターは止まっています。私は、決心し、階段を使って8階まで行き、それらの物を取ってくることにしました。階段を上がる途中の間も、余震が続いています。本当に怖かったのを覚えています。そして、オフィスの中は、キャビネは倒れ、コピー機も離れた場所に移動しています。幸い大きな窓は割れていませんでした。実は、普段から、足腰を鍛えるため、朝だけは階段を使って8階まで上がっていたので、すぐに決断できたのでした。

女子社員は、母親とふたりで住んでいましたが、いくら電話をしてもつながりません。とにかく帰宅するように伝えましたが、地下鉄は止まっています。自宅までの距離も、道もわからないと言われました。私は、帰る道を教え、距離も約3キロだから、1時間もあれば、歩いて帰れることを伝えました。実は、その道は、私のジョギングコースでもあったのです。

女子社員を見送った後、自宅のマンションへ。オフィスから徒歩5分です。マンションに着くと、エントランスに大勢の住民が集まっていました。取り合えず自分の部屋の状況を確認するために部屋に戻りました。私の部屋は頑丈な鉄筋ビルの2階だったことも有り、奇跡的に全く損害は有りませんでした。思い起こせば、数日前に断捨離をして、本類やCDを処分していたことも幸いしました。しかしながら、当然のことながら、電気、ガス、水道は止まっています。再び1階に降り、住民の皆さんとの会話になりました。私より上の階の方々の部屋は、かなり損害があるようです。マンションの近くに、宮城県庁が有り、そこが避難所になっているという情報があり、そこへ行った方がいいだろうかという話にもなりましたが、おそらく、県庁は大勢の避難客でごったがえしいているだろうし、むしろこのマンションにいた方が安全ではないかという話になり、間もなくそれぞれの部屋に戻ることにしました。

部屋に戻ると、当然真っ暗です。そして外も、全く明かりは無く、暗闇の世界です。取り合えず、ローソクをつけましたが、あいかわらず余震が続いているため、火事の危険も有り、途中で消すことにしました。友人や親戚から携帯にメールがきます。しかし充電ができないため、返信したくても返信できない状況でした。仙台の3月はまだ寒く、暖房器具無しでは辛い時期です。取り合えず、カセットコンロでワインを温め、身体を温めました。ラジオだけが、唯一の情報源でした。そして、アナウンサーの声から何度も聞く「津波」の単語映像で見れば、現実をすぐに理解できたでしょう。しかし、音声の情報だけでは、全く理解できません。意味も、想像もできませんでした。「荒浜に遺体が・・・」と言われても、????

自宅の外は、全くの暗闇と静寂です。消防車、救急車・パトカーのサイレンだけが響きわたる世界です。

*3月12日(土)

ようやく現実を知りました。自宅は、宮城県庁のすぐ近くだったので、とりあえず、行ってみることにしました。すると大勢の方が、段ボールのうえに、横になったり座っています。ここだけは、自家発電で電気が供給されていました。そして初めて、テレビで現実を知りました。何人かの方の話を聞くと、いたたまれない気持ちになりました。秋田から就職試験のために仙台に日帰りできたという女子大生がいました。試験中に被災したそうです。もともと日帰りのつもりだったので、当然着替えの準備も有りません。あるかたは、名取の閖上に自宅がある方で、仙台に通勤している方です。「きっと自分の家は、津波で流されてないだろう、家族とも連絡が取れない・・」

いくつか臨時で用意されたコンセントがありました。携帯の充電をさせてもらおうかと思いましたが、その場にいるのがつらくなり、自宅に戻ることにしました。

女子社員とようやく連絡が取れました。自宅に帰ると、やはりマンションの中は、食器が壊れたり、片付けないと寝られない状態だったため、お母さんと二人で、避難所で一夜を過ごしたそうです。でも、避難所も、トイレや寝る場所のことを考えると、もういたくは無いと・・。もし良ければ、お母さんとふたりで、私の部屋に来ることもすすめました(夕方になって、電気が復活したため、何とか、部屋を片付けてみるので大丈夫ということにはなりました)。

午後、取引先であるJTB東北本社と仙台支店に挨拶にお伺いしました。本社では、各支店の社員の方々の安否確認を行っていました。その時点では、石巻支店の方と連絡が取れないと言われていたのを今でも覚えています。仙台支店では、地震後、自宅に帰宅できず会社に泊まった社員と、自転車で通勤できる社員の方々が、店頭に来た旅行やチケットの取り消し手続きに追われていました。

夕方ようやく電気が復活しました。このときほど、電気のありがたみを感じたことはありません。電気があれば、お湯をわかすことが出来ます。この時、水道水が使えたかどうか、記憶にはありません。取り合えず、ペットボトルを多めに持っていたので助かりました。

しかしガスが使えません都市ガスです。復活の予定が全くわかりません。それまでは毎日、朝と夜の2回、風呂に入っていましたが、それができません。取り合えず、電気ポットでお湯を沸かし、洗面器でタオルを絞り、身体をふくしかありません。

しかし、この時思ったのは、単身赴任のため、自分のことだけを考えれば良かったので、ある意味助かりました。普段から、フリーズドライの雑炊、みそ汁、冷凍の肴、缶詰を備蓄していたおかげで、当面の食事は何とかなリました。それでも、もし家族4人で一緒だとしたら、おそらく水も食料も十分では無かったと思います。

*3月13日(日)

仙台明走会のマラソン仲間の女性2人が「ひとりで部屋にいるのが怖い」ということで、私の部屋にやってきました。単身生活のため、それほど広い部屋では無いですが、取り合えず2LDKで二部屋あったので何とか過ごすことが出来ました。この時も、まだ余震が続いていたので、私もひとりでいるよりか、仲間と一緒にいられて心強かったです。

*3月14日(月)

本社に連絡したところ、東北支店としての営業が出来ないため、金融庁には「休業」の連絡はしたので、当分、待機するようにとの指示が出ました。この時、実はもうひとりの部下の課長が、結婚式出席のため、東京に帰省いたため、本社に出勤し、東北管轄の代理店の安否確認や、契約者からの問い合わせ対応をやってくれることになり、その点では、責任者である私もほっとしたのを覚えています。

そして、前日、我が家に泊まった二人は、自宅に戻り、その代わりに、同じマラソン仲間の親子3人が我が家にやってきました。母親、娘、孫の3人です。大きなリュックを背負い、自宅から歩いてやってきました。その時の様子はまだ私の頭に鮮明に記憶として残っています。まるで戦争映画でみる、疎開のようでした。

*3月15日(火)

相変わらずガスが復活しません。テレビでは、被害の状況ばかりが放映されます。そして、相変わらず余震が続いています。

そして、この日も、親子3人と一緒に過ごしました。

夕方、本社から連絡が有り「このまま私が仙台にいても復帰のめども立たないため、何とかして東京に戻るようにとの指示」でした。しかし、新幹線は止まり、仙台空港も復帰の目途はありません。どうやって東京へ戻れるだろうか?いろいろと調べると、山形まで行けば、日本海側経由のバスで東京へ帰れることがわかりました。山形までは、どうやって行こう?会社の駐車場にある営業車は無事だろうか?それが使えれば山形まで行ける。電気は復活していますが、エレベーターはまだ止まっています。再び、階段を駆け上り8階まで行き、車のキーを取って、ビルの地下にある駐車場へ。幸い、車は無事でした。

東京の娘から連絡が有り、山形から羽田の飛行機が飛んでいるということがわかりました。しかし、すでに満席です。取り合えず、キャンセル待ちにして、娘に対応を頼み、取り合えず、16日に山形まで車で行き、ホテルに1泊して、17日の飛行機のキャンセル待ちに期待することにしました。

*3月16日(水)

当分、仙台に戻るまでに時間がかかるだろうと思い、自宅にあった水や食料、トイレットペーパーすべてを、車に積み込みました。これから女子社員とマラソン仲間のところに食料を配ってから、山形へ向かうことにしました。その時、マラソン仲間から連絡が入り、自宅で風呂を使わせてくれるというのです。都市ガスは、復活していませんが、何とプロパンガスの自宅とオール電化の自宅は風呂が使えるわけです。それならというわけで、女子社員親子と別のマラソン仲間を車で迎えに行き、風呂を使わせてもらうことにしました。震災の日から5日間、誰も風呂に入ってなかったので、とても感謝されました。

そして山形に向かうことになったわけですが、何と、ガソリンが半分以下しか無いことがわかりました。ガソリンスタンドもすべてクローズです。そしていつも使っている山形自動車道も通行止め。雪が降りしきる中、一般道を山形に向かいました。

*ここまでの振り返り

10年前の記憶をたどりながら、ここまで書き進めてきました。まだまだ書きたいことがあるので、続きは次回にしたいと思います。ここまでで、私の経験から、お伝えしたいことをまとめてみました。

最近、全国で地震が頻繁しています。いつ、どこで、同じような地震が起きても不思議ではない状況です。やはり普段から、出来る限りの準備をしておくことをおすすめします。

【日頃から準備しておきたいもの】

水(2ℓ×12本)・カセットコンロ・電気ポット・ご飯パック・フリーズドライ(みそ汁・雑炊)・レトルト食品・ラジオ・ランプ(電池使用)・電池・懐中電灯・携帯用充電器(常時充電が望ましい)・ポリタンク(配給の水をもらうため)・現金(500円硬貨が多いと便利)・ 車のガソリン(なるべく常に満タン)など

【体験して初めてわかったこと】

電気が消えるということは、本当に暗闇の世界になります。いつも当たり前についている街灯、信号機、自動販売機、そして、クローズすることの無いコンビニ・・・。全ての機能が止まります。自宅に食料を持たず、コンビニを冷蔵庫代わりに使っている学生や、現金を持たず、電子マネーだけで生活している方。いつも便利に使っているものが、全て使えなくなります。取引先の知り合いのお母さまが、震災の日の夜、亡くなりました。何と、信号機が止まったことが原因で、交通事故で命を落とされたのです。





最後に 震災の教訓

単身赴任だったので、自分のことだけを考えれば良かったので、安心した。

断捨離していたおかげで、被害か無かった

車のガソリンは常に満タンにすべし

カセットコンロは必需品

非常食は必要

ランプとラジオ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?