私の反抗期【キャリコン編集部】
タイトルを見て、思わず考えこんでしまいました。正直なところ、思い当たることがないのかな・・・と。でも、じっくり思い起こせば、いろいろな思いが浮かんできました。
■父親の存在
幼少期から大人になるまで、父親がとても恐い存在でした。仕事一筋で、厳しく、口答えできないような存在でした。それでも、決して殴られた記憶は在りません。というか、怒られるのが怖くて、悪いことはできなかったというのが本音かもしれません。ドライブに行って車酔いしたときにも、怒られたのはちょっと辛かった思い出です。
父親は不器用だったと思います。私と弟を、とにかく大事に育て、愛情いっぱいだったと思います。とにかくケガをさせないよう、危ないことはさせないみたいな・・・・
その結果、学校に入ってからは、体育が一番嫌いでした。鉄棒、水泳、跳び箱・・・全て怖かったのです。なぜなら、幼稚園や小学校に入る前に、全く触った経験が無かったからです。
後から思ったことは、もっと、いろいろなことをやらせてくれていれば、臆病になっていなかったのに・・・
家族で、スポーツをした経験がひとつだけあります。父親の会社に卓球台があって、日曜日に何度か連れていってもらいました。そのおかげで、卓球だけは少しは得意になりました。
■私の反抗?
私には二人の娘がいます。娘には、私と同じ思いはさせたくないと思い、なるべくいろいろな体験をさせました。まず、段ボールでできた室内用ジャングルジムを買いました。自分が初めてジャングルジムに登った時、高くて恐かった記憶があります。そうならないよう、小さい時から慣れさせたかったのです。私は、多少けがをしても構わない、腕が折れても構わないという気持ちで、娘たちを見守りました。プールにも連れて行きました。仙台時代には、スキーにも連れて行きました。マラソンにも一緒に行き、二人とも、5キロの大会までは参加しました(それ以上は、興味がなかったみたいですが・・・)。
私は35歳から、マラソンを始めました。幼少期の運動嫌いだったことに対する「反抗」の気持ちもあったような気がします。フルマラソンを完走し、100キロウルトラマラソンも完走しました。しかし、残念ながら、父親からは褒めてもらった記憶は無く、とにかく、心配の言葉しかかけてもらえなかった気がします。
二人の娘は、中学1年の夏、それぞれアメリカに1か月間のホームステイ。高校3年時、長女はアメリカ、次女はカナダに、それぞれ1年間留学を体験しました。この時も、私の父親は、とても心配していました。長女は、日本の大学卒業後、アメリカで1年間「オペア留学」も体験しました。その後、保育士として、アメリカのシアトルへ旅立ちましたが、その際も「アメリカ人の彼ができたらどうするんだ、国際結婚は絶対に許さん」とも言われました。
父親は、2009年11月13日、78歳でこの世を去りました。晩年は、筋萎縮性側索硬化症になり、胃瘻も余儀なくされました。
父親は、私が産まれてすぐまでは、洋品店を営んでいましたが、結局店をたたみ、生命保険会社で営業一筋で、我々家族を養ってくれました。九州から京都の大学まで行かせてくれ、仕送りも送ってくれ、父親から受けた愛情に対しては感謝で一杯です。
その後、長女はアメリカ人と結婚しました。もし、父親が生きていたら、恐らく猛反対したことでしょう。おそらく、今頃、天国で怒っていることでしょう。
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